小宮山 悟
1965年9月、千葉県生まれ。右投右打。投手。背番号14(ロッテ)→27(横浜)→17(メッツ)→14(ロッテ)。芝浦工業大学柏高校から2浪して早稲田大学へ進学し、エースとして通算20勝を挙げる。1990年にドラフト1位でロッテに入団する。
 プロ1年目の1990年から先発投手として活躍し、6勝10敗ながら防御率3.27という安定した成績を残す。
 2年目には早くも10勝を挙げてロッテの主力投手となり、3年目の1992年には開幕投手を務める。
 1993年には12勝14敗で2度目の2桁勝利を挙げる。
 1995年にはバレンタイン監督が就任してチームが躍進し、11勝4敗、防御率2.60の好成績を残して、ロッテを10年ぶりAクラスとなる2位に押し上げた。
 1997年には11勝9敗、防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを獲得する。1998年にも11勝を挙げ、リーグ最多の10完投を記録する。
 2000年には大リーグ移籍を迷った末にFA宣言せずに横浜に移籍し、1年目に8勝を挙げると、2001年には12勝9敗、防御率3.03の好成績を残す。
 2001年のオフ、FA宣言により、大リーグのニューヨーク・メッツへ移籍する。大リーグでは故障と先発機会に恵まれなかったこともあって、0勝3敗に終わり、その年限りで帰国する。
 2003年は、FA宣言時の補償金がネックとなって浪人生活を送り、2004年、バレンタイン監督が就任した古巣ロッテへ復帰して3勝を挙げる。
 2005年に中継ぎ投手としてロッテの日本一に貢献すると、2007年4月には40代で2試合連続勝利投手という史上2人目の快挙を達成する。
 2009年は、シーズン中盤から2軍調整が続き、その年限りで現役を引退する。引退試合となった2009年10月6日の楽天戦では44歳21日の史上最年長セーブを記録した。

 ゴーグルをして少し背を曲げる独特のセットポジションからほぼすべての球種を使い、内外角の低めに投げ分ける投球術で打者を翻弄し、ロッテの投手陣を長年支え続けた。その卓越したコントロールは、精密機械の異名を持ち、屈指の頭脳派投手としてセパ両リーグで2桁勝利を挙げている。

通算成績(日本18年):117勝141敗4S、防御率3.71、1533奪三振。最優秀防御率1回(1997)
(大リーグ1年)0勝3敗、防御率5.61、33奪三振。
(日米計19年)117勝144敗4S、防御率3.74、1566奪三振。


数々の伝説


 @ゴーグル

 小宮山のトレードマークと言えば、マウンド上でしているゴーグルである。
 小宮山がマウンド上でゴーグルをするようになったのは、1992年からである。この年、ロッテは、本拠地を千葉マリンスタジアムに移したが、この球場は、浜風が強く、他球場とは比にならないほど風や砂が舞うため、コンタクトレンズの小宮山にとって悪影響を受けやすかった。
 小宮山は、他の選手のゴーグルを借りて投球してみたところ、風の影響を受けることなく完封勝利を挙げたため、その後、常にゴーグルをつけて投球するようになったという。


 Aバレンタイン政権下で躍進

 1995年、ロッテ監督に大リーグで監督を務めた経験を持つボビー・バレンタインが就任する。バレンタインは、大リーグ式の分業制を徹底し、投手や野手に無理をさせず、故障を避ける起用法で実力を存分に発揮させた。
 ロッテは、前年まで9年連続Bクラスという惨状だったが、この年は、バレンタインの指導によりチームが変わり、2位に躍進する。小宮山も、バレンタインの信頼を得てローテーション投手の中心として活躍し、11勝4敗、防御率2.60の好成績を残した。
 特に語り草となっているのは、オリックスの地元優勝がかかる神戸での直接対決3連戦でロッテが3連勝を成し遂げてオリックスの地元優勝を阻止したことである。小宮山は、この3連戦の2戦目に先発し、7回1/3を4安打1失点に抑えて、3−1で勝利し、ロッテファンを溜飲を下したのである。


 Bチームが最下位でも最優秀防御率

 小宮山は、プロ1年目から先発投手としてほぼ毎年安定した成績を残していたが、チームが弱小だったため、なかなかタイトルに手が届かなかった。
 小宮山がタイトルを獲得したのは、1997年である。この年は、バレンタイン監督が辞任して2年目であり、ロッテは、元の弱小チームへ戻ってしまっていた。そのため、チームは、借金19の最下位に沈んだが、小宮山はエースとして安定した投球で11勝を挙げ、防御率2.49で2位だった岡本晃の2.82に大差を付けて最優秀防御率のタイトルを獲得する。


 Cロッテの連敗を18で止める

 1998年6月13日、小宮山は、オリックス戦に先発して5失点で降板し、試合も4−6で敗れる。これがロッテ18連敗の始まりだった。
 ロッテには小宮山と黒木の両エースがいたが、6月が終わっても連敗は止まらなかった。7月5日にはダイエーに敗れて日本タイ記録となる16連敗を記録する。7月7日のオリックス戦では8回までリードしながら9回に同点に追いつかれ、延長12回にサヨナラ負けを喫して日本新記録の17連敗、さらに7月8日も敗れて18連敗を喫したのである。
 この間、小宮山も、好投するものの援護に恵まれなかったり、守備に足を引っ張られたりで勝つことはできなかった。
 そして、7月9日、小宮山は、オリックス戦に先発し、5回までに9点の援護をもらう。それでも、6回に硬さが出て5失点し、9−6まで追いあげられるも、小宮山は、続投した。頼れる中継ぎや抑えがいない当時のロッテは、小宮山にすべてを託すしかなかったのである。小宮山は、14安打を浴びながらも必死に9回を投げ切り、9−6でロッテの連敗を18で止めた。


