小鶴 誠
 1922年12月、福岡県生まれ。外野手。右投右打。飯塚商から社会人野球の八幡製鉄に進み、活躍を見せる。1941年にプロの名古屋(現中日)へ入団。
 1943年に召集されて海軍兵として出征し、中国で終戦を迎える。
 1946年、中部日本(現中日)に復帰すると打率.273、10本塁打の活躍を見せる。
 1948年に急映(現日本ハム)に移籍し、打率.305を残して初の3割を記録。翌年は、大映(現ロッテ)に移籍して打率.361、24本塁打、92打点という好成績で首位打者を獲得した。
 そして、1950年には松竹(現横浜)へ移籍して打率.355、51本塁打、161打点という驚異的な記録を残し、本塁打王と打点王の2冠に輝いた。日本プロ野球初のシーズン50本塁打到達であり、161打点は現在でも日本記録となっている。松竹もリーグ優勝を果たし、小鶴はシーズンMVPにも選出されている。小鶴を中心とする破壊力満点の打線は、「水爆打線」と呼ばれて恐れられた。
 しかし、その年の日本シリーズ前に椎甲板ヘルニアを患い、シリーズは不調に陥って2勝4敗で敗れた。持病となったヘルニアの影響で、翌年も打率.261、24本塁打と成績を落とした。
 それでも、1951年5月19日の大洋戦では2本塁打を放って2−12から13−12と逆転勝利する記録的な試合の主役となった。
 1953年、存続の危機にあった広島に請われて移籍し、打率.283、74打点の活躍を見せ、広島球団存続の危機を救った。
 1958年限りで現役を引退。
 1980年、殿堂入り。

 ゴルフスイングと呼ばれた豪快にすくい上げる打法で本塁打を量産し、日本人として初めてシーズン50本塁打以上を放った。「和製ディマジオ」とまで評された全盛期に椎甲板ヘルニアを患ってしまったことが残念ではあるが、5球団を渡り歩いた職人でもあった。

 通算成績(実働15年):打率.280、230本塁打、923打点、1717安打。240盗塁。首位打者1回(1949)打点王1回(1950)本塁打王1回(1950)シーズンMVP1回(1950)ベストナイン2回(1949・1950)

数々の伝説



 @野球をするために偽名を使う

 小鶴が八幡製鉄で活躍していた頃、日本は第二次世界大戦への道を歩んでいた。アメリカから輸入された野球は、敵性スポーツとして弾圧を受ける。しかも、当時の八幡製鉄は、軍需工場となっており、機密保持のために他社への転職が認められていなかった。それでも、小鶴は、プロで野球がやりたかった。
 小鶴は、八幡製鉄に対し「大学に進学したい」と偽って退社し、プロ野球の名古屋(現中日)へ入団する。
 ただ、小鶴にとっての懸念は、国民が一丸となって戦争に心血を注ぐ中で、周りからは自らの愛国心を疑われ、親族までもが非難を受けることだった。
 小鶴は、やむをえず偽名を使う。それは、故郷の飯塚市からとった「飯塚誠」という名前だった。素性を隠してまで小鶴は野球を選んだのである。


 A豪快なゴルフスイング打法

 1950年、小鶴は、松竹へ移籍し、新田恭一というコーチと出会う。当時、ラビットボールという飛ぶボールが使用され、物干し竿バットで前年にシーズン46本塁打を放った藤村富美男が脚光を浴びていたため、小鶴も飛距離を伸ばす打法を目指していた。
 新田コーチは、低い構えから腰の回転を使って球をすくい上げる打法を小鶴に指導する。それは、ゆったりとしたバックスイングから遠心力を利かせて腰を回転させ、ボールを叩く打法だった。まさにゴルフスイングのように見えるこの打法は、ゆっくりとスイングしているように見えるものの、放った打球はピンポン球のようにレフトスタンドまで飛んいくのである。
 小鶴は、この打法の習得によって飛躍的に本塁打数を伸ばし、日本プロ野球初のシーズン50本塁打を生み出したのである。


 Bバットを折りながら本塁打

 1950年10月24日の西日本戦で小鶴は、藤村富美男が1948年に作ったシーズン46本塁打を塗り替える47号本塁打を放つ。
 レフトスタンドに突き刺さる見事な本塁打だった。しかし、小鶴のバットは、本塁打を放った瞬間、無残にも鈍い音を立てていた。ダイヤモンドを回ってホームに戻ってきた小鶴がそのバットを手にとって見ると、バットは折れていたという。
 全盛期の小鶴は、バットを折ってもスタンドまで運ぶパワーと技術を兼ね備えていたのである。


 C7毛差で首位打者を逃し、翌年雪辱

 1948年、小鶴は、激しい首位打者争いを展開した。相手は巨人の主砲、青田昇と南海の主砲、山本一人である。
 小鶴が全日程を終了したとき、打率.3053でトップに立っていた。
 しかし、打率.3038で2位だった青田が最終戦で安打とセーフティーバントを決めて3打数2安打と猛打を見せる。打率も.3060として小鶴を逆転し、首位打者を獲得した。小鶴は、打率.3051の山本には勝ったのものの、青田にわずか7毛差で敗れて2位だった。
 タイトルを獲れなかった悔しさを知った小鶴は、1949年は安打製造機と化し、181本もの安打を放った。終わってみれば、打率.361という高打率が残っていた。
 今度は、2位の藤村富美男に2分9厘の圧倒的大差をつける首位打者獲得だった。


