木俣 達彦
 1944年7月、愛知県生まれ。右投右打。捕手。背番号23。中京商高から中京大学に進み、愛知大学リーグで首位打者、MVPを獲得。それが注目されて、わずか1年で大学を中退して中日に入団する。
 1964年は新人ながら56試合に出場し、1965年にはレギュラーを獲得し、シーズン10本塁打を記録。
 5年目の1968年に打率.289、21本塁打の記録を残し、強打の名捕手に成長を遂げた。
 1969年にはリーグ3位となる33本塁打を記録し、スラッガーとしての力を見せつけると、1970年にもリーグ2位となる30本塁打を放ち、2年連続30本塁打を残した。1971年にも27本塁打を放った木俣は、1969年から3年連続でベストナインにも選ばれている。
 1974年には打率.322、18本塁打を残し、初の打率3割を記録するとともに打率セリーグ2位となった。この年は、チームもリーグ優勝を果たし、木俣は、攻守に渡って進撃を支えた。
 1976年、1977年にも打率3割以上を記録した木俣は、スラッガーからアベレージヒッターに変貌し、チームを引っ張った。1977年には盗塁阻止率.466でリーグ1位に輝き、ベストナインにも選出される。
 1979年には打率.312、17本塁打で4度目の打率3割を記録し、5度目のベストナインにも輝いた。
 1982年は控えに回り、打率.170に終わって現役を引退。

 若いときは上から振り下ろすマサカリ打法でスラッガーとして活躍し、ベテランになってからはレベルスイングで右打ちを得意とするアベレージヒッターとなった。守備の負担の大きな捕手ながら長年にわたって打者としても超一流の成績を残し、打てる捕手という新しい捕手像を作り上げた。

通算成績(実働19年):打率.277、285本塁打、872打点、1876安打。ベストナイン5回(1969〜1971・1977、1979)

数々の伝説



 @捕手不足に悩む中日の救世主

 1960年代前半、中日は、深刻な捕手難に苦しんでいた。1961年まで正捕手だった吉沢岳男を近鉄にトレードで出してしまい、1962年から正捕手がいなくなったからだ。1962年は一塁手だった江藤慎一を急遽捕手にしたが、江藤はアマチュア時代に捕手経験があるものの、プロの捕手としての経験はほとんどなく、まさに急場しのぎだった。小山敏明、高木時夫らを起用してはみたものの、正捕手が定まることはなかった。
 そんなときに地元中京大学で1年生ながら愛知大学リーグMVPに輝いた木俣は、中日にとって救世主に見えた。
 中日は、木俣の獲得に乗り出し、わずか1年で大学を中退させてまでして入団させる。プロ1年目で56試合に出場した木俣は、2年目から正捕手として不動の地位を築き始めるのである。


 A自宅に300万円かけてトレーニングルームを作る

 プロに入った木俣は、自らのパワー不足を痛感する。そして、2年目の1965年オフに、大リーグのセネタースで教育リーグに参加したことで、その思いは倍加する。
 このままでは、プロでやっていけない。
 そう感じた木俣は、300万円をつぎ込んで自宅にトレーニングルームを作る。当時の300万円といえば、破格の金額だったのだが、木俣は、自らのバッティングを磨くために惜しみなく最新の設備を整えた。その後、バッティングマシンが発売されたときにも、先陣をきって自宅に導入した。
 そのかいあって、木俣は、1969年には33本塁打でリーグ3位、1974年には打率.322でリーグ2位を記録する大打者に成長する。
 打てない捕手は価値がない、という木俣の哲学は、捕手は打てなくてもリードと肩があればいい、という風潮のあった時代に風穴を開けた。


 B巨人の10連覇を阻む1974年リーグ優勝の原動力

 1974年4月6日、木俣は、広島との開幕戦で安仁屋宗八投手からレフトへ逆転3ランを放ち、チームを軌道に乗せた。
 ペナントは、ONを擁して10連覇を目指す巨人と中日の争いになる。木俣は、この年、首位打者争いに加わるほどハイアベレージを維持し続ける。
 中日は、10月12日に大洋を破って70勝49敗11分とし、71勝50敗の巨人に勝率で上回り、20年ぶりのリーグ優勝を決めた。
 木俣は、打率.322、18本塁打、50打点という好成績を残し、攻守の要として中日優勝の原動力となった。
 一方、それまで9連覇を果たしていた巨人は、10連覇の夢破れ、長嶋茂雄はその年限りで現役を引退した。


