北川 博敏
 1972年5月、兵庫県生まれ。右投右打。内野手・捕手。背番号9(阪神)→46(近鉄)→23(オリックス)。
 埼玉県立大宮東高校で3年夏に甲子園出場を果たすが、1回戦で敗退する。
 日本大学では、東都大学リーグで3年時に春季首位打者を獲得し、3年・4年と連続で日米大学野球の日本代表として出場する。
 1995年、ドラフト2位で阪神に入団する。1年目のジュニアオールスターでMVPを獲得し、1軍でも13試合に出場してプロ初安打を放つ。
 しかし、2年目以降も、レギュラーを獲得することはできず、阪神では1999年の39試合出場が最高だった。
 2000年には1軍で10試合に出場して無安打に終わり、オフに3対3のトレードで近鉄に移籍。
 2001年は、1軍に定着して81試合に出場し、打率.270、6本塁打、35打点の成績を残す。9月26日のオリックス戦では9回裏に代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打を放ち、一躍有名になる。
 2002年は、開幕前に故障した影響で43試合の出場に終わるが、2003年には捕手よりも一塁手、DHとしての出場が増え、規定打席未満ながら打率.309、13本塁打、50打点の活躍を見せる。
 2004年には野手に転向し、一塁手としてレギュラーを獲得し、打率.303、20本塁打、88打点の好成績を残す。オフには近鉄球団消滅により、2005年はオリックスで打率.259、16本塁打の成績を残す。
 2006年には打率.290、8本塁打の成績を残すが、右肩関節唇故障に苦しみ、手術を行う。2007年には故障から復活して全試合に出場し、打率.280、9本塁打の成績を残す。
 2010年には打率.307、12本塁打、61打点の成績を残す。
 2011年6月にアキレス腱断裂の大怪我を負い、手術したが、2012年には復活して打率.221、1本塁打を残したが、その年限りで現役を引退した。

 大型捕手としては芽が出ず、内野手として近鉄で才能が開花し、勝負強い中距離打者として近鉄の優勝に貢献した。球史に残る優勝決定試合での代打逆転満塁本塁打や大逆転を呼び込む同点満塁本塁打など、記憶に残る伝説を残した。

通算成績(実働18年)打率.276、102本塁打、536打点、1076安打。

数々の伝説


 @阪神では6年間で19安打

 北川は、強打の捕手として阪神に入団し、1年目のジュニアオールスターゲームでは、決勝打を含む2安打を放つ活躍でMVPを獲得する。プロ1年目から13試合に出場してプロ初安打を放つなど、期待が持てる内容だった。
 しかし、プロ2年目以降も、関川や山田、矢野が正捕手として活躍していたため、なかなか出場機会がなく、阪神では6年間でわずか19安打、本塁打も0本という結果が残った。
 2000年のオフにはトレード要員となり、阪神と近鉄で3対3のトレードが決まる。ウエスタンリーグで52試合に出場し、打率.369、8本塁打を記録した北川の潜在能力に近鉄が目を付けたのである。阪神からは北川・湯舟敏郎・山崎一玄、近鉄からは酒井弘樹・面出哲志・平下晃司が移籍することになった。


 A代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打

 近鉄へのトレードは、北川にとって大きな転機となった。移籍1年目の2001年に1軍に定着し、3番手捕手や代打として81試合に出場し、打率.270、6本塁打、35打点の活躍を見せる。
 そして、何よりも北川の知名度を上げたのが、大阪ドームで行われた2001年9月26日のオリックス戦である。この試合に勝てばリーグ優勝が決まるという1戦だったが、近鉄は、4回に逆転を許すと、終盤は劣勢で、9回表を終えたところで、2−5とリードを許す。
 しかし、この試合で決めたい近鉄は、吉岡がレフト前ヒット、川口がライト戦への二塁打を放ち、代打の益田は、四球で歩く。無死満塁で、代打の打席に立ったのが北川だった。
 北川は、オリックスの守護神大久保勝信に1ボール2ストライクと追い込まれたものの、4球目の真ん中に入ったスライダーを振り抜くと打球は、打った瞬間にそれと分かるほど鮮やかに、バックスクリーン左に運ぶ代打逆転満塁サヨナラ本塁打だった。スコアは6−5で釣銭なしという奇跡である。北川が本塁打を放った瞬間、近鉄のリーグ優勝が決定し、全選手がグラウンドに飛び出してお祭り騒ぎとなった。

