小久保 裕紀
 1971年10月、和歌山県生まれ。右投右打。内野手。背番号9(ダイエー)→6(巨人)→9(ソフトバンク)。星林高校から青山学院大学へ進み、バルセルナ五輪日本代表として活躍して銅メダルを獲得する。1993年には大学野球日本一に輝く。
 1994年、逆指名によるドラフト2位でダイエーに入団する。
 1年目は78試合に出場し、6本塁打を記録する。2年目の1995年にレギュラーを獲得すると、打率.286、28本塁打、76打点で本塁打王に輝く。また、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出される。
 1997年には打率.302、36本塁打、114打点の活躍で打点王を獲得し、2度目のベストナインに選出される。
 1998年は、集団脱税事件への関与が発覚して8週間の出場停止処分を受け、さらに右肩の故障もあって17試合出場にとどまる。
 1999年には復活して、24本塁打を放ち、ダイエーの初優勝に貢献する。2000年には31本塁打を放ってダイエーのリーグ2連覇に貢献する。
 2001年には自己最高の44本塁打、123打点の好成績を残す。
 しかし、2003年3月のオープン戦で右膝前十字靭帯断裂などの大怪我をして、シーズンを棒に振る。その年のオフに巨人への電撃トレードが成立する。
 巨人では1年目から打率.314、41本塁打で復活を果たしてカムバック賞を受賞。2005年も34本塁打を放つ活躍を見せる。
 2007年にはFA権を行使して、古巣のソフトバンクへ移籍する。
 2010年には打率.279、15本塁打でソフトバンクのリーグ優勝に貢献して3度目のベストナインにも選出される。2011年にも打率.269、10本塁打でソフトバンクのリーグ2連覇に貢献する。そして、中日との日本シリーズでは打率.320を残して日本シリーズMVPを獲得する。
 2012年6月、通算2000本安打を達成し、その年限りで現役を引退した。

 すくい上げるように振り抜くスイングでレフトを中心に高く美しい軌道の本塁打を放つスラッガーである。ホークスを弱小時代から支えて、ダイエーの初優勝、ソフトバンクの初優勝にチームリーダーとして大きな貢献をした。

通算成績(実働18年)打率.273、413本塁打、1304打点、2041安打。本塁打王1回(1995)打点王1回(1997)ベストナイン3回(1995・1997・2010)ゴールデングラブ賞3回(1995・2010〜2011)カムバック賞(2004)日本シリーズMVP1回(2011)


数々の伝説


 @イチローの三冠王を阻止する本塁打王

 1995年は、イチローが三冠王を獲得するペースで活躍していた。プロ2年目の小久保は、この年からレギュラーを獲得すると、シーズン半ばから四番打者としてチームを牽引する存在にまでなる。
 小久保は、この年、全試合に出場し、打率と打点ではイチローに及ばなかったものの、本塁打はイチローの25本をしのぐ28本を記録し、本塁打王を獲得する。


 A選手生命を脅かすほどの怪我

 2003年3月6日、小久保は、当初欠場予定だった西武戦に出場する。同じパリーグの投手と対戦しておきたい、という希望があったからだ。
 しかし、4回裏、1塁ランナーとして松中の二塁打で本塁を狙った小久保は、果敢に足からスライディングした。ところが、捕手と正面から交錯して右足に捕手の全体重を受けてしまった。そのとき小久保の右膝靭帯は2本断裂していた。右膝の前十字靭帯断裂、内側靭帯損傷・外側半月板損傷、脛骨・大腿骨挫傷という全治6か月の重傷だった。診察した医師からは、復帰すら保障されなかった。
 小久保は、単身で渡米したが、球団の対応は冷たかった。すべて自己負担によって手術とリハビリ費用2000万円を払い、2004年に復帰を目指すことになる。


 B巨人への無償トレード

 2000年代のトレードで最も世間を騒然とさせたのが小久保の巨人無償トレードだった。小久保は、ダイエーの主砲として2度の優勝に貢献した功労者であったにもかかわらず、放出されてしまったのである。その原因としては、当時の球団オーナー代行との確執と故障、そして、ダイエーの球団財政がひっ迫しているという裏事情もあった。くしくも、この年、ダイエーが小久保抜きで日本一になったことで、球団が小久保を放出しやすくなったという外部要因もあった。