 Dセパ両リーグで2桁勝利

 1999年オフ、小宮山は、メジャー挑戦を断念して横浜に入団する。移籍に前向きな小宮山に対してロッテは非情な戦力外通告を行い、小宮山は、大リーグと他球団移籍を迷った末、横浜移籍を決めた。
 ロッテでは1991年の10勝に始まり、5度の2桁勝利を挙げるなど、エースとして君臨してきた小宮山は、横浜でもその実力を発揮する。1年目は3完封を記録しながら8勝に終わったが、2年目には開幕試合の先発に抜擢され、史上12人目のセパ両リーグでの開幕投手となる。そして、シーズンでもエースとして12勝9敗、防御率3.03の好成績を残し、セパ両リーグでの2桁勝利を達成したのである。


 Eメジャーでは悲運

 2001年オフ、小宮山は、大リーグのニューヨーク・メッツに入団する。メッツでは小宮山が慕うボビー・バレンタインが監督に就任しており、もう1度バレンタインの下で野球がしたい、という想いが大リーグ挑戦を決断させたのである。
 小宮山は、大リーグで開幕からベンチ入りを果たし、中継ぎ投手としてスタートを切ったものの、4月15日に自宅ガレージのシャッターで右手中指を負傷して故障者リスト入りする。
 5月に復帰し、まずまずの投球を続けていたが、6月に調子を崩し、3Aに降格する。その後は、大リーグと3Aを行き来する状況となり、結局、0勝3敗、防御率5.61と本来の実力を発揮できないまま、退団することとなった。


 F1浪して日本プロ野球復帰

 2003年、小宮山は、大リーグ球団との契約を模索したが、獲得に動く球団がなく、日本球界復帰を模索することとなる。しかし、FA移籍による古巣横浜への補償金1億7500万円が必要となるため、日本の球団は、小宮山獲得には動かなかった。肝心の横浜も、若手起用優先を打ち出していたため、横浜復帰も叶わず、小宮山は、半ば引退状態に追い込まれる。
 小宮山は、その年、野球評論家として活動するが、現役選手としての待遇の格差に愕然とし、現役選手でいられる幸福を知ることとなる。
 現役続行を望みながら1浪生活を送った小宮山に転機が訪れる。2004年から恩師ボビー・バレンタインが監督に就任することになり、かつて決別したロッテが獲得に動いたのである。小宮山は、過去を水に流してロッテ復帰を決断する。
 そして、復帰2年目の2005年にはバレンタイン監督の下で貴重な中継ぎ投手としてロッテの日本一に貢献するのである。


 Gシェイクボール

 小宮山は、新球の開発にも力を注ぎ、2005年、シェイクボールを完成させる。このボールは、80キロから90キロで一旦浮かんでから左右に大きく揺れながら落ちるという魔球である。
 2006年5月6日のオリックス戦では、2ー11と大量リードを許した9回表の2死無走者で日高に対してカウント1−0から4球続けてシェイクボールを投げている。
 1球目が低めに外れるボール。2球目は内角真ん中に見逃しのストライク。3球目は外角低めにボール。そして、2−2となった4球目を内角低めに決め、日高を空振り三振に打ち取ったのである。これにはファンも、スタンディングや拍手で歓喜し、小宮山も、マウンドを降りるとき、帽子をとってそれに応えている。
 それ以外にも、ごく稀にシェイクボールを公式戦で使用して話題を呼んでいる。ただ、投げそこなった場合は、単なるスローボールとなってしまう危険を伴い、2006年5月21日の西武戦ではシェイクボールが全く揺れずに真ん中高めに入るスローボールとなり、中村剛也にレフトポール際へ本塁打を浴びている。


 H精密機械

 小宮山最大の特長は、正確なコントロールと多種多彩な変化球であり、ナックルボール以外の球種はすべて投げることができる上に、どの球種でもストライクをとることができた。常に内外角の低めに変化球を集められるそのコントロールは、「精密機械」と評され、1998年には201回2/3を投げて四球はわずか27である。
 そのため、球威や球速は、ロッテで同僚だった伊良部秀輝や黒木知宏より大きく劣りながら、同等の成績を残すことができた。その上、投球術は、年々磨きがかかり、1997年には防御率2.49で最優秀防御率に輝いてもいる。
 小宮山が先発で活躍していた頃、小宮山を江夏豊が現役最高の投手と評し、イチローも、最高の頭脳派投手としてその実力を認めていた。


 I引退試合で最年長セーブ

 小宮山は、2004年にロッテに復帰してからは、バレンタイン監督の下で当初は先発をこなし、2005年からは貴重な中継ぎ投手として2005年の日本一に貢献するなど、安定した活躍を見せていた。しかし、2009年、小宮山は、シーズン序盤から不調に陥り、シーズン中盤からは2軍で調整することとなり、小宮山は、その年限りの引退を決断する。
 そして、引退登板は、2009年10月6日の楽天戦で、長年苦楽を共にしたバレンタイン監督最後の試合でもあった。5−2で9回2死2塁の場面で登板した小宮山は、1球でセギノールをライトフライに抑えてセーブを記録する。これは、史上最年長の44歳21日でセーブという日本新記録だった。





(2010年6月作成)

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