清原 和博 
 1967年8月、大阪府生まれ。右投右打。一塁手。背番号3(西武)→5(巨人)。PL学園高校で5季連続甲子園出場し、史上最多の13本塁打を放つ。チームも、2度の全国制覇と2度の準優勝を果たし、エースの桑田真澄とともにKKコンビとしてブームを起こした。高校通算で64本塁打を放っている。
 ドラフトでは6球団1位指名の競合の末、1986年西武に入団する。
 1年目からレギュラーを獲得し、打率.304、31本塁打、78打点という新人としては驚異的な記録を残して新人王を獲得した。
 2年目以降も西武の4番打者として13年連続20本塁打以上を残し、秋山・デストラーデなどと強力なクリーンアップを形成して西武の黄金時代を築く。特に秋山とのコンビはAK砲と呼ばれ、他球団から恐れられた。
 1989年には35本塁打、92打点、1990年には打率.307、37本塁打、94打点と打撃3部門で自己記録を更新し、1992年にも36本塁打、96打点の活躍を見せる。
 1986年から1994年までの9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一という常勝軍団を常に引っ張った。
 1997年にFA宣言をして念願の巨人に移籍。初年度こそ32本塁打放ったが、その後怪我や不調が続く。しかし、2000年後半には見事に復活して本来の打撃を取り戻して巨人の日本一に貢献すると、2001年には打率.298、29本塁打、121打点で打点王争いに加わる活躍を見せる。
 2002年にも規定打席不足ながら打率.318、12本塁打で巨人のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも2本塁打を放って日本一に貢献する。
 2004年6月には通算2000本安打を達成する。
 2006年からパリーグのオリックスに移籍し、5月には逆転満塁サヨナラ本塁打を放った。
 2007年は、左膝の故障でリハビリに専念し、2008年に膝軟骨移植手術から史上初の復帰を成し遂げ、その年限りで現役を引退した。

 豪快さとうまさを兼ね備えた広角打法で左右に本塁打やヒットを放ち続けたスラッガーである。特に日本シリーズ・オールスターといった大舞台での活躍は素晴らしいものがある。ただ、不思議なことに主要打撃タイトルには縁がなく、「無冠の帝王」という異名をとったが、それ以外の部分で多くの記録を打ち立てた。

 通算成績(実動22年):打率.272、525本塁打、1530打点。2122安打。新人王(1986)。ベストナイン3回(1988・1990・1992)、ゴールデングラブ賞5回(1988・1990・1992〜1994)オールスター通算打点34(歴代1位)オールスターMVP7回(歴代1位)通算死球196(歴代1位)通算三振1955(歴代1位)サヨナラ本塁打12(歴代1位)サヨナラ安打20(歴代1位)
数々の伝説

 @甲子園通算13本塁打、高校通算64本塁打

 清原は、高校1年生から4番打者として1983年夏の甲子園に出場。同級生で1年生エースの桑田とともに全国制覇を果たす。
 その後、5季連続出場を果たしている。これは、出場できるすべての甲子園大会に出場という快挙である。しかも、甲子園通算13本もの本塁打を放っている(歴代1位)。
 1984年のセンバツでは準優勝、夏の甲子園では名将木内監督率いる取手ニ高に延長戦の末、敗れて準優勝に終わり、優勝から遠ざかる。1985年のセンバツはベスト四止まり。だが、最後になった夏の甲子園では大会5本塁打を放ち、見事優勝を飾っている。
 1984年の夏の甲子園1回戦の享栄戦で放った1試合3本塁打、1985年の夏の甲子園で放った大会5本塁打はいずれも歴代1位の記録である。


 A巨人の指名を外されて西武入団

 清原は、高校卒業後の巨人入団を強く希望していた。
 巨人も、王貞治監督をはじめとして首脳陣が清原1位指名を断言していた。
 しかし、1985年11月20日のドラフト会議で巨人は、一転して同じPL学園の甲子園20勝投手桑田真澄を1位指名。桑田が大学進学を希望していたため、他球団が指名回避したところを狙ってのものだった。
 清原は、巨人以外の6球団に指名され、抽選の末、西武が交渉権を獲得した。
 清原は、巨人の裏切りに会見で涙するが、結局西武に入団して、1年目から活躍し、31本塁打を放って新人王を獲得する。


 B涙の日本一

 1987年、西武は、リーグ優勝を果たし、日本シリーズは巨人と対戦することとなった。
 巨人は、清原を1位指名すると言っておきながら、当日になって指名を外した因縁の球団である。
 このシリーズは、西武の3勝2敗で第6戦を迎えている。
 そして、第6戦も先発した工藤公康の好投で3−1とリード。そして、9回表2アウトでバッターに篠塚を迎えたところで、清原は突然涙する。2年前に悔し涙を流させられた巨人を破って恨みを晴らす瞬間が来たからである。
 それに気付いた工藤は、清原のところにボールが飛んで行かないように、外野フライを打たせて、無事に日本一となっている。


