川相 昌弘
 1964年9月、岡山県生まれ。右投右打。内野手。背番号60→0→6(巨人)→7(中日)。岡山南高校ではエースでクリーンアップを打って1981年夏・1982年夏の甲子園に出場。1983年、巨人にドラフト4位で入団している。
 1989年に藤田元司監督の下でレギュラーを獲得し、32犠打を記録してチームのリーグ優勝・日本一に貢献している。
 1990年にシーズン58犠打で犠打の日本記録を更新し、巨人もリーグ優勝を果たしている。
 翌1991年にはシーズン66犠打で自らの作った日本記録を大きく塗り替えた。
 1994年には打率.302を記録し、巨人の日本一に大きく貢献した。1995年にはシーズンに試みた犠打47回をすべて成功させるという離れ業を演じた。
 1996年にも56犠打を残してチームのリーグ優勝を支えている。
 2002年には日本のプロ野球では前人未到の通算500犠打を達成。
 2003年8月20日には大リーグのエディ・コリンズが作った世界記録の通算511犠打を抜く512個目の犠打を成功させた。
 2004年に中日へ移籍し、守備と勝負強いバッティングでリーグ優勝に貢献した。
 2006年限りで現役を引退した。
 最多犠打は、現役を通じて通算7回を記録し、通算533犠打の世界記録を樹立した。

 投手と一塁手のちょうど中間点に転がす絶妙なバントは芸術の域に達しており、2番打者として多くのチャンスを作ってきた。また、堅実な守備と、バットを短く持って広角に打ち分け、野手の間を抜くしぶといバッティングも定評があった。

通算成績(現役23年、実働22年):打率.266、43本塁打、322打点。1199安打。533犠打(世界記録)。ベストナイン1回(1994)ゴールデングラブ賞6回(1989〜1991・1993・1994・1996)最多犠打7回(1990〜1993・1995〜1997)
数々の伝説

 @投手からバントの名手へ

 川相の入団当時を知る関係者の間では「川相はバントが下手だった」と振り返られているそうである。確かに川相は、高校では投手をやっており、プロで野手として活躍するまでにも長い時間がかかっている。新人の1983年には一軍出場なし。1984年に一軍へ登場してくるようになったときも、最初は守備のスペシャリストという位置づけであった。1984年から1988年までの安打数はたったの39。バントは16。
 いつ消えていってもおかしくない目立たぬ野手だったのだ。
 しかし、1989年、藤田元司監督が就任して、ついに川相の潜在能力は引き出されることになる。
 5月4日の阪神戦の1回に猪俣隆投手からバントを成功させたことをきっかけにしてレギュラーの座をつかむと、その年、32犠打を決める。
 川相は、年々、藤田政権にとって欠かせない選手となっていく。


 Aシーズン66犠打

 1990年、川相は、シーズンを通してレギュラーとして活躍し、シーズン58犠打を記録した。これは、それまでの日本記録を上回っていた。
 1991年にはさらに川相は、バントに磨きをかけ、シーズン66犠打を残して自らが前年に作った日本記録を8個も更新した。
 この記録は、2001年にヤクルトの宮本慎也がシーズン67犠打を達成して塗り替えるまで日本記録だった。


 B伝説の10.8で幻の本塁打

 1994年10月8日、この日は69勝60敗で首位に並んでいた巨人と中日が最終130試合目の直接対決に勝てば優勝、という世紀の一戦だった。
 巨人は、落合博満・松井秀喜などの活躍で6−3とリードして9回に入る。
 川相は、中日の野中徹博投手からセンターバックスクリーンへ伸びていくバッティングを見せた。打球はフェンスを越えた後、跳ね返ってグラウンドに戻ってきた。
 しかし、判定は本塁打ではなかった。川相は、懸命に走り、3塁打とする。長嶋茂雄監督は、8分間の抗議を見せたものの、判定が覆ることはなかった。
 巨人は、結局、そのまま6−3で勝利し、リーグ優勝を果たしたが、川相はこの年、シーズン本塁打0本に終わっている。


 C守備の名手

 巨人のショートを長年守り続けた川相の守備は定評がある。元々、一軍に上がってきた頃は守備固めで起用されていたことからも分かるように、堅実でしかも守備範囲が広い。しかも、高校時代までは投手をやっていたため、肩も強い。それゆえ、6度ものゴールデングラブ賞に輝いている。
 川相は、練習で2年間使用したグラブしか試合では使用しないという。そこまで、手になじむまで使い込んでから本番というこだわりを持っているのである。


 D日本新の通算500犠打達成

 川相は、2002年7月25日の阪神戦で9回、バルデス投手から投手と1塁手の間に絶妙のバントを決めて通算500犠打を達成した。初犠打は1985年6月13日のヤクルト戦であり、17年積み重ねての大記録である。
 川相は、平野謙が作った通算451犠打を大きく抜いて日本記録を更新し続け、日本で初めて500犠打を達成した選手となった。


  E世界新となる512犠打達成

 2003年8月10日のヤクルト戦の5回裏、川相は、無死1・2塁の場面で代打として登場する。スコアは、3−6。
 川相は、館山昌平投手から狙い済ましたかのように三塁線にバントを転がし、走者を進めた。このバントで、川相は、大リーグのエディ・コリンズが達成した通算511犠打に並んだのだった。
 そして、10日後の8月20日。ついに職人が世界一の記録を塗り替える瞬間が訪れた。
 横浜戦の6回裏1死1塁で代打は川相。川相は、ドミンゴ投手から落ち着いて投手前にバントを決めた。世界新記録となる通算512犠打目である。
 実際、コリンズの記録は、犠飛も含まれているため、既に川相は、世界記録を達成している、と言われていたが、川相は、あくまで数字として残っている511超えにこだわりを持って挑戦し、そして超えた。
 試合後、原辰徳監督の粋な計らいによって、川相は、ナインから胴上げの祝福を受ける。
 現役引退時には通算533犠打まで記録を伸ばしていた。この犠打世界新記録を破る勢いを持っている現役選手はおらず、おそらく不滅の記録になるだろうとさえ言われている。


  F巨人との決別

 2003年、川相は、原辰徳監督から懇願されて、現役を引退し、原監督の下でコーチとなることを決断する。しかし、シーズン終了前に事態は急変する。巨人のフロントとマスコミを巻き込んだ不可解な原監督退任劇が起こり、川相の立場は宙に浮く。そして、遅れて届いた連絡は、2軍コーチへの就任要請だった。
 その扱いから巨人への不信感を募らせた川相は、現役続行を決意し、自由契約となっての他球団移籍を選択した。川相は、かつて共にプレーした落合博満監督の中日を選び、テスト入団を果たした。



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