小玉 明利
 1935年6月、兵庫県生まれ。右投右打。内野手。背番号2(近鉄)→3(阪神)。神崎工高を中退して1954年、近鉄へテスト入団する。
 1年目こそ1軍での出場はなかったものの2年目にはレギュラーとして116安打を放ってチームの連続最下位を4年で止めると、3年目の1955年には打率.290を記録する。
 1956年には打率.273、13本塁打、82打点を残して打率リーグ10位に入る。
 1957年には初めてオールスター戦にも出場を果たす。以降、9年連続でオールスターに出場することになる。
 1958年には打率.301を残して初めて3割台に乗せ、打率リーグ4位の成績を残した。
 1960年には打率.301、20本塁打、69打点の活躍で初のベストナインにも選出される。
 1961年にはシーズン42二塁打でリーグ最多二塁打にも輝いた。
 1962年には打率.314と自己最高の打率を残して2度目のベストナインに選出されている。以降、打率は、.306、.304、.304と4年連続で3割台を記録し、ベストナインも4年連続で受賞することとなった。
 1967年には選手兼任監督として打率.274を残したものの、チームは最下位に沈んだこともあって監督を解任され、一選手として阪神に移籍する。
 阪神では代打による先頭打者本塁打という珍しい記録こそ作ったものの、セリーグへの適応に苦しみ、34歳だった1969年限りで現役を引退した。

 弱小球団近鉄の安打製造機として安定した成績を残し、ときには孤軍奮闘してチームを支え続けた。近鉄史上最高の安打数を残したものの、2000本安打まであと37本というところでの引退は惜しまれる。

通算成績(プロ17年、実働16年):打率.286、130本塁打、788打点、1963安打。ベストナイン5回(1960、1962〜1965)
数々の伝説

 @高校を中退して近鉄に入団

 小玉は、神崎工業高校の2年生だったとき、近鉄の入団テストを受ける。そのとき、小玉の並外れた打撃センスに目をつけたのがのちに西武ライオンズ、ダイエーホークスの礎を築く根本陸夫だった。
 根本は、小玉にテストの合格を言い渡す。根本は、他球団に獲得される前に入団させたいのだが、小玉は、まだ2年生である。小玉は、高校中退してプロ入団か、進級して高校生活を続けるか、という選択を迫られた。
 小玉の選んだ道は、高校を中退しての近鉄入団だった。


 A弱小チーム、近鉄の奮闘に貢献

 1954年、近鉄は、チーム創設以来4年間続いていた最下位を脱出する。最下位を脱出したばかりか、8チームあるうちの4位と大いなる躍進を遂げる。この年は、打撃陣も日下隆、鬼頭政一、木村勉らが好調で、投手陣も田中文雄、関根潤三、山下登らが好投を続けた。
 小玉は、この年からレギュラーとして出場するようになり、打率.264、116安打を残して近鉄の浮上に貢献した。
 
 また、1958年は、チームが最も苦しい時期だった。29勝97敗で勝率.238という惨憺たる最下位に終わったが、小玉だけは打率.301を記録している。
 この年は、チーム打率.215で、規定打席に達した中で2割を超えているのが小玉だけという有様だった。もし、小玉がいなければ、どのようなチーム成績になっていたかは、想像するだけで恐ろしくなるほど、近鉄は弱かったのである。
 結局、小玉が在籍中、近鉄は、リーグ優勝することはおろか、3位以内に入ることすらできなかった。
 

 B9年連続オールスター出場

 小玉は、1967年にオールスターに初出場してから1965年まで9年連続で出場している。特に1962年から1965年は4年連続ファン投票で選出されるという人気ぶりだった。しかも、1963年と1965年は、リーグ最多得票での出場である。当時、セリーグの三塁手と言えば長嶋茂雄だったように、パリーグの三塁手と言えば小玉だった。
 しかも、出場した9年間の通算打率は、.357を記録している。1958年には第2戦で金田正一からレフトスタンドへソロ本塁打を放ち、1963年にも第2戦で金田からレフトスタンドへ2ラン本塁打を放った。しかし、活躍したときにパリーグが敗れることが多く、残念ながらMVPには1度も輝いていない。


