鹿取 義隆
 1957年3月、高知県生まれ。投手。右投右打。背番号29(巨人)→26(西武)。高知商業高校から明治大学に進み、4年時の春には優勝に貢献して大学通算21勝を記録する。1979年にドラフト外で巨人へ入団する。
 1年目から主に中継ぎとして38試合に登板し、3勝2敗2セーブ5SP、防御率3.36という成績を残し、頭角を現す。
 2年目の1980年には51試合に登板し、4勝3敗3セーブ7SP、防御率1.78という好成績を残す。
 1983年には主に中継ぎとして5勝2敗1セーブ4SP、防御率3.64で巨人のリーグ優勝に貢献する。
 1987年には巨人の守護神としてリーグ最多の63試合に登板し、7勝4敗18セーブ25SP、防御率1.90を残して巨人をリーグ優勝に導いた。
 さらには1988年にも8勝4敗17セーブ25SPを残す。1989年に2勝1敗3セーブ5SPとやや低迷したものの、1990年に西武に移籍するといきなり3勝1敗24セーブ、27SPの成績を残し、セーブ王と最優秀救援投手のタイトルを獲得し、西武優勝の原動力となった。
 1991年にも7勝1敗8セーブ15SP、防御率1.78と自身3度目の防御率1点台を記録する。
 1992年には10勝1敗16セーブ26SP、防御率2.47を残し、リリーフ投手としては珍しい2桁勝利2桁セーブを記録している。1993年には自身5度目の20SP以上を記録する。
 1990年から1994年まで西武のリーグ5連覇と3度の日本一に大きく貢献した。
 1996年までは毎年安定した成績を残していたが、1997年、1勝1SPの成績に終わり、現役を引退した。
 2006年、WBC日本代表のヘッドコーチとして日本代表を世界一に導いた。

 サイドスローともアンダースローとも言える変則的な投球フォームから抜群の制球と球威で打者を牛耳り、毎年安定した好成績を残したリリーフ投手である。中継ぎとしても驚異的な安定感を誇り、セットアッパーのはしりとも言える存在である。

通算成績(実働19年)91勝46敗131セーブ216SP、防御率2.76、846奪三振。最優秀救援投手1回(1990)セーブ王1回(1990)
数々の伝説

 @「空白の1日」によりドラフト外入団

 1978年11月22日のドラフト会議は、あの有名な「空白の1日」事件のもつれで、巨人が会議自体をボイコットする異常事態となる。
 つまり、巨人は、江川卓を獲得するために、ドラフトにかかる有望選手は誰一人獲得できない、という苦境に陥ったのである。すると、巨人は、ドラフトで誰も獲得できなかった代わりに、ドラフト外で大量10人の選手を獲得する、という付け焼刃対策に打って出た。
 そんな方策が簡単に成功するはずはなく、獲得した10人中7人は現役通算1軍出場なし、1軍出場した3人のうち2人も通算1安打、通算0安打に終わる。しかし、奇跡的にも、この10人のうちの1人が鹿取だったのである。
 鹿取は、いきなり1年目から中継ぎで中心的な役割を果たし、3勝2敗2セーブを挙げ、名リリーフ投手の道を歩み始めたのである。


 Aピッチャー、鹿取!

 1984年、巨人監督に就任した王貞治は、抜群の安定感を誇る鹿取の投球に着目し、次第に重用するようになる。鹿取は、1986年にリリーフ投手ながらついにシーズン100回を突破するというタフネスぶりを発揮した。
 王は、試合の重要な局面では決まって鹿取を出し、鹿取もまた、期待に応えて中継ぎでのロングリリーフから抑えまで幅広くこなした。そして、巷では王が交代を告げるときの「ピッチャー、鹿取!」が流行語にもなった。これは、かつて長嶋茂雄監督が新浦寿夫を重用して「ピッチャー、新浦!」が流行したのを彷彿させるものだった。
 鹿取の貢献度を高く買うファンの間では「鹿取大明神」と最大の賛辞で称えられた。また、当時は、バブル景気の真っ只中であり、日々投げ続ける鹿取は、働き詰めのサラリーマンの象徴として、仕事で重用されるという意味で「カトられる」という言葉さえ生んだ。


 B山倉とシーズンMVP争い

 1987年の鹿取は、シーズンを通して中継ぎ、抑えとフル回転し、リーグ最多となる63試合に登板することになった。
 それだけの試合数に登板しながら7勝4敗18セーブ25SP、防御率1.90というとてつもない好成績を残して、巨人のリーグ優勝の立役者となった。
 この年、巨人は、最優秀防御率の桑田真澄、首位打者の篠塚利夫、好リードと22本塁打のパンチ力が光った山倉和博ら、多くの選手が活躍して、シーズンMVPの投票は、混戦となった。結局、山倉和博がシーズンMVPに選出されることになったのだが、1位票は山倉より鹿取の方が6票多かった。1位票最多の選手がシーズンMVPに選ばれないという事例は、極めて稀である。