 Dシーズン51本塁打

 第二次世界大戦後、大下弘の出現によって本塁打の魅力が認知されるようになった。そのため、1948年半ばから日本のプロ野球では「ラビットボール」と呼ばれる「よく飛ぶ球」が使われるようになる。
 すると、藤村富美男が1949年に「物干し竿」と呼ばれる長いバットでシーズン46本塁打という記録を作った。
 小鶴は、1950年、松竹に入り、ゴルフスイング打法で遠くへ飛ばすコツをつかんだ。そのシーズンの小鶴は、ハイペースで本塁打を重ねる。
 日本プロ野球初のシーズン50本塁打を放った小鶴は、さらに1本積み重ね、シーズン51本塁打という記録を打ち立てた。
 ラビットボールは、本塁打数激増が顕著になったため、1951年からは使用されなくなった。そのため小鶴の日本記録は、不滅かと思われていたが、1963年に野村克也が52本塁打を放って13年ぶりに日本記録を塗り替えている。


 Eシーズン最多打点記録

 1950年の小鶴は、本塁打数だけでなく、勝負強さも並外れていた。全137試合中130試合に出場して何と161打点を稼ぎ出したのである。1試合あたり1.2打点以上を挙げていたことになる。この記録は、前年に藤村富美男が作った142打点という記録を大きく塗り替えるものだった。
 小鶴は、打率.355で183安打を放ちながらも、打率は惜しくも2位に終わり、三冠王を逃している。それは、藤村富美男が191安打を放って打率.362を残したからだった。
 小鶴の161打点は、1999年に横浜のR・ローズが153打点を挙げて8打点差まで迫ったが、いまだに破られておらず、130試合制なら誰も破ることはできない記録だろうとさえ言われている。


 F水爆打線の中核

 プロ野球がセ・パ両リーグに分裂した1950年、セリーグに加盟した松竹の打線は前年1リーグで優勝の巨人さえも圧倒した。
 一番バッターの金山次郎が走りまくって74盗塁を決めると、3番小鶴が51本塁打、4番岩本義行が39本塁打、5番大岡虎雄が34本塁打を放ち、クリーンアップで124本塁打という猛威を振るった。
 チーム打率は、.287であり、チーム安打数は日本記録となる1417安打だった。2桁得点が29試合、15試合連続2桁安打など、驚異的な記録を作っている。
 小鶴は、打率.355で2位、51本塁打で本塁打王、161打点で打点王となり、シーズンMVPにも輝いた。松竹は98勝35敗4分と、圧倒的な強さでセリーグ最初の優勝を果たし、日本シリーズに出場した。しかし、小鶴の故障により、松竹は圧倒的有利と予想されながら、毎日に2勝4敗で敗れた。
 小鶴の練習好きは有名で、他の選手たちが飲みに行ったり、遊び歩いているときでさえ、練習を怠らなかったという。その練習が球史を代表するスラッガーを生み出したが、練習のしすぎが原因でその年の日本シリーズ前に椎甲板ヘルニアを患ってしまい、以後は引退するまでその持病との闘いを続けることとなる。


 G和製ディマジオ

 戦後、鋭くすくい上げる豪快なスイングで本塁打を放つ小鶴は、大リーガーのジョー・ディマジオに例えられ、「和製ディマジオ」と呼ばれた。
 1950年に来日したディマジオと全盛期の小鶴は対面し、並んで写真に収まっている。華麗なスイングと美しい放物線はもちろん、体型や容貌までがよく似ており、どちらも面長で眉が太く、鼻筋の通った二枚目である。
 ただ、アメリカで絶大な人気を誇ったディマジオに対し、小鶴は、全盛期が短く、5球団を渡り歩いたせいかあまり人気が出なかったようである。


 H広島カープ存続の危機を救う

 1952年、2年前には隆盛を欲しいままにした松竹も投打ともに崩壊状態に陥り、最下位に転落する。小鶴は、.284、17本塁打を残していたが、勝率3割を切ったチームは解散させる、というセリーグ連盟の方針により、松竹は大洋に吸収されて消滅することとなる。
 この当時、同じセリーグの広島カープも勝率.316にあえぎ、消滅の危機を抱えていた。広島の石本秀一監督や後援会の人々は、小鶴を獲得するため、資金集めに奔走する。そして、市民から集まった募金は、何と1千万円を超えていた。
 広島は、この資金で松竹から小鶴と、盗塁王2回、本塁打王1回の金山次郎を獲得しようと動く。
「カープを救って欲しい」
 という監督や後援会、市民の願いを知った小鶴と金山は広島入団を決める。
 広島は、これによって他チームにひけのとらない打線を組むことができた。1953年には小鶴が打率.283、14本塁打、74打点、33盗塁を残すと、金山も58盗塁で盗塁王を獲得。広島は、球団史上初の4位にまで順位を上げ、勝率.414と初めて4割超えを果たした。小鶴は、市民球団広島消滅の危機を救ったのである。





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