駒田 徳広 
 1962(昭和37)年9月、奈良県生まれ。左投左打。背番号50(巨人)→10(巨人・横浜)。1981年に桜井商高からドラフト2位で巨人入団。1983年の一軍デビュー戦でいきなり初打席満塁本塁打(史上初)を放った。その後、幾度も満塁本塁打を放ち、「満塁男」の異名をとることとなる。
 最初は、投手として入団するが、高校通算43本塁打の打撃センスが認められて、すぐに野手に転向。中畑がいたため、外野を守っていたが、のちに一塁手に転向。
 1987年に初めて打率3割を突破し、巨人のリーグ優勝に貢献。以降、5度3割以上の成績を残している。
 1989・1990年のリーグ二連覇にも貢献。特に1989年は、5割を超える打率を残して日本シリーズMVPを獲得している。
 1993年、フリーエージェントを行使して横浜に移籍し、マシンガン打線の中核として恐れられる。
 1998年にはシーズン81打点の活躍で横浜のリーグ優勝と日本一に貢献。
 2000年には2000本安打と2000試合出場を果たしたが、その年限りで現役を引退。
 大柄な体ながら器用なミート力を持ち、とんでもない高めの球や地面に着くほどの外角低目のボール球を豪快に本塁打や安打にできた。また一塁ライン際に強い守備の名手としても知られ、ゴールデングラブ賞は10回にのぼっている。
 通算満塁本塁打数は、1994年〜1999年までの6年連続を含めて13本を記録している。これは王貞治の15本、藤井康雄の14本に次いで歴代3位の記録である。
 通算成績:打率.289、195本塁打、953打点、2006安打。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞10回。
数々の伝説

 @満塁男

 1983年4月10日、巨人×大洋戦で、駒田は7番で一軍の試合にデビューすることとなった。
 1回から巨人は大洋先発の右田一彦を攻撃し、7番駒田に回ってきたときは満塁だった。
 駒田は、右田のカーブを叩き、打球は右翼席中段へ吸い込まれる満塁本塁打となった。この初打席満塁本塁打は、プロ野球史上初の快挙であった。
 駒田は、その後も満塁本塁打を量産し、いつしか「満塁男」との異名をとるようになった。1994年から1999年までは6年連続満塁本塁打という記録も達成している。
 そして積み上げた満塁本塁打数は実に13本。これは江藤慎一の12本を抜き、王貞治の15本、藤井康雄の14本に次ぐ歴代3位の記録である。


 A史上最大の暴言に、怒りの日本シリーズMVP

 1989年、巨人はリーグ優勝を果たし、日本シリーズで近鉄と対戦することとなった。
 前評判では圧倒的に巨人有利とされていたが、始まってみると巨人は投手陣と主砲原辰徳の不調などで3連敗を喫する。
 特に第3戦では巨人打線を6回0封し、勝ち投手になった近鉄の加藤哲郎投手が「巨人は、ロッテより弱いですよ」と試合後のヒーローインタビューで発言。
 ロッテは、その年のパリーグで48勝しかできず、最下位に甘んじていた。
 加藤の発言に対し、巨人の選手たちは激怒。
 第4戦では、その怒りを試合にぶつけ、4×0で香田が近鉄を完封。第5戦ではそれまでノーヒットだった原が奇跡の満塁ホームラン。
 第6戦も勝って逆王手をかけた。
 そして、第7戦。駒田が加藤から値千金の先制ソロホームラン。このとき、加藤に向かって「バーカ」と言ったという伝説があるが真相は不明である。その試合では原・中畑・クロマティといった主力選手に軒並み本塁打が出て8×5で勝利。3連敗からの4連勝で日本一となった。
 駒田は、このシリーズ打率.522、1本塁打、5打点という活躍を見せ、MVPに輝いている。


 Bフリーエージェント宣言で巨人を出る

 1993年、日本のプロ野球で初めてフリーエージェント制が施行されることになった。
 最初にフリーエージェント宣言したのは4人で、落合博満、松永浩美、槙原寛己そして駒田だった。
 このうち、槙原は、宣言したもののそのまま巨人に残留するというFA残留をしたが、駒田は、巨人を出て横浜に移籍。
 多くの選手が巨人に入りたがる中、FA宣言によって巨人を出た選手は駒田が初めてである。
 そのため、駒田は、「変わった選手」というレッテルを貼られることになった。


 C無冠ながら2000本安打の金字塔

 駒田は、レギュラー獲得以降も常に3割前後の好成績を残しているが、タイトルには縁がなかった。
 打率は、1988年の.307での4位が最高で、本塁打は27本打った1992年の7位が最高である。打点も83打点を挙げた1990年の4位が最高となっている。
 これらの記録を見てみると、タイトル獲得はおろか、タイトル争いにも全くと言っていいほどからんでいない。
 2000本安打以上放っている選手としては珍しい事実である。


 D無念の引退

 2000年、2000本安打を達成した駒田だが、その年の成績は低迷。権藤監督が駒田に代打を送ったことで駒田が試合途中に帰宅して、二軍降格を言い渡されたりもした。
 9月下旬にはついに横浜から戦力外通告を受けた。しかし、駒田は、まだやれる自信がある、と現役続行を希望。シーズン終了後は、自由契約となって契約先を探すこととなった。
 しかし、翌年の1月になっても他球団からの誘いがなく、引退を決意した。 



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