 C桑田から1試合バックスクリーン2発

 1994年、西武は、日本シリーズで巨人と対戦することになった。2勝2敗で迎えた第5戦の先発は、PL学園時代の僚友桑田だった。
 試合は、6回表に巨人の緒方耕一の満塁本塁打が出て、巨人がほぼ勝負を決めた形になっていった。
 その直後の6回裏、打席に立った清原は桑田のストレートをセンターバックスクリーンに豪快な本塁打。
 そして、8回裏、清原は、またも桑田のストレートをバックスクリーンに本塁打。
 試合は桑田が完投し、巨人が9−3で勝利したが、KK対決は清原の圧勝に終わっている。


 DFA宣言で巨人へ移籍

 1997年、FA資格を手にした清原は、ついに念願だった巨人に移籍。
 その年に32本塁打を放つ活躍を見せた。
 しかし、翌年から相次ぐ怪我と不調に見舞われ、満足な成績を残せなくなってしまう。
 2000年も、前半は、怪我からくる不調にあえいでいたが、7月に復帰後、代打で本塁打を放ち、ヒーローインタビューでそれまでの苦しみから思わず「ボールを思いきりしばき上げてやろうと思った」と発言。そこから本来の調子を取り戻し、オールスター第3戦でも本塁打を放ち、通算7度目のMVPに輝く。
 清原復帰後は、巨人も断然の独走態勢に入り、清原は4年ぶりのリーグ優勝と6年ぶりの日本一に大きく貢献した。


 Eオールスター7度のMVP、通算12本塁打

 清原が大舞台に強いことは、既に高校時代に証明済みだが、それはプロに入っても変わることなく続いている。
 1年目のオールスター第2戦では7回裏に左翼席へ同点本塁打を放って最優秀選手(MVP)に輝いている。
 その後も、オールスターでの活躍はすさまじく、1993年の第1戦でMVPに輝いたことによって、何と史上最多の4度目のMVPを獲得することになった。
 そして、2000年、オールスター第3戦ではロッテの小野晋吾からバックスクリーン左への見事な先制本塁打を放ち、通算7度目のMVP(歴代最多記録)に輝いている。また、2005年には西武の西口文也からライトスタンドへ本塁打を放つ。その本塁打は、オールスター通算13号であり、歴代1位の山本浩二の14本に次いで王貞治と並ぶ歴代2位の記録となった。
 オールスターの通算成績は、18回出場で打率.365、13本塁打、34打点であり、打点では歴代1位の記録を樹立した。


 F無冠の帝王

 清原は、プロ1年目に新人王のタイトルを獲得しているが、主要打撃タイトルについては何も獲得していない。
 かといって、全く打撃タイトル争いにからんでいないわけはなく、1990年には37本塁打で1位のデストラーデに次いで2位、1992・1995年も3位、そして最も惜しかった1996年はニールの32本にわずか1本差の2位に終わっている。
 打点の方でも、1992年には97打点のブーマーに次いで96打点で2位になっている。
 2001年にも打点王争いのトップを快走し、121打点を挙げてトップで全日程を終えたが、まだ試合数が残っていたペタジーニ(ヤクルト)が127打点まで伸ばしたために抜かれ、またしても2位に終わっている。
 これらを見てみると、清原が打撃の主要タイトルを獲得できなかったのは、運にもかなり左右されていることが分かる。また、西武時代にタイトルを獲得できなかったのは、チームの優勝を最優先させるため、チームバッティングに専念せざるを得なかったためでもある。


 G1イニング6本塁打の2本目

 1986年8月6日、西武×近鉄戦が行われ、8回の西武の攻撃が始まるまでに7−2で近鉄がリードを奪っていた。
 8回の西武の攻撃では、まず西岡が石本投手からソロ本塁打。そして、新人だった清原が2ラン本塁打で2点差に詰め寄った。
 さらに石毛とブコビッチも本塁打で続いて簡単に同点に追いつく。
 近鉄は石本投手をあきらめるが、それでも西武の勢いはとどまることを知らず、秋山が逆転となる本塁打、とどめは太田が突き放す本塁打を放って1イニング6本塁打という大記録が作られた。


 H通算2000本安打達成

 2004年6月4日、清原は、ヤクルト戦に先発出場する。ペタジーニとの激しい正一塁手争いの中で、清原は、このシーズンまだ17安打。それでも、その半分が本塁打という気迫を見せて、通算1999安打としていた。
 1回表、2死1塁で打席に立った清原は、ベバリン投手の直球を逆らわずにセンター返し。打球は、ショートの横を抜けてセンター前に転がる。豪快さの一方で、卓越したバットコントロールも併せ持つ清原らしいバッティングだ。プロ19年目で達成したこの通算2000本安打は、史上31人目の快挙だった。
 清原の2000本安打の内訳は、西武時代に1353本、巨人移籍後に647本で、セ・パ両リーグで主力選手として数多くの優勝に貢献している。


