小松 辰雄
 1959年5月、石川県生まれ。投手。右投右打。背番号34→20。星陵高校では3度甲子園に出場し、1976年夏には石川県初のベスト4進出を果たす。1978年にドラフト2位で中日に入団。
 2年目に頭角を現し、剛速球を武器に6勝9敗16セーブ、22SPを残す。当時、導入されたばかりのスピードガンで日本球界随一のMAX154キロを記録し、注目を集めた。
 1981年には先発とリリーフをこなして12勝6敗11セーブ、15SPの好成績を残し、初めて規定投球回に達した。
 1982年には内転筋の故障で戦線離脱しながらも何とか4勝4敗9セーブ、12SP、防御率2.61を残して中日のリーグ優勝に貢献し、胴上げ投手となる。
 翌年からは先発に転向し、1984年には星野仙一の背番号20を受け継いで、エースとして11勝6敗2セーブの堂々たる成績を残す。
 そして、1985年には17勝8敗1セーブ、防御率2.65、172奪三振で最多勝、最多奪三振、最優秀防御率の3冠に輝いた。沢村賞とベストナインにも選出されている。
 1987年にも17勝6敗の成績で2度目の最多勝にも輝き、6完封でリーグ最多完封も記録したが、チームは惜しくも2位となった。
 1988年には12勝7敗の成績を残してチームのリーグ優勝に大きく貢献した。
 1989年以降、故障や球威の衰えからやや低迷するものの、1992年には9勝、1993年には7勝を挙げるなど、ベテランの投球術で勝ち星を積み重ねた。
 しかし、1994年、内転筋の故障によってシーズン1勝に終わり、現役を引退した。

 スピードガンの普及と同時期に現れ、MAX154キロの重い剛速球を武器に先発でも抑えでも活躍を見せた。数々のタイトルを獲得し、中日のリーグ優勝にも2度貢献した1980年代のエースである。

 通算成績(実働17年):122勝102敗50セーブ73SP、防御率3.44、1446奪三振。最優秀防御率1回(1985)最多勝2回(1985、1987)最多奪三振1回(1985)沢村賞1回(1985)ベストナイン1回(1985)
数々の伝説

 @甲子園に3度出場

 小松は、石川県星陵高校のエースとして3度甲子園に出場している。1976年夏、1977年春、1977年夏である。
 高校生離れした剛速球を武器に、1976年夏は、初戦の日体荏原を1−0で破ると、天理も3−2で破り、ベスト8に進出する。そして、準々決勝でも息詰まる投手戦の末、1−0で豊見城を破り、ベスト4に進出した。準決勝では桜美林に1−4で敗れたものの、それまで弱小だった石川県にとって、甲子園ベスト4は、過去最高の成績だった。
 小松は、1977年には春夏連続で甲子園に出場したものの、春は初戦で滝川に0−4、夏は智弁学園に初戦で1−2でいずれも敗退し、石川県に大旗を持ち帰ることはできなかった。


 Aスピードガンの申し子

 小松がプロ入りした1978年、プロ野球界は、初めてスピードガンを導入した。だが、全球団がスピードガンを導入したのは翌1979年からだった。
 その1979年に小松は、このスピードガンによって150キロを超える剛速球を投げていることが判明し、一躍時の人となった。小松が投げた最高球速は154キロで、この当時、小松に次ぐのは、中堅の域にさしかかりながらもMAX149キロを誇っていた村田兆治だったが、150キロを超える剛速球を投げられるのは小松だけだった。
 そのため、小松は、世間から「スピードガンの申し子」と呼ばれ、その知名度を味方につけてリリーフエースの座に納まる。そして、この年、6勝9敗16セーブ、22SPの好成績を残して、その実力を知らしめたのである。
 そんな小松の剛速球を生む最大の源は、群を抜く背筋力で、測定器によっては針を振り切ってしまうものもあったという。


 Bリリーフから先発に転向

 1982年、小松は、内転筋の故障のため、前半戦をほとんど棒に振り、中日は守護神不在の苦しい戦いを強いられる。それでも、若手の好投手牛島和彦が台頭し、小松が抜けた穴を見事に埋める活躍を見せる。
 故障から戻った小松と牛島でダブルストッパー状態となったが、最終戦に小松が完封して胴上げ投手となったことで、球団は、小松が先発、牛島が守護神という方針をとった。
 その方針は、見事にはまり、小松は最多勝2度を獲得する大投手となり、牛島もセーブ王を3度獲得する名ストッパーとなっていくことになる。


