小坂 誠
 1973年7月、宮城県生まれ。右投左打。内野手。背番号00→1(ロッテ)→2・6(巨人)→32(楽天)。宮城県柴田高校から社会人野球のJR東日本東北へ進み、1997年、ドラフト5位でロッテに入団する。
 プロ1年目から走攻守揃ったプレーヤーとして注目を集め、レギュラーとして全試合に出場して打率.261、130安打、56盗塁を記録する。
 2年目の1998年には43盗塁を記録して盗塁王を獲得し、48犠打でシーズン最多犠打も記録する。
 1999年には打率.280、31盗塁を残し、42犠打で2年連続リーグ最多犠打を記録する。この年、初のゴールデングラブ賞を獲得し、以後3年連続受賞を達成する。
 2000年には33盗塁で2度目の盗塁王を獲得する。2001年にも32盗塁で5年連続30盗塁以上を達成する。
 2003年には27盗塁、2005年も26盗塁を記録する。2005年は、規定打席未満ながら打率.283を残し、日本一に貢献する。4度目のゴールデングラブ賞も受賞している。
 2006年に巨人に移籍するが、徐々に出場機会を減らし、2009年に楽天へ移籍する。楽天1年目は105試合に出場したものの、2010年には故障の影響で7試合出場に終わり、現役を引退した。

 遊撃手としての圧倒的な守備力は、プロ野球史上でも屈指と評価され、その広い守備範囲は「小坂ゾーン」として恐れられた。また打球を捕ってから投げるまでの速さとバランス感覚は超人的だった。また、優れた走力で2度の盗塁王にも輝いている。

通算成績(実働14年):打率.251、19本塁打、303打点、279盗塁、267犠打、1069安打。新人王1回(1997)盗塁王2回(1998・2000)ゴールデングラブ賞4回(1999〜2001・2005)

数々の伝説


 @新人最多盗塁記録で新人王

 小坂は、アマチュア時代、無名の存在でロッテの指名順位も5位という下位だった。
 しかし、入団後、小坂の卓越した守備力、走力が首脳陣の目に留まり、1年目から遊撃手のレギュラーを獲得する。小坂は、全試合に出場して打撃で130安打を放つ活躍を見せるとともに、遊撃手としてアウト寄与率球界1位を記録する超人的な守備と、新人で史上最多となる56盗塁を記録する活躍で、一躍ロッテの主力選手として台頭する。
 その活躍が認められ、小坂は、ロッテから23年ぶりの新人王に選出された。
 

 A松井稼頭央との盗塁王争い

 小坂は、プロ1年目に56盗塁を決めたものの、松井稼頭央が62盗塁を決めていたため、盗塁王のタイトルは逃した。
 プロ2年目の1998年には、その松井と激しい盗塁王争いを繰り広げ、10月12日の西武×ロッテ戦を迎える。
 この試合前まで小坂は盗塁43、松井は盗塁42で、小坂が1個リードしていた。この試合の7回表に小坂は、レフト前ヒットを放ち、1塁に出塁する。しかし、西武の投手は、盗塁阻止のため、まず牽制悪送球で小坂を2塁に進めようとする。これには小坂が自重したため、今度は故意のボークを犯し、小坂を2塁へ進めたのである。観客からはブーイングが起こり、ロッテ近藤昭仁監督も抗議する事態に発展した。
 小坂は、その後、果敢に3盗を挑むが、あえなく盗塁死。その裏の攻撃で松井が1、2塁からの重盗に成功して、小坂・松井ともに盗塁43個で盗塁王となった。


 B小坂ゾーン

 小坂の守備は、プロ選手の中でも卓越していた。打球へ追いつく速さ、打球方向を読んだ守備位置、グラブさばき、打球にダイビングするときのタイミングと美しさ、打球を取ってから投げるまでの速さ、打球インダイビングしてから立ち上がって投げるまでの速さ、肩の強さと送球の正確さ。
 そのどれをとっても超一流であり、ときには人間とは思えない俊敏な動きでアウトにすることもあった。
 そのため、普通ならセンター前ヒットやレフト前ヒットになっている当たりでも、いとも簡単に追いついて素早い送球でアウトにしてしまう。遊撃手でありながら二塁ベースよりも右に飛んだ当たりを飛びつかずに普通に処理してアウトにしたり、三塁手のすぐ右を抜いた打球に追いついてアウトにしたり、というのは、ごく普通にこなしていた。
 まさに人間のレベルを超越したプレーの数々を見せる小坂の守備範囲は、「小坂ゾーン」とまで呼ばれて恐れられた。