 Iオリックスで逆転満塁サヨナラ本塁打

 オリックスの仰木彬監督から入団を請われていた清原は、仰木監督が故人となった後も、その意思をくみとり、オリックスに移籍する。
 そして、移籍1年目の2006年5月27日、清原は、横浜戦で千両役者ぶりを発揮する。4回にタイムリーを放った清原は、9回裏に1死満塁という絶好の場面で打席が回ってくるのだ。
 スコアは、3−6と3点リードを許し、マウンド上は快速球クローザーのクルーンである。しかし、清原は、クルーンがカウント1−1から投げた152キロの快速球を見事に捕らえ、打球はライトスタンドへ飛び込んだ。
 7−6と一気にひっくり返す逆転満塁サヨナラ本塁打だった。清原にとっては、2001年7月14日の広島戦で1−1の延長11回裏に満塁サヨナラ本塁打を放って以来、自身2度目の満塁サヨナラ本塁打だった。


 Jサヨナラ本塁打数12、サヨナラ安打数20の日本新記録樹立

 2006年8月29日、清原は西武戦で先発出場し、スコア6−6の延長11回裏に走者を1人置いて6打席目が回ってくる。
 そこで清原は、西武の長田秀一郎投手からライトスタンドへサヨナラ2ラン本塁打を放つ。通算12本目のサヨナラ本塁打で、20本目のサヨナラ安打でもあった。
 5月27日の逆転満塁サヨナラ本塁打で、野村克也の通算のサヨナラ本塁打数11、サヨナラ安打数19の日本記録に並んでいた清原にとってこの本塁打は、本塁打数、安打数ともに日本新記録樹立の記念すべき本塁打となった。


 K前例のない膝軟骨移植手術からの復帰

 2005年オフ、清原は、巨人から戦力外通告を受け、オリックスに入団する。オリックスは、熱心に誘ってくれた故仰木彬監督が亡くなる直前まで指揮を執った球団で、その恩を返すためでもあった。
 2006年の清原は、オリックスの主砲として21年連続2桁本塁打を記録し、横浜のクルーンから逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、存在感を示す。
 しかし、左膝やふくらはぎなどを痛めて3度登録抹消になるなど、本来の活躍ができないまま、2007年を迎える。
 2007年は、左膝の状態が悪化し、2月と7月に手術を受け、1試合も出場できなかった。特に7月の手術は、膝の正常な軟骨を損傷した部分へ移植するという大手術だった。
 清原は、長いリハビリを経て2008年8月にその年限りの現役引退を宣言して1軍戦に復帰する。膝軟骨移植手術から復帰というかつてない前例を作った。公式戦では、清原が代打で1打席立つかどうかという状態にもかからわず、連日多くのファンが詰めかけた。
 引退試合となった10月1日のソフトバンク戦は、超満員の声援の中、第3打席にタイムリー2塁打を放ち、勝利に貢献した。試合後にはチームメイトからの胴上げや長渕剛の生歌「とんぼ」による惜別を受けるなど、盛大な引退セレモニーが行われた。


 L三振と死球の日本記録樹立

 清原が引退したとき、通算記録として残った1955三振と196死球はともに日本記録を更新した。三振数では秋山幸二の1712三振を243上回り、死球数では竹之内雅史の166死球を30も上回った。
 清原がここまで三振と死球が多かったのは、清原が常に投手との真っ向勝負を挑んでいたからである。
 そのため、他球団のエースと呼ばれる投手は、清原に対して力と力の勝負を挑んだ。中でも野茂英雄、伊良部秀輝、松坂大輔との勝負は、ファンの記憶に残る名勝負だった。伊良部が当時の日本最速記録158キロを出したときの対戦相手は、清原であり、清原はファールを放っている。


 M日本シリーズでも数々の記録

 清原は、1986年に初めて日本シリーズに出場して打率.355、1本塁打の成績を残すと、1988年には打率.375、3本塁打、1993年には打率.310、2本塁打とほとんどのシリーズで好成績を残す。
 1994年には打率.348、4本塁打、8打点の活躍を見せたが、西武が日本一を逃したため、MVPも逃している。
 巨人に移ってからも、2000年、2002年と日本シリーズに出場し、2000には打率.389を残す活躍を見せて日本一に貢献する。
 結局、清原は、日本シリーズMVPこそなかったものの、日本シリーズに10回出場し、8回の日本一に貢献するという日本シリーズ男だった。
 通算成績は、打率.301、15本塁打、39打点であり、通算本塁打数、通算打点数は、いずれもONに次いで歴代3位である。




Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system