 C星野仙一の背番号20を受け継ぎ、背番号34は山本昌広へ

 入団以来、背番号34を着けてきた小松は、1984年、ついに中日のエースナンバー20を受け継ぐことになる。それまで背番号20を着けていた星野仙一が1982年限りで現役を引退し、1年間空番になっていたが、1983年に先発に転向し、エースとしての道を歩み始めた小松が栄光の背番号20を背負うことになったのである。
 かつては杉下茂、権藤博が着け、星野仙一と受け継がれてきた中日のエースナンバーである。小松は、この背番号20という重荷に負けることなく、さらに輝きを増し、1985年には17勝を挙げてほとんどのタイトルを獲得し、沢村賞投手となった。
 ちなみに、それまで小松が着けていた背番号34は、この1984年に新人として入団してきた山本昌広が受け継ぎ、左のエースとして大投手への道を歩み始めることになる。


 D1982年リーグ優勝の胴上げ投手

 1982年は、史上稀に見る混戦となった。中日と巨人が終盤まで激しいデッドヒートを繰り広げたのである。
 この年、打線では田尾安志、モッカ、中尾孝義、平野謙らが活躍し、投手陣も鈴木孝政、都裕次郎、牛島和彦らの踏ん張りで首位争いに食い込んだ。しかし、小松は、獅子奮迅の活躍が期待されながら、故障で前半戦のほとんどを離脱しており、前年より14試合登板が減って、それほど成績も伸びていなかった。
 しかし、マジック1で最終戦となった最も重要な試合で小松は、完璧な投球を見せる。10月18日の大洋戦である。
 この試合で小松は、開幕戦以来の先発のマウンドに立つ。この日の小松は、剛速球が冴え渡り、大洋打線を寄せ付けなかった。味方打線も2回に1点、3回に4点、7回に3点と効果的に点を取り、小松は、9回をわずか2安打で完封する。最後の最後で小松らしさを見せ、胴上げ投手となったのである。中日の成績は、64勝47敗19引分で、2位の巨人とは0.5ゲーム差という僅差での優勝だった。


 E沢村賞

 1985年の小松は、先発投手としての勲章をほとんど手にする年となった。
 210イニングを投げ、17勝8敗1セーブ4SP、防御率2.65、172奪三振という圧倒的な成績を残したのである。シーズン途中、2度の故障に悩まされるも、短期間で戦列に復帰し、エースの重責を果たした。
 小松は、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の3冠を獲得し、ベストナインにも選出される。さらに14完投を記録した先発としての力量も評価され、沢村賞も獲得した。
 しかし、この年、チームで2桁勝利は、小松のみで、優勝争いに絡むことができず、5位に低迷した。小松は、まさに孤軍奮闘した1年だった。


 Fエースとしてリーグ優勝

 1985年、1987年と小松が最多勝を獲得しながら優勝には届かなかった中日は、1988年、ようやくリーグ優勝を達成する。
 エースは、依然として小松だった。中日は、前年に星野仙一が監督に就任して、郭源治をストッパーに転向させ、落合博満、小野和幸らを獲得して戦力を整えていた。
 小松は、開幕投手となったもののその試合で右肘を傷めて離脱する。しかし、5月18日に小松が復帰するとチームは、力を取り戻し、オールスター後には首位に立つ。後半戦、首位を独走した中日は、2位に12ゲーム差をつけてリーグ優勝を達成する。小松も、順調に勝ち星を重ね、12勝7敗の好成績を残し、エースとしての役割を果たした。
 小松は、西武との日本シリーズの第2戦で先発し、6回3失点に抑え、勝利に貢献したが、チームは第2戦の勝利のみの1勝4敗で日本一を逃した。


 G引退試合はイチローとの対決

 愛知県に住んでいた少年時代のイチローは、エースとして活躍する小松を見て育ち、中高生時代には投手として小松に憧れていたという。
 1994年にオリックスで突如、シーズン210安打、打率.385を記録してスターとなったイチローだが、くしくも小松は、この年限りで引退を決意した。しかし、小松の引退試合となる翌年のオープン戦で、ついに小松とイチローの対戦が実現する。
 1995年3月26日、オープン戦ながら、全力での直球勝負を選んだ小松に、イチローもまた真剣勝負で応え、結果は、イチローが二塁打を放って引退に花を添えた。
 また、星陵高校の後輩である松井秀喜は、1993年にプロデビューしており、わずか2年間だけの重なりではあったが、公式戦での対決を実現させている。




(2006年10月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system