川崎 徳次
 1921年5月、佐賀県生まれ。右投右打。投手。背番号21(南海)→26・21(巨人)→21(西鉄)。久留米商業学校から満州の撫順炭鉱へ進み、そこの野球チーム満鉄倶楽部で1940年の都市対抗野球に出場。前年の優勝チーム東京藤倉を破って注目を集め、その年の10月には南海へ入団して1勝を挙げる。
 プロ2年目の1941年には12勝を挙げて頭角を現すと、1942年には15勝を挙げる。
 しかし、太平洋戦争の激化に伴い、1943年4月に召集を受けて久留米の歩兵四十八連隊からビルマへ出征。激戦を生き残ったものの、終戦後も捕虜として1年間過ごす。
 1946年8月に復員すると、巨人と契約を結び、1947年には24勝16敗、防御率2.14と見事な復活を遂げる。10完封は、この年の最多完封だった。
 1948年には27勝15敗、防御率2.31、12完封という好成績で最多勝と最多完封に輝く。
 1949年には19勝9敗で巨人の戦後初優勝に大きく貢献する。この年の4月には、投げては1試合8被本塁打13失点完投勝利、打っては3本塁打9打点という破天荒な伝説を残す。そして、その年のオフ、2リーグ分裂に伴って創設となった西鉄に移籍。
 移籍1年目に肘を痛めながらも15勝を挙げる。肘の痛みが癒えた1953年には24勝15敗、防御率1.98という成績で最多勝と最優秀防御率の2冠に輝く。
 1954年には10勝を挙げて西鉄の球団創設初優勝に貢献する。さらに、日本シリーズでも完封勝利を挙げたが、チームは3勝4敗で日本一を逃した。
 1955年にも17勝を挙げて、9年連続11回目の2桁勝利を記録する。
 1956年にはシーズン2勝だったが、コーチ兼任としてチームを悲願の日本一に導く。
 1957年限りで現役を引退し、コーチを2年間務めた後、1960年から2年間、西鉄の監督を務めた。

 戦争による4年間の空白にも関わらず、選手という立場を超えて戦前戦後のプロ野球発展に尽力した投手である。切れのあるシュートを中心に現役後半にはナックルボールも駆使して3球団でエースとして活躍した。

通算成績(実動15年):188勝156敗、防御率2.53、1148奪三振。最多勝2回(1948、1953)最優秀防御率1回(1953)ベストナイン1回(1953)

数々の伝説


 @激戦のビルマから奇跡的に生還してプロ野球復帰

 1941年から始まった太平洋戦争は、戦局が拡大し、1943年4月、ついに川崎も召集を受ける。
 しかも、行先は、激戦地となるビルマだった。川崎は、シンガポールからマレー、タイ、ビルマへと行軍する。その距離は1000キロに及んだ。その後も、ビルマで最前線の戦いを経験しながらも、大多数が戦死者となった激戦のビルマで生き残り、1945年8月の終戦と同時に捕虜となる。
 川崎が日本に復員したのは、その1年後だった。
 そして、1946年10月、巨人と契約を結んで日本球界に復帰する。そして、その年の最終戦に出場して、約4年ぶりの登板を果たす。川崎は、その試合で大下弘にプロ野球史上初となるシーズン20号本塁打を浴びている。


 A吉原正喜への恩で巨人と契約

 戦前、川崎は、南海に所属していたときから、巨人の吉原正喜と知人を通して食事をする仲になる。そして、川崎は、入営時にも吉原から気にかけてもらい、激戦地のビルマで再会したときも、軍曹となっていた吉原から薬や食べ物を贈られるという親切を受ける。
 しかし、幸運にも日本に生還できた川崎に対して、吉原は、インパール作戦の一員として、壮絶な戦死を遂げてしまう。
 川崎は、戦地でお世話になった吉原が戦前に所属していた巨人へ入団し、吉原への恩返しをしたいという気持ちが強かった。そのため、川崎は、戦前に所属していた南海を退社扱いになっていたことを確認して、巨人と契約を結ぶ。
 そして、戦後の復興期に巨人のエースとしてプロ野球の発展を支えるのである。