 C圧倒的なアウト数を誇る史上最高の遊撃手

 小坂の超越した守備力は、レンジファクター(アウト寄与率)という統計記録でも明らかになる。
 レンジファクターとは、(刺殺+補殺)÷試合数の値で、1試合あたり、どれだけアウトを取ったかが分かる。
 すると、小坂は、遊撃手としてプロ1年目の1997年から2003年まで7年連続でレンジファクターが球界1位である。しかも、1998年から6年連続で5以上の値を叩き出している。5以上の値は、小坂の現役期間中、セパ両リーグを通じて2年以上連続で叩き出した遊撃手すら皆無だった。並の遊撃手に比べて、1試合あたり1安打多くアウトにしているという驚異の守備である。いかに小坂の守備力が飛び抜けていたかが分かる。
 小坂は、まさにプロ野球史上最高の遊撃手であり、「日本のオジー・スミス」と呼ぶにふさわしい名手である。


 Dゴールデングラブ賞

 小坂は、1999年に遊撃手としてゴールデングラブ賞を初受賞すると、2000年・2001年と3年連続でゴールデングラブ賞を受賞する。特に2001年にはシーズン補殺492のパリーグ記録を樹立している。
 また、2002年には守備率.994というパリーグ記録を樹立したが、右足骨折の影響で出場試合数が93試合と少なかったこともあってゴールデングラブ賞獲得はならなかった。
 2005年には日本一に貢献して4度目のゴールデングラブ賞を受賞している。


 E西口をノーヒットノーラン寸前で打ち砕く

 2002年8月26日、西武ドームでの西武×ロッテ戦は、西武先発西口文也の好投により、8回まで0−6とリードを許す。そして、西口は、8回まで1四球を与えたのみのノーヒット投球をしていた。
 そして、9回表も2死となって打席に立ったのが小坂だった。小坂は、あと1人でノーヒットノーランという西口からセンター前にヒットを放ち、ノーヒットノーランを阻止する。
 西口は、その3年後の巨人戦でも9回2死から清水隆行にホームランを打たれてノーヒットノーランを逃している。


 Fロッテの日本一に貢献

 2005年、小坂は、遊撃手として西岡剛との併用ながら、118試合に出場して打率.283、26盗塁の活躍でロッテを2位に押し上げ、ロッテは、プレーオフから勝ち上がり、31年ぶりの日本一となる。
 この年、小坂は、4年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞している。
 しかし、ロッテでは西岡が遊撃手として急成長を遂げてきており、小坂の出番は、徐々に限られつつあった。
 そのため、ロッテは、小坂放出を決め、小坂獲得の意思を示していた巨人に金銭トレードで移籍することになる。


 G巨人電撃移籍と地元楽天で引退

 小坂は、ロッテが日本一となった2005年オフ、誰もが予想しなかった金銭トレードで電撃的に巨人移籍が決まる。
 巨人では、主に二塁手として起用されていたが、慣れないセリーグで打撃不振に陥り、徐々に出場機会を減らしていく。
 そして、2008年、プロ入りして初めてシーズン無安打に終わり、オフには巨人からのコーチ就任要請を固辞して、地元宮城県を本拠地とする楽天へ移籍する。
 楽天では、8月16日のロッテ戦でサヨナラ安打を放つなど、主に控えながら活躍を見せていたが、翌2010年は、椎間板ヘルニアの影響で7試合出場に終わり、その年限りで現役を引退した。


 H東日本大震災で避難所生活をしながら楽天コーチ

 小坂は、2010年限りで引退して楽天コーチとなり、仙台市から生まれ育った宮城県亘理郡山元町の実家に戻る。
 そして、3月11日、小坂がKスタで練習に参加しているとき、東日本大震災は起こった。
 幸い、家族は、高台へ避難して無事だったが、自宅は、ヘドロとがれきに埋もれる大きな被害に遭った。小坂は、避難所生活を余儀なくされ、がれきの除去作業等にあたった。楽天の本拠地仙台も大きな被害を受けており、小坂が地元の復旧活動をしながら楽天で奮闘する姿は、多くの被災者を勇気づけている。




(2011年5月作成)

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