川上 哲治 
 1920年3月、熊本県生まれ。内野手。左投左打。背番号16。熊本工業では甲子園に春1回、夏2回の計3回出場。右翼手として出場した1934年の夏と、エースとして出場した1937年の夏に準優勝している。
 卒業後、投手として巨人に入団したものの、投げないときは一塁手を務めるというスタイルでプレーし、まだ十代だった1939年に投げて6勝、打っては打率.338、75打点で首位打者と打点王を獲得。チームも優勝を果たしている。
 1940年にも9本塁打で本塁打王となりながら、投げて3勝するなど通算成績は39試合で11勝9敗、防御率2.61という成績を残している。
 1941年には打率.310、57打点で2度目の2冠王を獲得。巨人は連覇を続け、川上はMVPに選出された。
 戦前だけで6度の優勝に貢献している。
 戦後は、一塁手専任となり、巨人の主砲として活躍した。
 1939年4月9日から11日にかけて9打数連続安打を達成。
 1948年5月16日の金星戦で1イニング2本塁打を記録している。
 1951年には打率.377という高い打率を残して首位打者になり、2度目のMVPに輝いている。
 1953年には日本シリーズで打率.481を残し、シリーズMVPを手にしている。
 1954年7月25日の広島戦でサイクルヒット達成。
 1955年には打率.338、12本塁打、79打点の活躍で首位打者と打点王という3度目の2冠王になり、チームも優勝してMVPとなった。
 1956年5月31日の中日戦で中山投手から史上初の2000本安打を達成した。
 1958年現役引退。戦後も8度の優勝(うち3度は2リーグ制となっての日本一)に貢献している。
 1965年殿堂入り。背番号16は巨人の永久欠番である。
 赤バットで「弾丸ライナー」と名付けられた鋭いライナー性のヒットを量産し、三振も少なく、「打撃の神様」とまで呼ばれた。

通算成績:打率.313(歴代5位)、181本塁打、1319打点、2351安打、MVP3回(1941・1951・1955)、首位打者5回(1939・1941・1951・1953・1955)、本塁打王2回(1940、1948)、打点王3回(1939・1941・1955)。ベストナイン6度(1951年・1953年・1955〜1958)。1953年に日本シリーズMVP

数々の伝説

 @終戦直後に素振り

 1945年8月15日、終戦を告げる玉音放送が流れたとき、川上は、立川航空整備学校にいた。そして、玉音放送が終わった直後から、川上は、戦時中に腰から下げていたサーベルで素振りを始めたという。
 この伝説により、戦後、川上が最初に素振りを始めたという伝説が出来上がっている。
 しかし、翌1946年4月にプロ野球が再開されたとき、川上は、故郷の熊本にいた。巨人復帰の条件として3万円を要求して、契約が進まなかったからである。これは、多くの家族を抱える川上が生活保障として求めたものである。
 結局、巨人は川上に3万円を払い、川上は6月に復帰している。
 並外れた実力と高いプロ意識が生んだ契約だったが、戦後の貧困にあえぐ市民は「金と川上」と言って批判したという。
  

 A日本初の逆転満塁サヨナラ本塁打

 1949年4月12日、後楽園球場で行われた巨人×南海戦は3回表に南海が1点を先制したが、4回裏に巨人が2点を入れて逆転、5回表に南海が4点を入れて再逆転するというシーソーゲームになった。
 スコアは、5−2で南海リードのまま9回裏を迎えたが、巨人も粘りを見せて四球3つで無死満塁のチャンスを作った。
 そこで打席に立った青田昇は三振に倒れ、4番の川上に打順が回ってきた。
 川上は、中原投手の低めの直球を見事にとらえ、打球はライトスタンドへ飛びこんでいった。
 この一発は、記念すべき日本のプロ野球初の逆転サヨナラ満塁本塁打となった。
 本塁打を打ってホームへ帰ってきた川上は、集まったナインから胴上げをされている。


 B日本初の2000本安打

 1956年5月31日の巨人×中日戦で川上は、中山俊丈投手からレフトへ見事に流し打ち、2000本安打を達成した。
 これが日本初の2000本安打達成である。
 しかも、出場1646試合目という異例のスピード記録であり、のちにイチローが日米通算出場でこの記録を破ったものの、現在も日本プロ野球では最速記録の歴代1位に輝いている。
 川上は、現役を通じてシーズン最多安打6回、打率3割以上12回と、時代を代表する安打製造機だった。


 C名言

 1951年3月31日、川上はシーズン前の調整として若い2軍投手を相手に、多摩川グランドで打撃練習をした。
 一心不乱に打ち続けた川上は、夕暮れまで打撃練習を続けた。
 そして、その練習後、川上は「ボールが止まって見えた」とつぶやいたという。
 この年、川上は、打率.377という驚異的な打率を残して首位打者となっている。
 他にも、本塁打はどうやったら打てるか、という質問に対して「ボールを3分割して、下から1/3の点を強打すれば、本塁打の確率が増える」と答えたと言われている。

 
 D打率.377でシーズン三振がわずか6

 1951年、川上は、ヒットを量産し、シーズン終了時点では打率.377で首位打者となった。この.377というアベレージは当時のセリーグ記録であり、1986年にランディ・バースに抜かれるまでセリーグ記録となっていた。現在のところ、歴代7位の打率となっている。
 この年、424打席、374打数で三振の数はわずか6個。月1回三振するかどうかという驚異のペースであり、これは、現在でも規定打席以上の日本記録である。
 

 E赤バット

 1946年、銀座の南風運動具店が川上に赤いバットを贈り、川上は、8月26日の中日戦で初めて使用している。
 これは、赤を信号に見立てて「バットの後ろにはボールを通さない」という意味を込めていたという。
 このバットは、赤ペンキとニスを混ぜてバットに塗りつけたものだったという。
 以後、川上の「赤バット」は大下弘の「青バット」と並んで一世を風靡した。
 

 F弾丸ライナー

 戦後、バットの性質向上やラビットボールの使用でホームラン量産の時代に入ったが、川上の打撃はそれらとは一線を画し、低い弾道で速い打球を飛ばすスタイルを貫いた。
 そのため、本塁打王を二度とってはいるものの、通算本塁打数は181本と、それほど多いとはいえない。
 だが、弾道は、他のホームラン打者よりも速く、打球が強すぎて野手がボールに反応できず、スパイクに当ててはじく、というようなこともあったという。
 野球評論家の大和球士は、川上のあまりに鋭い打球に「弾丸ライナー」という造語を贈った。これは、のちに当たり前のように使われるようになった言葉の起源である。




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