 B史上初の1球敗戦投手

 1948年5月29日の中日戦は、乱打戦となる。巨人は、10-4から11−12と逆転を許したが9回表に13−12と再逆転する。そして、9回裏無死1塁の場面で急遽中尾碩志の後を受けて、川崎がリリーフのマウンドに立った。長打が出れば同点、本塁打なら逆転の緊迫した場面である。
 エース級の川崎が登板するのは当然であったが、相手打者も強打者の杉山悟である。川崎が投じた初球を絶妙のタイミングで強振した杉山の打球は、瞬く間にレフトスタンドへ吸い込まれていった。逆転サヨナラ2ラン本塁打である。マウンドに立ってわずか1球で試合を終わらされてしまった川崎は、プロ野球史上初の1球敗戦投手となった。


 C投手として8被本塁打13失点で勝利、打者として3本塁打9打点

 川崎と言えば、まず最初に語られるのが、1949年4月26日の巨人×大映戦である。この試合が行われた兼六園球場は、両翼91メートル、センター100メートル、左中間と右中間は膨らみなし、という超小型球場だった。そのうえ、その日は、ホームからセンター方向に強い風が吹いていたという。
 そのため、試合は、プロ野球でありながら両軍合計28得点、合計本塁打は日本新記録の13本塁打というすさまじい内容となる。

 先発の川崎は、7回まで5被本塁打だったが、8回に2ラン本塁打を2本打たれて9−12と逆転を許す。ところが、この試合ですでに3安打2本塁打を放っていた川崎が8回裏にも勝ち越し本塁打を放つなど6点を奪って、15−12と再逆転に成功する。
 川崎は、9回表にもソロ本塁打を打たれたものの、13失点完投で勝利投手となった。
 川崎は、試合後半に中島監督代行から交代要請を受けるも、誰が投げても同じだから、と続投を志願し、完投している。1試合8被本塁打、13失点の勝利投手、1試合9打点は、いずれも日本新記録となった。この記録は、現代の球場の広さ、投手の分業制の発達から考えると、おそらくは不滅の記録である。

 また、打者としては、1949年の本塁打はこの3本のみで、94打数26安打、打率.277だったが、翌年には117打数34安打で打率.291、4本塁打を記録するなど、ときに外野手としても出場している。1954年には60打数19安打、打率.317と打数は少ないながらも3割を記録する非凡さを見せている。


 D巨人の戦後初優勝に大きく貢献

 戦前は、沢村栄治やスタルヒン、中島治康らの活躍により、圧倒的な強さを誇った巨人だったが、戦後の3年間は優勝できずにいた。沢村は、戦死し、スタルヒンは巨人に復帰せず、中島は、監督兼任となるなど、戦力が整わなかったためである。
 しかし、戦力が整った1949年には、戦前の強さを取り戻し、三原脩監督の下で85勝48敗1分という圧倒的な強さで2位に16ゲーム差をつけて優勝を果たす。川崎も、藤本英雄や別所毅彦らとともに巨人投手陣を支えて19勝9敗の好成績を残して貢献する。
 当時のプロ野球は、1リーグ8チームで行っていたが、翌年から2リーグ制に移行することになる。そのため、1949年の巨人は、1リーグ制最後の優勝チームとなった。


 E西鉄創設と共に入団

 1949年11月、プロ野球が2リーグ制になることが決まり、新規参入した球団が選手集めに奔走する。福岡に本社がある西鉄は、地元の九州出身選手獲得が念願だった。
 そのため、西鉄は、佐賀県出身の川崎獲得に動いた。川崎は、巨人との契約がまだ1年間あったため、他に移籍してくれる選手の斡旋に奔走したが、結局、移籍してくれる選手はおらず、自らが西鉄に移籍することを決意する。
 川崎は、移籍1年目に右肘を痛めたものの、痛みに耐えながら15勝を挙げ、西鉄でもエースとして活躍し始め、西鉄黄金時代の基礎を築いていくことになる。