 Cシーズン3割以上6回

 1954年のレギュラー獲得以降、打率順位をリーグ20位、14位、10位、7位と順調に上げてきた小玉は、1958年、ついに打率3割に到達する.301を残してリーグ4位となった。
 1960年にも打率.301を残してリーグ5位となる。
 1962年からは、打率.314、.306、.304、.304と4年連続打率3割を超えたが、首位打者の獲得には至らなかった。
 しかし、打率3割を超えた6回のうち5回は、パリーグのベストナインに選出を受けている。当時は、投高打低の時代であったため、打率3割を超えなくてもリーグ打率ベスト10に入ることは珍しくなく、小玉は、9回に渡ってパリーグの打率ベスト10に入った。


 D31歳で選手兼任監督

 1967年、選手として脂の乗った時期にさしかかっていた小玉は、31歳という若さながら選手兼任監督に就任する。残してきた実績から将来、監督となるのは当然のことではあったが、31歳での監督就任は異例の抜擢だった。
 小玉は、指揮を執りながら、選手としても102試合に出場して打率.274を残すなど獅子奮迅の働きをして、チームは前年より9勝多く積み上げた。だが、パリーグ最低のチーム防御率は、改善できず、最下位脱出はならなかった。
 そこで、近鉄は、思い切って名将三原脩を監督として招き入れることを決める。
 そうなると、居場所がなくなるのは選手兼任監督の小玉である。小玉は、長年貢献してきた近鉄を放出され、阪神に1選手として移籍する。
 小玉は、引退後、球界から距離を置いたため、監督として働いたのは、この選手兼任監督をした1年のみである。


 E意外な負の記録

 小玉は、現役時代、三塁手として通算1720試合に出場している。ハードな守備位置だけに、これは、歴代4位の記録である。
 そして、小玉が三塁手として残した失策は、実に301。これは、三塁手としての失策数歴代1位の不名誉記録である。まだグラウンドの質が良いとは言えない時代の記録だけに不滅と言っていいだろう。
 さらに、小玉は、1956年に盗塁死24という記録を残した。これは、歴代ワースト7位の記録であるばかりか、小玉だけは盗塁が16と盗塁死を8も下回っているのだ。10位までの他の選手たちは、圧倒的に盗塁が盗塁死を上回っているにもかかわらず、である。
 加えて、通算併殺打229も、他の大打者たちに混じって歴代7位である。
 名選手は、さまざまな豪放な記録を作っているものだが、小玉が残した数々の負の記録もまた、小玉の偉大さを物語っているのである。 


 F代打で先頭打者本塁打

 1968年5月15日、小玉は、試合の先頭打者として本塁打を放つ。しかも、この小玉の打席は、代打だった。普通であれば、代打で先頭打者として出場することは、あて馬作戦か選手の急な故障以外はありえない。
 そのため、小玉の代打先頭打者本塁打は、史上初の快挙だった。


 G2000本安打まであと37本で引退

 小玉は、一選手として阪神に移ってから慣れないセリーグへの対応に苦しみ、本領を発揮することができなかった。阪神では2年間で86安打しか上積みできずに現役を引退する。
 近鉄では1877安打を放っていただけに、2000本安打は時間の問題と思われたが、通算1963安打で2000本にはわずか37本及ばずにバットを置くことになった。
 もし、近鉄で選手兼任監督にならなければ、もし、もう1年近鉄に在籍できていたなら、という仮定が実現していれば確実に2000本安打は達成できていただけに、まさに悲運の大打者と言っていいだろう。
 2000本安打を達成しなかったことで名球会には入れず、しかも、弱小球団だった近鉄に所属し、さらに近鉄自体が2004年に球団統合で消滅してしまっただけに、小玉の功績が語られる場はほとんどなくなってしまった。
 それでも、近鉄で放った1877安打は、近鉄の球団史上の通算最多安打数として消滅のときまで破られることはなかった。つまり、小玉は、永遠に近鉄史上最高の安打製造機として記憶されるのである。





(2006年6月作成)

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