 C西武で最優秀救援投手

 1989年、監督が王貞治から藤田元司に変わり、鹿取は、少し調子を落とすと重用されなくなるという状況に陥った。シーズン登板は、21試合と激減し、ついには外野手西岡良洋との交換トレードで西武に移籍することになった。
 しかし、鹿取は、西武で1年目から守護神として活躍を見せる。
 4月14日から5月30日まで10試合連続セーブという当時の日本記録を樹立し、完全に抑えに定着する。そして、新人で入ってきた潮崎哲也とのダブルストッパー体制で年間を通して活躍し、3勝1敗24セーブ、27SPと自己最高のセーブ数、セーブポイント数を記録する。さらに、リーグ最多セーブ、最優秀救援投手にも輝くとともに、西武を圧倒的な大差でリーグ優勝に導いた。
 そして、古巣巨人との日本シリーズでは、初戦から4連勝での圧勝に終わり、鹿取も1試合に登板し、1回を無失点に抑えた。


 D1回からリリーフして9回まで投げきり、勝利投手

 1994年6月8日の日本ハム戦で先発した西武の村田勝喜は、1回裏に1番広瀬、2番白井一に安打を許し、無死1、2塁のピンチを作ったところで腰を痛めて、わずか4球で降板を余儀なくされる。
 そこで急遽マウンドに上がったのが鹿取だった。鹿取は、また完全に肩ができてなかったせいか、3番田中に安打を許し、続く四番ウインタースの併殺打の間に1点を失ってしまう。
 しかし、1回を1点でしのいだ鹿取は、2回以降、ペースをつかみ、日本ハム打線を完璧に抑え込んでいく。西武は、3回に同点に追いつくと、9回に勝ち越し点を奪い、2−1と逆転に成功する。
 リリーフ投手ながら1回無死から中盤、終盤と投げ続けた鹿取は、9回裏も完璧に抑えてしまい、勝利投手となった。しかも、鹿取が許した安打は、1回の1安打のみで、2回以降は無安打、1四球、1死球というほぼ完璧な内容である。もし、先発していれば1安打完封であり、完璧に肩を作って出てきていればノーヒットノーランを達成していたかもしれない、という完璧な投球だった。


 E8度のリーグ優勝に大きく貢献

 鹿取は、1983年に主に中継ぎとして5勝2敗1セーブ4SP、防御率3.64の成績を残し、巨人のリーグ優勝に貢献すると、1987年には王貞治監督の期待に応えて7勝4敗18セーブ25SP、防御率1.90とMVP級の活躍でリーグ優勝の原動力となる。1989年に巨人で3度目のリーグ優勝に貢献すると、移籍した西武では1年目から24セーブ、27SPでリーグ優勝、そして自身初の日本一に貢献したのである。
 1991年10月3日には、シーズンでの獅子奮迅の働きぶりが評価され、13−1という大差にも関わらず、9回表に森祇晶監督は鹿取を投入する。
 鹿取は、1安打を浴びたものの無失点に抑えきり、初の胴上げ投手に輝いた。
 1993年には鹿取、潮崎に新人の杉山賢人が加わり、前代未聞のトリプルストッパー体制が確立した。3人とも守護神が務まるという脅威のリリーフ陣は、「サンフレッチェ」と名づけられ、他球団に恐れられた。鹿取加入以降、西武は、圧倒的な強さで1990年からリーグ5連覇、日本一3連覇を達成することになるのである。


 F通算216セーブポイント、755試合登板

 鹿取は、実働19年間で216セーブポイントを記録した。それまで200セーブポイント以上を記録していたのは210セーブポイントの江夏豊のみであり、江夏もセーブポイントが公式記録となってからの積算であるため、鹿取の216セーブポイントは、当時の日本新記録となった。

 しかし、それ以上に驚異的なのは通算755試合に登板したという登板数の多さだろう。現役時代は、初期を中心に中継ぎで投げることが多かったため、勝利もセーブがつかなかった試合が数多くある。ホールドのポイントもなかった当時では、働きぶりがそのまま記録に残らないという損な役回りだった。もし、現役を通じて抑え専門であったなら、とてつもない通算記録が残っていたはずである。
 鹿取は、プロ19年間でシーズン40試合以上登板したのが実に10回あり、1987年にはリーグ最多の63試合に登板している。1979年から1996年まで18年連続で20試合以上に投げており、そのタフネスぶりこそ、特筆されるべきだろう。


 G19年中17年が勝ち越し

 鹿取のシーズン成績を見ると、毎年のように勝ち星が先行している。プロ19年間で勝ち越した年が17回もあり、1回は勝ち数と負け数が同じである。唯一負け越した1985年でさえ4勝5敗4セーブ8SPで防御率3.52と鹿取にしては調子がいまいちではあったが、一般的には好成績と言える。ここまで勝ち数が先行しているのは、安定して超一流の成績を残してきた証でもある。通算勝率も.664と他のリリーフ投手を圧倒しており、投球回数1000回以上では勝率.668で歴代3位の稲尾和久に肉薄する歴代4位の好成績である。

 鹿取は、通算防御率も2.76と超一流であり、その防御率の良さを他の投手と比較すると同時代に活躍していた先発のエース格をしのぎ、斎藤雅樹に匹敵するほどの好成績である。
 そんな鹿取がいた巨人や西武が圧倒的な強さを誇ったのも無理はなかった。鹿取の全盛期は、巨人が3度のリーグ優勝、西武が5度のリーグ優勝と、そのチームの黄金時代でもあったのである。



(2007年2月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system