近藤 和彦
 1936年3月、大阪府生まれ。外野手・内野手。左投左打。背番号26。京都の平安高校から明治大学に進み、1958年に大洋入り。
 1年目からレギュラーを獲得し、打率.270、13本塁打を残している。
 1960年に打率.316で初めての打率3割を記録するとともに、大洋の前年最下位からの初優勝に大きく貢献した。日本シリーズも三原脩監督の下、4連勝で日本一を決めている。
 翌1961年も打率.316を残したものの2年連続で長嶋茂雄に次いで2位に甘んじた。
 1961年には35盗塁で盗塁王を獲得している。この年、サイクル安打も達成している。
 翌1962年も打率は.293で2位だった。
 1965年には打率.308で152安打を放って最多安打を記録している。
 1967年には自己最高の打率,327を記録したものの中暁生に敗れてまたしても2位に終わった。
 1973年に近鉄へ移籍。同年限りで現役を引退した。

 天秤を担ぐようにバットを頭の上で寝かせて構える独特の「天秤打法」からセンター返しを基本とした確実なバッティングで安打を量産し、長嶋茂雄と激しく首位打者を争ったこともある。

 通算成績:打率.285、109本塁打、483打点、1736安打。159盗塁。盗塁王1回(1961)最多安打1回(1965)ベストナイン7回(1960〜1965・1967)


数々の伝説


 @天秤打法

 近藤の特徴と言えば、天秤打法である。天秤の棒を担ぐようにバットを頭上に高く掲げ、上下に揺らしながらタイミングを取る。そこからシャープなスイングでヒットを放つ。
 プロに入るまで、近藤の打法は、いたって普通の構えであったという。天秤打法は、先輩の青田昇に非力を克服するために構えを工夫するように助言され、いろいろ試しているうちに剣道の構えから生み出したといわれている。最初の構えは、あたかも剣道の上段のそれに近いものがある。この構えは、「円月殺法」という別名でも呼ばれた。
 普通の感覚からはとても打てそうにない打法ではあるが、近藤にとってはこれ以上タイミングの取りやすい構えは他になかったそうである。
 

 A4度の打率2位

 近藤は、優勝した1960年に打率.316ながら長嶋茂雄の.334に敗れて打率2位となった。そして、翌年も打率.316を残したものの長嶋茂雄の.353に敗れて2位。
 そして、1962年は.293で、.288の長嶋茂雄に勝ったものの、広島の森永勝也の.307に敗れてまたしても2位に沈んだ。
 3年連続で打率2位となった選手は、また近藤だけしかいない。
 近藤は、1967年にも首位打者争いに加わる。近藤は、自己最高の.327を残したものの、中暁生が猛烈なラストスパートを見せて.343を残したため、近藤は振り切られて4度目の打率2位に終わった。
 結局、近藤は、一度も首位打者を獲ることなく現役を終えている。


 B大洋の初優勝に貢献 

 1960年の大洋は、三原脩監督を迎え、投手力を整備して快進撃を続ける。前年は49勝77敗で最下位に沈んでいたため、誰も優勝争いをするとは予想していなかった。
 相変わらずチーム打率は.230と悪かったが、近藤はそんな中で打率.316、7本塁打、55打点、20盗塁を記録し、貧打線を引っ張った。打率は、長嶋茂雄に次いで2位という好成績だった。
 大洋は、三原監督の巧みな采配で他のチームを圧倒し、何と70勝56敗3分で球団創設以来初のリーグ優勝を成し遂げる。
 この優勝は三原マジックによる「奇跡の優勝」と騒がれたが、日本シリーズも奇跡的な勝ち方をした。初戦を1−0で勝つと第4戦まですべて1点差で勝って4連勝。わずか1年の間に最下位から日本一になってしまったのである。


 C鈍足の盗塁王

 近藤は、1961年に35盗塁を決め、盗塁王を獲得しているが、足は速いわけではなかった。むしろ遅い方で、近藤には「鈍行列車」と「コンドウ」の逆読みからきた「ドンコ」という愛称も付けられていた。
 しかし、近藤の先の塁を盗む姿勢とその技術は優れており、1960年に20盗塁を記録すると、1961年には35盗塁で鈍足なのに盗塁王となってしまったのである。
 近藤は、現役時代159もの盗塁を決めている。 


 Dベンチへ返った一塁手

 1965年8月27日の巨人戦の2回2死、巨人の土井正三は、高橋重行投手のカーブにタイミングが合わず、空振り三振した。しかし、打球はワンバウンドしたため、土井は1塁へ走り出した。三振振り逃げを狙ってである。
 キャッチャーは、慌てて1塁へ送球しようとしたが、1塁には誰もいなかった。この試合で1塁を守っていた近藤は、三振で既に3アウトになったと思ってベンチに戻っていたからである。
 こうなると、土井は、誰もいない1塁に駆け込んでセーフとなった。


 E無効のホームラン

 1966年5月10日に川崎球場で行われた阪神戦で1−4とリードを許していた大洋は、9回裏1死から阪神のエース、バッキーを攻め立てて伊藤勲・重松省三の2者連続本塁打で同点とした。
 そこでバッターボックスに入ったのが近藤だった。近藤はバッキーの3球目をレフトスタンドへ運ぶ。逆転サヨナラ本塁打だ。誰もがそう思った。
 しかし、盛り上がったのも束の間。実は、このとき阪神のライト藤井弘がタイムを要求し、審判がタイムを宣告していたというのだ。興奮したスタンドのファンがグラウンドにゴミを投げ込んだので、それを片付けるためにタイムをとったのである。
 かくして、近藤のサヨナラ本塁打は幻と化してしまった。
 打ち直した近藤は、結局投手ゴロに終わり、試合も10回表に決勝点を奪った阪神に敗れている。




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