 Fサヨナラホームスチール

 1950年8月26日、大映戦に先発した川崎は、9回表まで1点に抑える好投を見せる。しかし、味方も、林義一投手に抑え込まれて8回裏までに1点しか奪えず、1−1の同点で9回裏を迎える。
 1死ランナーなしで打席に立った川崎は、自ら右中間突破の2塁打を放つ。そして、次打者の1塁ゴロの間に3塁へ進み、2死3塁のチャンスを作った。
 ここで川崎は、自ら試合を決めに行く。何と投手の初球に合わせて本塁へスタートを切ったのである。投手の川崎がホームスチールを狙うことを予想していなかったバッテリーは完全に裏をかかれ、川崎は、セーフとなった。
 投手のサヨナラホームスチールは、1942年10月24日に阪神の御園生崇男が記録して以来、史上2人目の快挙だったが、御園生がサヨナラホームスチール決めたときの投手は川崎であり、川崎は、両方の歴史的な記録を経験したことになる。


 G日本シリーズで全盛期の杉下茂に投げ勝つ

 1954年、シーズン10勝とまずまずの成績を残して西鉄の初優勝に貢献した川崎は、中日との日本シリーズ第4戦に先発する。
 中日の先発は、大エース杉下茂である。川崎は、球の切れ、コントロールともに好調で、杉下と互角以上に投げ合い、9回を3安打5奪三振無四球の無失点に抑えるほぼ完璧な好投を見せる。チームも、4回に2点、7回に1点を奪って3−0で勝ち、成績を2勝2敗に持ち込んだ。西鉄は、最終的に3勝4敗で日本一を逃したものの、このシリーズ3勝1敗でMVPに輝いた杉下に唯一投げ勝ったのが川崎だった。


 H巨人と西鉄で最多勝

 戦後、巨人でエースとして台頭した川崎は、1948年、47試合に登板し、27勝15敗、防御率2.31の成績を残し、チームを2位に引き上げる。27勝は、チームメイトの中尾碩志と並んで最多勝であり、12完封は単独トップだった。 当時は、1リーグ制だけにこの2冠は価値あるものだが、川崎は、2リーグ制となってからも最多勝を獲得する。西鉄への移籍4年目の1953年、47試合に登板して24勝15敗、防御率1.98の成績で最優秀防御率とともに最多勝を獲得したのである。

 川崎は、3球団でエースとして働きながら通算200勝に12勝届かない188勝で終わっているが、これは、1943年から1946年までの約4年間、第二次世界大戦とその後の捕虜生活のため、プロ野球で投げることができなかったためである。仮に第二次世界大戦がなかったとすれば、川崎の通算勝利数は、250勝近くまで延びていたに違いない。


 Iコーチ兼任選手として悲願の日本一

 川崎は、1リーグ制時代の1949年に巨人を優勝に導き、西鉄でも1954年にリーグ優勝に貢献するが、日本シリーズを制しての日本一は、選手時代の晩年に訪れる。
 1956年は、稲尾和久が台頭し、島原幸雄や西村貞朗といった投手がいずれも20勝以上を挙げる活躍でリーグ優勝を果たす。そして、日本シリーズでは稲尾が3勝を挙げる活躍で西鉄を球団創設初の日本一に導くのである。
 川崎は、この年、コーチ兼任選手となっており、主にリリーフを務めて28試合に登板して2勝に終わったが、巨人との日本シリーズではまず相手チームのデータを得るという三原脩監督の策で開幕投手となる。川崎は、敗戦投手となったものの、捨てた1戦目を糧にチームは4勝2敗で球団創設初の日本一となり、コーチ兼任選手として貢献したのである。




(2008年3月作成)

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