小林 繁
 1952年11月、鳥取県生まれ。右投右打。投手。背番号40(巨人)→19(巨人→阪神)。由良育英高校から社会人野球の全大丸に進み、ドラフト6位で1972年オフに巨人へ入団。
 2年目の1974年に初勝利を挙げると8勝5敗2セーブの成績を残して頭角を現す。
 1976年には18勝8敗の成績を残して巨人のエースとなり、巨人の3年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
 翌1977年にも18勝8敗、防御率2.92という堂々たる結果を残して沢村賞に選ばれている。チームも圧倒的な強さでリーグ連覇を果たした。
 1978年にも13勝したが、「空白の1日」騒動に巻き込まれて、翌1979年2月1日に阪神の江川卓とのトレードで阪神へ移籍。
 移籍1年目にいきなり22勝9敗、防御率2.89という自己最高の成績を残して最多勝を獲得。この年、古巣巨人に対しては8勝無敗で意地を見せつけた。2度目の沢村賞にも選出されている。
 その後も、阪神のエースとして1981年には16勝するなど5年連続2桁勝利を挙げて、巨人時代から8年連続2桁勝利を達成した。
 しかし、その8年連続の2桁勝利を挙げた1983年、13勝14敗ながら余力を残して引退。このとき31歳であった。

 細身の体ながら膝を地面につくほどの低い重心から独特のサイドスローで投げ込むシンカーは切れ味が鋭く、打者を詰まらせた。強靭な足腰をバネにして打者の内角に厳しく全力投球する姿は、「細腕エース」「スパイダーマン」という愛称で親しまれた。
 
 通算成績(実働11年):139勝95敗17S、防御率3.18。1273奪三振。最多勝1回(1979)沢村賞2回(1977・1979)ベストナイン2回(1977・1979)

数々の伝説


 @独特のフォーム完成の訳

 小林は、高校時代は目立った成績を残しておらず、プロから注目されるようになったのは社会人野球の全大丸に入ってからだった。
 それでも、ドラフトでの指名は6位にとどまっている。そのためか、1年目と2年目は1軍で勝利を挙げることができなかった。
 入団当初の小林は、普通のアンダースローだった、という。しかし、小林は、自らのピッチングフォームを改良するため、チームメイトの王貞治をどうしたら抑えられるかを研究。
 行き着いたサイドスロー気味の投球フォームは、ゆったりとしながら極めて重心が低い独特のフォームで、王にも「タイミングがとりづらい」とまで言わしめた。
 小林は、こうして5年目には18勝を挙げてエースにまで登り詰めたのである。
 

 A空白の1日から江川卓とトレード

 1978年、巨人は、ドラフトの目玉投手だった江川卓と電撃契約を結ぶ。これは、ドラフト会議の前々日ぎりぎりまで交渉を続けていた球団が次のドラフト会議場に移動するための日として野球協約で考慮されていた「空白の1日」を利用しての契約であった。
 セリーグ事務局は、即座に江川と巨人の契約を無効との判断を下したため、怒った巨人は、その翌日のドラフト会議をボイコット。ドラフトでは阪神・南海・ロッテ・近鉄の4球団が江川を1位指名する。抽選の結果、阪神タイガースが交渉権を得た。
 しかし、巨人の圧力を感じた金子コミッショナーは、阪神は江川と契約した後、巨人へトレードに出すように要請。
 このトレードの交換選手として挙げられたのが巨人のエース小林だった。
 1月31日に阪神は、江川と契約を結び、翌2月1日に小林は、巨人に入る江川との交換で阪神へ移った。
 小林は「同情してほしくない」「野球が好きだから喜んで阪神に行く」と気丈に答えたことはいまだに語り草となっている。


 B古巣巨人からシーズン8勝

 阪神に移籍した小林は、巨人にいたとき以上に気迫のこもったピッチングを披露し、着々と勝ち星を積み重ねた。それは、新人投手とトレードされたことへの意地でもあり、離婚して野球に打ち込めるようになったからでもあったという。
 中でも際立っていたのが巨人戦で、4月10日に初先発して4−3で勝利すると、その年は投げる試合すべて好投して8勝無敗とカモにした。
 巨人に8勝してシーズンでは22勝9敗という文句のつけようのない成績を残した小林に対して、江川はシーズン9勝にとどまった。
 そして、この結果は、巨人が5位と沈んだ最大の要因となった。


 C左打席に立つ

 1979年、阪神に移籍1年目の小林は、バッターボックスでも気迫のこもった行動を見せた。本来は右打であるのに、ある試合で左打席に入ったのである。しかも、それは、巨人戦だった。
 これは、右打席より左打席の方が1塁に近いことを考えてのセーフティーバント狙いだったという。


 D2度の沢村賞

 1977年、巨人のエースとして活躍していた小林は18勝8敗、防御率2.92、3完封という見事な成績を残した。最多勝などの主要タイトルこそ獲れなかったものの、沢村賞に選ばれている。
 そして、阪神に移籍した1979年には22勝9敗、防御率2.89、5完封で最多勝を獲得するとともに2度目の沢村賞に輝く。
 この2度目の沢村賞は、1度目のときと違って「阪神の小林」を世に知らしめるために、先発完投・直球勝負にこだわり、狙って獲ったそうである。


 E敬遠をしようとしてサヨナラ暴投

 1982年4月3日、小林は、開幕の大洋戦に先発して8回までを無失点に抑える好投を見せていた。阪神は9回表が終わった時点で2−0とリードを奪っている。
 この日の小林の投球は、8回まで被安打2というほぼ完璧な内容で、完封はほぼ間違いないと思われた。
 しかし、9回裏、4安打を集中されて同点に追いつかれる。ここで小林は、ベンチの指示でバッターの高木嘉を歩かせようとした。
 しかし、小林が投げた高木への3球目は、キャッチャーがジャンプしても捕れないほどの暴投となった。走者は生還して劇的なサヨナラ負け。小林は、完封目前にして2−3で負け投手となった。
 独特の投球フォームの小林は、普段から緩いボールを投げるキャッチボールが苦手だったという。


 F突然の引退

 1983年、小林は13勝14敗という成績を残してシーズンを終えた。エースとしては少し物足りないが、ローテーション投手としてはまずまずの結果である。
 しかし、小林は、思うようなピッチングができなくなったことを理由に突然引退を表明した。
 確かに防御率は、4.05と阪神に移籍して以来、最悪であり、阪神で負け越したのも初めてだった。
 小林は、前年から肩を壊していたという。そのため、以前のような球が投げられなくなってしまっていたのである。
 引退時、年齢はまだ31歳。江川卓も引退は早くて32歳なのだが、小林はそれよりも1歳若くしての引退だった。「空白の1日」で運命を分けた2人の天才は、ともに太くて短いプロ生活を送ったのである。
 



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