加藤 英司
 1948年5月、静岡県生まれ。旧名:秀司。内野手。左投左打。背番号10(阪急)→6(広島)→5(近鉄)→10(巨人)→7(南海)。PL学園で活躍した後、松下電器を経て1969年、ドラフト2位で阪急に入団。
 2年目に35試合出場ながら打率.333を記録すると3年目の1971年にはレギュラーを獲得し、打率.321、25本塁打、92打点の活躍で一躍、チームの中心選手となる。チームもリーグ優勝を果たし、ここから阪急の黄金時代が始まることになる。
 1972年には日本シリーズで打率.417、2本塁打の活躍を見せたものの、巨人に敗れている。
 1973年には打率.337で首位打者を獲得。1975年には打率.309、32本塁打、97打点の活躍で初めて本塁打を30本台に乗せるとともに打点王にも輝いた。阪急もリーグ優勝を果たし、その貢献度の高さからシーズンMVPに選出される。日本シリーズでも広島を破っての日本一に貢献した。
 1976年に82打点で2年連続打点王を獲得すると、1977年には打率.319を残し、5年連続3割以上を記録した。
 1979年には打率.364、35本塁打、104打点という自己最高の成績を残し、首位打者、打点王の二冠王に輝くが、阪急は優勝を逃している。
 1982年に21本塁打を打ちながらも打率.235に終わると、水谷実雄との大型トレードで広島へ移籍。
 広島では肝炎に悩まされて低迷するも、1984年には再びパリーグの近鉄に戻り、1985年には26本塁打を記録する。1986年には巨人に移籍したが、1987年には南海へ移籍。その年に通算2000本安打を達成し、現役を引退した。
 
 低い重心を保ちながら鋭く踏み込んでコンパクトに振り抜く打法で、阪急黄金時代の中心打者として安定した打撃成績を残した。高い打率を残しながらも一発の魅力を秘め、勝負強いバッティングで3度の打点王にも輝くなど、阪急在籍期間に7度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。

 通算成績(実働19年):打率.297、347本塁打、1268打点、136盗塁、2055安打。MVP1回(1975)首位打者2回(1973・1979)打点王3回(1975・1976・1979)最高出塁率3回(1976・1977・1979)ベストナイン5回(1973・1975〜1977・1979)ゴールデングラブ賞3回(1975〜1977)
数々の伝説

 @3回目のドラフトで入団

 加藤は、PL学園在籍時の1966年9月、ドラフト4位で東映から指名される。しかし、加藤は、プロ入りする気がなく、社会人野球の松下電器に進んだ。
 松下電器でも活躍を見せた加藤は、1967年11月のドラフトでも南海から10位指名を受ける。しかし、加藤は、これも拒否して松下電器に残った。
 そして、1968年11月のドラフトで今度は阪急からドラフト2位で指名を受け、ようやく重い腰を上げてプロ入りを決めた。


 A1位山田、2位加藤、7位福本

 加藤は、1968年11月12日のドラフト会議で阪急から2位指名を受けて入団する。そのとき、1位指名を受けたのが、のちに通算284勝をあげる山田久志だった。
 そして、下位の7位指名を受けたのが、のちに通算1065盗塁を残して世界の盗塁王と呼ばれる福本豊だった。
 この3人は、いずれも阪急の中心選手となり、阪急黄金時代を築いて行く。また、この年の新人は、他球団を見ても、田淵幸一や山本浩二、東尾修、大島康徳、星野仙一、有藤道世といったそうそうたるメンバーが揃っており、史上稀に見る大豊作ドラフトと評されている。


 BシーズンMVP

 1975年、阪急は、前期優勝、後期6位ながらプレーオフで近鉄との対戦を制し、リーグ優勝を決める。山田久志・山口高志が12勝を挙げ、長池徳二が25本塁打、マルカーノが23本塁打を放つなど、主力選手が安定した成績を残した。
 中でも加藤は、打率.309(3位)、32本塁打(2位)、97打点(1位)と主要3部門それぞれで好成績を残した。5月9日から18日までの間には9試合連続打点を挙げるなど、前期優勝の原動力となったところが高く評価され、シーズンMVPに選出された。


 C改名してあわや三冠王

 1978年、加藤は、突如不振に陥る。腰を痛めたためだった。1977年は、打率.319でパリーグ3位だったのが、一転打率.255で25位にまで落ちてしまった。
 加藤は、この不振から脱却するため、自らの名前を「秀司」から「英司」に変える。
 すると、1979年、加藤はよみがえる。打率.364、35本塁打、104打点の活躍で打率、打点の二冠王に輝く。打率は、2位の新井宏昌に6厘差、打点は島谷金二に2点差をつけた。本塁打もタイトルを獲ったマニエルに2本差の2位で生涯最高の成績を残したが、惜しくも三冠王は逃している。


 D超大型トレード

 1982年、加藤は、打率.235、21本塁打、84打点と、打率の低迷に苦しんだ。そんなとき、広島の水谷実雄とのトレードが持ち上がった。水谷は、広島の中心選手でそれまでの通算成績が打率.289、205本塁打、675打点。一方、加藤は、打率.307、285本塁打、1027打点。
 これほどの中心打者同士のトレードは、当時、珍しかった。
 このトレード成立によって、水谷は、阪急で打率.290、36本塁打、114打点という素晴らしい成績を残す。しかし、加藤は、肝炎に苦しんで打率.261、10本塁打に低迷した。
 加藤は、結局、広島にはこの1年だけ在籍したのみで、すぐ近鉄に移籍することになった。


 E犠牲フライの名手

 加藤は、現役19年間で何と6度の犠牲フライ王に輝いている。1973年に10犠飛で1度目の犠牲フライ王になると、1978年に10犠飛、1980年にも10犠飛、1981年8犠飛、1982年9犠飛、1984年9犠飛とシーズン最多犠打を記録し、犠牲フライを打ちまくった。
 3割以上9回を記録したアベレージヒッターである加藤は、ミートの巧さなら折り紙付き。ノーアウトか1アウトなら確実に1点が計算できるバッターだったわけである。
 加藤の通算犠飛は105。これは、王貞治をしのぎ、野村克也の113に次いで歴代2位の記録である。


 F最多連続試合二塁打6

 加藤は、犠飛とともにもう一つ、隠れた記録を樹立している。
 1972年7月28日から8月2日にかけて記録した6試合連続二塁打である。前年35二塁打で最多二塁打を記録した加藤は、この年も二塁打を量産し、8月2日には日本記録となる6試合連続二塁打を放ったのである。
 ヒットも本塁打も量産できる好打者だった加藤は、通算367二塁打を記録し、リーグ最多二塁打も2度記録している。


 G山田久志から本塁打で通算2000本安打

 1987年、加藤は、プロ5球団目の南海にいた。加藤は、阪急を出て以降、他球団での適応に苦しみ、球団を転々としていた。ようやく、5月7日の阪急戦で通算2000本安打の金字塔を打ち立てるところまでこぎつけたのである。
 この日、阪急は、以前チームメイトとして阪急の黄金時代を築いた山田久志が投げていた。6回裏、加藤は、その山田から通算2000本安打となる本塁打を放った。
 加藤は、この年、9本塁打を放ったが、通算2000本安打を置き土産に現役を引退した。





(2004年12月作成)

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