数々の伝説
@針の穴を通すコントロール
北別府は、他の大投手に比べて球威が劣っていたが、それをカバーするコントロールを身につけていた。
特に右打者の外角いっぱいに決まるスライダーは芸術品の域に達していた。「精密機械」という名が定着したのは北別府からではないだろうか。
広島の黄金時代を築いた1980年代には故意に四球を与えて、次の打者でショートゴロを打たせて併殺にする、ということをやっていたと言われている。
常に安定したピッチングを続け、11年連続2桁勝利を得ていることからも、制球力の良さが分かる。
A胴上げ投手を津田恒美に譲る
1986年の北別府は、18勝4敗という好成績を残し、エースとしての全盛期にさしかかっていた。
広島も、巨人と激しい首位争いを繰り広げながら10月12日のヤクルト戦を迎えた。
北別府は、勝てば優勝が決まるその試合に先発する。北別府は、持ち前の粘り強いピッチングでヤクルト打線を8回まで3失点に封じ、、8−3と広島リードで9回裏を迎えた。
ここで、北別府は、交代を申し出る。故障からカムバックしてチーム快進撃の原動力となった炎のストッパー津田恒美を胴上げ投手にしたいがための配慮だった。
阿南監督も、快く津田への交代を承諾。津田は、持ち前の剛速球で抑え、胴上げ投手となっている。
B沢村賞2回
1982年、北別府は、自身初のシーズン20勝を挙げて初のタイトルとなる最多勝を獲得。防御率も2.43で初の2点台に抑えた。
その投球が高く評価されて北別府は、先発完投型の好投手に贈られる沢村賞を受賞する。
そして、1986年、北別府は、18勝4敗、防御率2.43で広島をリーグ優勝に導く活躍を見せ、最多勝とともにシーズンMVPを獲得する。
北別府は、2度目の沢村賞を受賞する。
沢村賞を2度以上受賞しているのは、杉下茂・金田正一・村山実・高橋一三・小林繁・斎藤雅樹等、超一流の投手ばかりである。
沢村賞をとった2度のシーズンについては、北別府本人も「思い通りのピッチングができた」と後に振り返っている。
C日本シリーズで未勝利
北別府は、広島の5度に渡るリーグ優勝に貢献していながら、日本シリーズでは1勝もしていない。
これは、北別府が若かった頃の広島が投手黄金時代であり、江夏豊・山根和夫・池谷公二郎・福士敬章といったそうそうたるメンバーが揃っていたため、登板機会が少なかったせいでもある。
最初に出た1979年の近鉄との日本リーズ第1戦に先発しながら2−5で敗戦投手になり、以後勝てなくなった。
不動のエースとなった1980年代後半からも、シリーズで登板するもののどうしても勝利には至らず、最後となった1991年の西武との日本シリーズでは秋山幸二の一発に沈み、0−1で敗戦投手となっている。結局、北別府は日本シリーズ通算0勝5敗で現役を終えた。
D20世紀最後の200勝投手
北別府は、1992年7月16日の中日戦で通算200勝を達成。これが20世紀最後の通算200勝達成の瞬間となった。北別府の後に通算200勝に到達する投手は残りの8年間で1人も現れなかったのである。
これは、先発・中継ぎ・抑えという分業制が確立されてきたことやスポーツ科学に基づいてきっちり中5日以上の登板間隔がとられるようになってきたからである。
史上22人目の200勝投手となった北別府は、さらに13勝を積み上げ、213勝で現役を引退した。北別府の後、通算200勝を挙げたのは工藤公康で、北別府が通算200勝を達成してから実に12年後の2004年だった。
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