川口 和久
 1959年7月、鳥取県生まれ。投手。左投左右打。背番号34(広島)→25(巨人)。鳥取城北高校でロッテから6位指名を受けるも社会人野球のデュプロに進み、1981年、ドラフト1位で広島に入団する。
 1年目は、7試合登板に終わるが、2年目には15試合に登板し、4勝5敗ながら防御率1.93の安定感を示し、頭角を現す。
 3年目の1983年には15勝10敗、防御率2.92の好成績を残し、リーグ最多の4完封を記録する。
 1984年には8勝6敗で広島のリーグ優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでも1勝を挙げて日本一に貢献する。日米野球ではオリオールズ相手に完封勝利を挙げる。
 1986年には12勝9敗の成績で広島のリーグ優勝に貢献すると、1987年には12勝11敗、184奪三振で初の最多奪三振を記録する。
 1989年にも12勝7敗、防御率2.51、192奪三振で2度目の最多奪三振を記録する。
 1991年には12勝8敗、防御率2.90で230奪三振を残して3度目の最多奪三振に輝き、リーグ優勝に大きく貢献する。1986年からこの年まで6年連続2桁勝利も達成した。
 1994年には7勝を挙げたが、その年のオフにFA宣言をして巨人へ移籍する。
 巨人移籍1年目の1995年は、打線の援護に恵まれず、4勝に終わるが、通算2000奪三振を達成する。1996年にはシーズン途中からリリーフに回り、1勝4敗3セーブながら防御率2.95と安定した成績で巨人のリーグ優勝に貢献し、胴上げ投手にもなった。
 1998年は0勝に終わり、その年限りで現役を引退した。

 左腕から繰り出す切れ込むような直球と鋭く曲がるカーブを武器に三振の山を築いて投手王国広島を引っ張った。制球に不安を抱えながらも、それをカバーして余りある球威と切れで打者を抑え込み、広島と巨人で計4度の優勝に貢献した。

通算成績(実動18年):139勝135敗4セーブ、防御率3.38、2092奪三振 最多奪三振3回(1987・1989・1991)

数々の伝説


 @ロッテのドラフト6位を拒否

 川口は、高校2年生のときから鳥取県内屈指の好投手として注目を集め、甲子園出場こそ叶わなかったものの、プロ11球団が挨拶に来るほどだった。
 しかし、川口は、まだプロとして活躍する自信はなく、プロで即戦力となれるように、社会人野球へ進む決意を固めていた。それを公表していたにも関わらず、1977年の秋、金田正一監督のロッテがドラフト6位で強行指名に踏み切る。川口の変心を期待してのことだったが、結局、川口の決意は変わらず、社会人野球のデュプロに進むことになる。


 Aまさかのドラフト1位指名


 希望通り社会人野球の道に進んだ川口ではあったが、実態は厳しく、野球を長時間させてもらうどころか、スーツを着て外回りの営業に出るサラリーマン生活が続いた。
 それでも、2年目には広島からドラフト外指名の確約を受け、3年目には投げれば勝つというほど、投手としての完成度が上がっていた。他球団に獲られることを恐れた広島からは、それ以上投げないでくれ、という指示まで来たという。
 当初、広島は、ドラフト外で獲得する予定だったが、川口が他球団から先に指名されるのを恐れ、1位指名した原辰徳がくじで外れると、外れ1位で川口を指名する。
 1位指名を全く予想していなかった川口は、仕事中にそれを知らされ、仕事着のまま急遽、会社で記者会見を開くことになったという。


 B日本一に貢献

 1984年、シーズン8勝で広島のリーグ優勝に貢献した川口は、阪急との日本シリーズ第3戦に先発する。広島は、序盤から打線が爆発し、4回までに7点を奪う。
 川口も、大量点に守られながら粘り強い投球で9回を8安打3失点8奪三振と安定した投球を見せて完投勝利を挙げる。
 川口は、日本一を賭けた第6戦では重圧のためか3回でKOされるが、広島は、第7戦に勝って日本一に輝いた。


 Cエースとして大リーグを完封

 1984年の日米野球は、広島と大リーグのボルティモア・オリオールズとの試合だった。この日米野球は、1983年にワールドシリーズを制覇したオリオールズと1984年に日本一となった広島とが世界一を賭けて戦うという位置づけにもなっていた。
 日本シリーズでも1勝を挙げていた川口は、オリオールズ戦では第1戦の先発として登板する。川口は、序盤から自慢の快速球が冴えわたって、オリオールズ打線を面白いように打ち取って行く。
 終わってみれば、川口は、9回を6安打無失点10奪三振の好投でオリオールズから完封勝利を挙げる。打っても川口のタイムリーヒットが決勝点となり、1−0で勝利するという川口のワンマンショーだった。
 しかし、広島は、次戦からオリオールズに4連敗を喫し、第1戦の川口の活躍だけが目立つ結果となった。


