苅田 久徳
 1911年1月、神奈川県生まれ。右投右打。二塁手・遊撃手。背番号15(セネタース・翼・大洋)→30(大和・東急)→29(毎日・近鉄)。本牧中から法政大学に進学し、遊撃手として活躍。
 1934年(昭和9年)、全日本チーム「大日本東京野球クラブ」の遊撃手に選ばれ、第1回アメリカ遠征に参加。
 1934年、巨人に入団。苅田は、三原脩に次いで、契約第2号だった。
 1936年にセネタースに移籍。巨人の退団第一号となった。
 セネタースでは、いきなり16盗塁でプロ野球第1号の盗塁王を獲得。
 セネタースでは後輩の中村信一を遊撃手に育て、自らは二塁に回って鉄壁の二遊間を作り上げた。
 1938年から監督兼任となり、この年の春には打率.299、5本塁打(2位)でシーズンMVPを獲得。その後は大和、東急、毎日、近鉄と球団を渡り歩き、1951年現役引退。
 1969年殿堂入り。
 2001年没。

 走攻守揃った万能プレーヤーとして戦前戦後のプロ野球界に大きな功績を残した。特に二塁の守備は素晴らしく、カットオフプレーや二盗を阻止するクロスプレーのうまさは名人芸とまで言われた。

 通算成績(実働12年):打率.219、37本塁打、202打点、147盗塁。619安打。MVP1回(1938年春)盗塁王1回(1936秋)


数々の伝説


 @巨人契約第2号、退団第1号、プロ野球盗塁王第1号、退場第1号、隠し球1号

 1934年、全日本チームは、プロ化を目指して東京巨人軍を結成。まず第1号として三原脩と契約した。そして、第2号として契約したのが苅田だった。
 しかし、苅田は、プロ野球発足の1936年にはフロントとの確執からセネタースへ移籍。巨人の退団第一号となった。
 また、苅田は、プロ野球盗塁王第1号として名前を残しているが、1936年秋には大阪タイガース戦で主審の二出川延明を突き飛ばし、退場第1号にもなっている。
 他にも、苅田は、1936年5月4日のタイガース戦でプロ野球初となる隠し球も成功させている。


 Aノックバットで沢村攻略

 セネタース時代、巨人には大エース沢村栄治が君臨しており、その剛速球を打ち崩すのは至難の業だった。
 苅田は、対策を練り、軽く振れるが小さくて折れそうなノックバットを持って打席に立つことを試みた。
 苅田は、沢村の剛速球に逆らわずにバットを出し、見事な流し打ちでライト前ヒットを放った。
 ただ、苅田は、ノックバットで打席に立つことをその後は試さなかったと言われている。


 B打撃妨害で出塁し、守備妨害でアウト

 1937年9月24日、セネタース×巨人戦で苅田は、一回裏一死から巨人の田代捕手の打撃妨害で出塁する。儲けものの出塁だった。しかし、次の打者尾茂田の一二塁間に飛んだ打球を一塁走者だった苅田は足に当ててしまう。これは、巨人への守備妨害。せっかく相手の妨害で出塁したのに、自らの妨害でアウトを宣告されたのである。


 C運悪く逃した本塁打王

 1938年の春期、苅田は、シーズン閉幕3日前の7月15日の時点で、苅田が5本塁打を放って単独1位につけており、このまま本塁打王を獲得するかと思われた。
 しかし、それまで33試合で2本塁打だったイーグルスのハリスが7月16日の金鯱戦で3・4号を放ち、さらにその翌日の阪急戦でも何と5・6号を放って苅田を逆転。本塁打王に輝いた。
 5本のままだった苅田は、ほぼ手中にしていた本塁打王を最後の最後で逆転されて2位となった。


 D青リンゴ事件


 1941年、大洋にいた苅田は、試合前のシートノック時、転送されてくる球を捕った後、何と球をかじった。観客は、あの固い硬球がかじられてしまったのに唖然とした。
 苅田は、その球を何事もなかったかのように転送し、戻ってきた球を捕手に返した。
 観客は、苅田が硬球を食べたと思い込んで騒いだが、これは苅田の考えたファンサービスであった。
 苅田は、硬球と同じ大きさの青リンゴをポケットに隠し持ち、硬球が転送されてきた瞬間に青リンゴとすり替えてかじり、その青リンゴを内野で転送させたのだ。
 そして、戻ってきた青リンゴを今度は硬球にすりかえて、捕手に戻したのである。
 目にも止まらぬ早さでカットプレーをできた苅田らしい伝説である。


 E名二塁手

 苅田は、プロ野球史上最高の二塁手との評価もあるほど、華麗で鉄壁な守備で観客を沸かせた。
 捕手に背を向けたまま、外野からの返球をカットして投球モーションに入るため、「後ろに目がついている」と恐れられた。
 また、二盗を阻止するクロスプレーでは、目にも止まらぬ動きで走者をアウトにした。あまりに動きが早いため、審判さえタッチしたかどうかを判断できず、だまされたこともあったという。また、捕球の前に口で擬音をたててあたかも捕球したように見せかけたこともあった、という真偽が定かでない伝説も残っている。
 送球モーションも素早く、一死満塁で普通ならホームゲッツーを狙う場面でもセカンド・ファーストでのゲッツーを簡単に成功させたという。
 また、日本プロ野球史上初めて「隠し球」をした選手としても名高い。




Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system