 この3点差を逆転する代打逆転満塁サヨナラ本塁打は、1956年の樋笠一夫次いで史上2人目の記録で、それが優勝決定本塁打となると、史上唯一の快挙である。


 B近鉄で捕手から内野

 北川は、2001年に近鉄で頭角を現したものの、近鉄でも捕手としては的山、古久保とメンバーがそろっていたため、北川の出番は少なく、DHや一塁手としての出場も増えてきた。
 そこで、2004年、北川は、ついに捕手から野手への転向を決める。この年は、開幕戦から5番一塁手として出場し、1年を通してレギュラーとして活躍する。中村が故障離脱した8月には四番打者として活躍を見せ、シーズン成績は、全試合に出場して打率.303、20本塁打、88打点という好成績を残して野手転向に成功した。


 C近鉄消滅でオリックスへ

 2004年は、プロ野球界が球団再編問題で大きく揺れ、近鉄球団は、球団合併や新規参入球団の狭間に立たされる。
 近鉄の選手たちは、球団消滅回避に全力を注いだものの、近鉄は、オリックスとの合併が決まり、事実上消滅する。北川は、9月27日のオリックス戦で本塁打を放ち、これが近鉄球団最後の本塁打となった。
 北川は、オリックスと楽天の選手分配ドラフトでオリックスに分配され、2005年はオリックスの正一塁手としてプレーすることになった。


 D全球団から本塁打

 北川は、阪神での通算本塁打は0本だったものの、2001年4月29日にダイエーのエース斉藤和巳からプロ初本塁打を放つと、その年だけで4球団から本塁打を放つ。
 そして、2005年から始まった交流戦でもその年に4球団から本塁打を放ち、2008年6月23日のヤクルト戦で守護神林昌勇から本塁打を放って全12球団から本塁打を達成した。
 これは、プロ野球史上14人目の快挙だった。


 E満塁本塁打で0−7から勝利に導く

 2010年6月2日、神戸スカイマークスタジアムで行われた中日戦は、序盤から中日が圧倒し、8回表を終わった時点で0−7とリードを許す。しかし、オリックスは、8回裏に四球を挟んで4連打と畳みかけ、3−7と詰め寄っていく。さらに無死満塁で打席に立ったのが北川だった。
 北川は、中日のセットアッパー高橋聡文の外角低めのストレートをすくい上げると、打球は、右中間スタンドへ吸い込まれていった。
 この本塁打で7点差を一気に追いつく奇跡を起こしたオリックスは、さらに延長11回にT−岡田が3ラン本塁打を放って10−7で勝ち、0−7からの逆転勝利を果たしたのである。


 F2度も大怪我から復活

 北川の選手生活晩年は、大きな故障との闘いとなる。2006年5月30日の中日戦でダイビングキャッチを試みた際に右肩関節唇損傷という選手生命を左右する大けがを負ってしまう。その後、8月に手術して2007年には見事復活を果たす。
 しかし、2011年6月26日のロッテ戦では、レフト線に安打を放ったものの、1・2塁間で左足アキレス腱断裂の大けがを負う。何とか1塁へ戻ったものの、そこで動けなくなり、そのまま退場し、翌日には手術を行った。
 その年のシーズン後半は棒に振ったものの、翌年には開幕一軍メンバーとして復帰し、6月5日のヤクルト戦では復帰後初本塁打を放って復活を遂げる。しかし、この年は、59試合に出場したものの、打率.221、1本塁打に終わり、現役を引退した。






(2013年1月作成)

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