 D日本シリーズで活躍

 1991年、シーズン12勝を挙げて広島のリーグ優勝に貢献した川口は、西武との日本シリーズでも活躍を見せる。
 広島は、第1戦で西武の圧倒的な破壊力を見せつけられて敗れるが、第2戦では川口が先発して9回途中まで3安打2失点7奪三振の好投を見せる。川口の後を受けた大野豊が後続を抑え、広島は、4−2で勝利して川口はまず1勝を挙げた。
 川口は、第5戦でも先発のマウンドに立ち、8回まで5安打無失点7奪三振という完璧な投球を見せて大野との完封リレーを完成させ、3−0で勝利する。
 この試合で西武に3勝2敗とした広島は、第6戦、第7戦にも川口をリリーフで投入して日本一を狙ったが、さすがに西武の壁は厚く、3勝4敗で敗れて日本一を奪うことはできなかった。川口は、このシリーズで2勝を挙げたことが評価され、敢闘賞を受賞している。


 EFA宣言して巨人移籍

 広島で左のエースとして君臨した川口だったが、関東に住む義父の病という家庭事情からFA宣言して関東の球団への移籍を希望する。
 当初は、声をかけてくれた西武へ入団する予定だったが、1本の電話により状況が大きく変わる。巨人の長嶋茂雄監督が直接、自宅へ電話を掛けてきたからだった。長嶋に東京へ呼び出された川口は、巨人入団への説得を受け、断ることができずに巨人入団を決める。


 Fメイクドラマの胴上げ投手

 1996年、巨人は、7月6日時点で首位広島と11.5ゲーム差をつけられる苦しい戦いを強いられる。もはやリーグ優勝は、絶望的とさえ言えるゲーム差だったが、そこから猛反撃を開始し、長嶋茂雄は「メイクドラマ」を起こすことを宣言する。巨人は、7月を連敗なしで乗り切ると、8月20日には首位に立つという奇跡的な強さを見せる。
 そして、9月には苦しんだものの、10月6日は2位中日を破ってリーグ優勝を決め、メイクドラマを完結させたのである。その立役者の1人が川口だった。川口は、シーズン中盤で手薄なリリーフに回って好投を続け、シーズン終盤は守護神としてメイクドラマを支えた。
 そして、10月6日の中日戦では5−2の8回裏途中から登板して1回1/3を完璧に抑え、最後は三振を奪って胴上げ投手となったのである。


 G最多奪三振3回と通算2000奪三振

 川口は、切れ込んでいく快速球と大きなカーブを武器にプロ入り3年目にはシーズン166奪三振を記録する投手に成長する。
 その後は、11年連続で100奪三振以上を達成し、1987年には184奪三振で初のリーグ最多奪三振を記録し、1989年には192奪三振で2度目の最多奪三振を記録する。
 さらには1991年には自己最高の230奪三振を記録して3度目の最多奪三振に輝くとともに、チームをリーグ優勝に導いたのである。
 精密なコントロールを捨てた荒れ球の直球と落差の大きいカーブは、そのいずれでも空振りを奪うことができた。投手は、少ない球数で打ち取ることが理想だが、川口は、荒れ球のボールを有効に使い、球数を消費しながらも最後は奪三振でアウトを取って観客を魅了する投手だった。
 川口は、1995年に通算2000奪三振を達成し、通算200勝に匹敵する快挙を成し遂げたが、2000奪三振以上を記録して150勝未満なのは川口ただ1人である。


 H最多四球王6回

 川口は、制球力を磨くより、球の切れと変化球の鋭さを常に求め続けた投手である。
 そのため、ワインドアップ投法から繰り出す豪快な投球によって数多くの三振を奪う一方、四球も多かった。
 川口は、1983年に104四球でリーグ最多四球を記録すると、1988年には72四球、1990年には87四球、1991年には82四球、1993年には74四球、1994年には93四球で合計6度のリーグ最多四球を記録している。1988年と1991年にはシーズン最多暴投も記録している。
 そのせいか、最多四球を記録した6回のうち、3回が負け越しで10敗以上を喫した。




(2009年8月作成)

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