 小久保の移籍先としては、当時のダイエーオーナーと巨人オーナーのと間で話がまとまり、巨人へ無償トレードという形で移籍することになる。
 これほどの一流選手が無償トレードで移籍すること自体、前代未聞であり、巨人へ移籍した小久保は、移籍1年目から打率.314、41本塁打を放つ活躍を見せることになる。


 Cソフトバンクへの復帰

 小久保は、ダイエー退団の会見で、機会があれば福岡に戻ってくる、という旨の発言をしている。しかし、ダイエーは、2004年11月に経営の自主再建を断念して、ソフトバンクへの身売りが決まる。それでも、そのまま王貞治が監督として留任し、チームとしてはそのまま引き継がれることになった。
 小久保は、巨人で3年間にわたって活躍してきたが、2006年にFA権を取得したことにより、ソフトバンクへの復帰が現実味を帯びてきた。その年のオフにFA宣言した小久保は、恩師王貞治の意向とも一致し、ソフトバンクへの復帰を決める。トレードで放出された選手がFA宣言で古巣に戻るという極めて異例の移籍となった。


 D日本シリーズMVP

 2012年のソフトバンクは、圧倒的な戦力によってパリーグのペナントレースとクライマックスシリーズを制し、日本シリーズへ進出する。
 日本シリーズの中日戦でも、その戦力差から圧倒的な強さで日本一になると予想されていたが、初戦から2連敗とつまづく。
 それでも、第3戦で勝利したソフトバンクは、第4戦で小久保が1回表に決勝打となるライト前タイムリー安打を放ち、2−1で勝利する。
 さらに小久保は、第5戦でも1回表に決勝打となるレフト前タイムリー安打を放ち、ソフトバンクは5−0で勝って王手をかける。
 ソフトバンクは、3勝3敗となったあと、第7戦で押し出し四球による決勝点で3−0と勝利し、日本一に輝く。
 日本シリーズMVPには、2試合で決勝打を放ち、打率.320を記録した小久保が選出された。


 Eスラッガー

 小久保は、本塁打王こそ1995年に28本塁打で獲得した1回のみだが、30本塁打以上を6回記録するスラッガーである。また、小久保は、2011年5月に史上16人目となる400号本塁打を放っており、通算満塁本塁打も歴代4位の13本を放っている。
 2001年には44本塁打を記録したものの、タフィ・ローズが55本塁打を放ったため、本塁打王を逃している。また、2004年には41本塁打を記録したものの、タフィ・ローズとタイロン・ウッズが45本塁打を放ったため、本塁打王を逃している。
 小久保は、高く美しい軌道の本塁打を量産できるうえに、勝負強さとチームの統率力も兼ね備えているため、王貞治は、小久保を天性の四番打者と評している。


 F幻の400号本塁打

 2010年9月19日、優勝争いを繰り広げている西武戦に出場した小久保は、5回裏の第3打席で岸孝之投手からレフトポールの上を超える大飛球を放つ。
 これまで通算399本塁打を放っていた小久保は、通算400号本塁打達成を確信して一塁側ベンチへ向けて万歳をしながら走り出した。しかし、三塁塁審の判定は、無情にもファール。
 秋山監督も、出てきてビデオ判定を求めたが、三塁塁審は、それすら認めなかった。監督がビデオ判定を求めたにもかかわらず、審判がビデオ判定を拒否し、しかも、テレビ映像では限りなく本塁打に見えることから、試合後、物議を醸した。
 小久保は、結局、その年に通算400号本塁打を放つことができず、翌年の5月12日、オリックス戦でようやく通算400号本塁打を達成した。


 G2000本安打手前で故障

 2012年、小久保は、通算2000本安打まであと38本というところからシーズンに入る。順調に安打を重ねた小久保だが、5月22日に通算1999安打を達成した後、椎間板ヘルニアの悪化でプレーすることが困難となった。そして、小久保は、2000本安打まであと1本というところで登録抹消となり、約1か月間戦列を離れることになる。

 小久保が復帰したのは6月24日の日本ハム戦で、6番1塁手として先発した小久保は、4回の第2打席でウルフからセンター前ヒットを放ち、通算2000本安打を達成する。プロ野球史上41人目で、大学出身者としては10人目の記録である。40歳8か月での達成は、史上3人目の最年長記録だった。




(2012年7月作成)

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