 C江夏の完璧な投球を打ち砕く

 1970年9月26日、阪神×中日戦で先発した江夏豊は、2回2死から高木守道にヒットを浴びたものの3回からはパーフェクトピッチングを見せる。9回も無安打で抑えた江夏だったが、スコアは0−0。
 延長戦に入っても江夏の快投は続く。13回表まで11イニング連続で無安打に抑えたのである。しかし、それでもまだスコアは0−0。
 14回表、ついに試合は動く。先頭打者として打席に入った木俣が本塁打をレフトスタンドに打ち込んだのである。中日は、そのまま1−0で勝利を収め、木俣の一振は、完璧な投球を続けてきた江夏を敗戦投手にし、さらに過労による戦線離脱にまで追い込んだのである。
 

 Dマサカリパンチ

 木俣の愛称は、マサカリパンチ。名付け親は、坪内道則ヘッドコーチである。まるで童話に出てくる金太郎のような風貌。そして、一本足で構え、バットを上からマサカリのように振り下ろす打撃フォーム。そこからマサカリパンチという愛称がついた。一般の人々にも木俣独特の打法は、マサカリ打法として広まった。
 後年、木俣は、確実性を増すためにダウンスイングからレベルスイングに変え、右打ちも得意とする巧打者に変貌を遂げ、独特のマサカリ打法を進化させた。


 E打率も本塁打も稼げる捕手

 木俣を語る上で欠かせないのが捕手としての成績以上に、打者としての成績である。1969年に33本塁打を放った木俣は、王貞治の44本、ロバーツの37本に次ぐリーグ3位の成績を残す。
 さらに1970年には30本塁打で王貞治に次ぐリーグ2位の成績を残す。当時、本塁打王は王貞治の独占状態であり、王の存在を考えなければ木俣が本塁打王のタイトルを獲得していたことになる。
 また、1974年には打率.322を残して王貞治の.332に次いでリーグ2位。この年は、全盛期を迎えていた王貞治が三冠王を獲得している。
 そのため、いつも王の陰に隠れる形にはなったが、いつタイトルを獲得してもおかしくない打撃成績を残したことは事実である。
 打率3割4度。捕手としての3割は史上3人目の快挙だった。2桁本塁打15回は、捕手としては当時の常識を覆す成績で、土井垣武や田淵幸一、野村克也とともに後世に与えた影響は大きい。
 通算安打は1876本。セリーグの捕手として通算最多安打記録を樹立した。もし中尾孝義の入団がなければ軽く2000本安打に届いていたはずである。


 F運命のサヨナラホームラン被弾

 1982年、木俣は、正捕手の座を中尾孝義と争っていた。プロ2年目の中尾は、長年安泰だった正捕手の座を脅かす存在に成長し、中尾の起用優先でシーズンが始まったのだ。
 5月23日は、木俣がスタメンでマスクをかぶった。そして、8回には1発を放ち、9回表まで9−6とリードする展開になる。
 しかし、9回裏2死後、大洋は満塁のチャンスを作る。回ってきた打者は長崎啓二。中日の投手はリリーフエースの鈴木孝政だった。外角を要求した木俣に対し、鈴木のシュートは逆球となって内角高めに入った。長崎は、それをものの見事にライトスタンドに運んだ。10−9とひっくり返す逆転サヨナラ満塁ホームランだった。
 これをきっかけにして木俣は、完全に控えに回った。木俣は、その年限りで現役を引退し、逆に中尾は中日優勝への貢献が認められてシーズンMVPに輝いた。


 Gセリーグ捕手最多出場記録を樹立

 木俣は、中日に入団した1964年から引退する1982年まで19年にわたって活躍し、捕手として1998試合出場のセリ−グ新記録を作った。日本記録は、パリーグで生涯一捕手としてボロボロになるまで働いた野村克也で、世界記録となる2921試合も出場している。
 木俣も、外野手や一塁手として出場したのは数えるほどしかなく、野村と同様に生涯一捕手として働いたと言えるだろう。ただ、捕手として2000試合出場にあと2試合であったことは、まだ余力を残しての引退だっただけに、あと124本に迫っていた2000本安打同様、惜しまれるところである。





(2004年11月作成)

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