金田 正泰
 1920年7月、京都府生まれ。左投左打。外野手。背番号28→7→21→7。平安中学で甲子園に出場して活躍して、1942年、大阪タイガース(現阪神)に入団する。
 プロ1年目から68試合に出場し、2年目の1943年にはレギュラーとして打率.246を残す。
 戦後の1946年には打率.347、13本塁打、61打点、152安打と打撃開眼して首位打者と最多安打に輝く。
 1947年にはリーグ2位の打率.311、19盗塁を残してチームの戦後初優勝に大きく貢献し、ベストナインにも輝く。
 1949年には4月にサイクル安打を達成し、シーズンも打率.302、10本塁打、21盗塁を残す。
 1951年にはリーグ3位の打率.322、9本塁打を残すとともに、日本記録となる18三塁打を達成して2度目のベストナインに輝く。
 1953年にもリーグ2位の打率.327、27盗塁を残して3度目のベストナインに輝く。
 1954年には打率.309で6度目の打率3割を記録する。
 1956年に藤村監督排斥事件を起こし、1957年限りで現役を引退した。
 1960年には阪神監督に就任して3位となったが翌年途中で退任した。
 1973年にも阪神監督に就任し、その年はV9の巨人に0.5ゲーム差の2位となったが、翌年は4位に終わり、退任した。

 ダイナマイト打線の中核として、どこに投げられても打てる技術で安打を量産した。そして、俊足で好守の外野手でもあり、走攻守3拍子揃った名選手だった。特に三塁打を放つ技術は突出しており、4度のシーズン最多3塁打を記録している。

通算成績(実働15年):打率.285、55本塁打、568打点、187盗塁、1527安打。首位打者1回(1946)最多安打1回(1946)ベストナイン3回(1947・1951・1953)シーズン最多三塁打18(1951 日本記録)サイクル安打1回(1949)

数々の伝説


 @平安中の黄金時代を築く

 名門平安中に入った金田は、1939年春から1941年春にかけて3年連続で春の甲子園選抜大会に出場する。1939年と1940年にはベスト8の成績を残し、1938年には補欠ながら夏の甲子園にも出場して全国制覇も経験した。
 そんな金田に目を着けたのが、タイガースの松木謙治郎だった。松木は、平安中の金田を徹底的に鍛え上げ、プロでやっていけるだけの実力を蓄えさせたのである。


 A戦後第1号の首位打者

 1946年、戦後のプロ野球に復帰した金田は、シーズン序盤から好調を維持して全試合に出場する。特に打者として急成長を遂げ、激しい首位打者争いを繰り広げる。
 10月末時点では4試合を残して打率.337で、1位の田川豊に1分差をつけられていたが、11月3日のパシフィック戦では5打数3安打と活躍して打率.346まで上げて、打率.342と落とした田川を逆転する。
 金田は、最終戦でもバント安打を決めて退き、打率.347で首位打者を獲得する。金田は、初のタイトル獲得が戦後第1号の首位打者となった。


 Bダイナマイト打線の中核で優勝に貢献

 1946年のタイガースは、歴史上でも屈指の強力打線だった。8月18日のシーズン58試合目までチーム打率3割を超えていたという驚異の打線で、呉・金田・別当・藤村・土井垣・本堂ら、パンチ力ある強打者が揃っていたため、当時人気があったボクシング世界王者ジョー・ルイスの愛称「ダイナマイトパンチ」をもじって「ダイナマイト打線」と名付けられた。
 中でも、金田は、1946年に首位打者を獲得すると、1947年にも打線の中核として打率.311、19盗塁の活躍を見せ、チームは5月30日に首位に立つと、独走態勢を築く。10月26日の巨人戦では、1回に金田がタイムリー三塁打を放って先制すると7−0で圧勝して、タイガースは、戦後初優勝を決めた。


 C史上2人目のサイクル安打達成

 戦後、安定した成績を残し続けた金田は、「どこへ投げても打たれる」と他チームの投手陣から恐れられる強打者となった。
 そして、1949年4月16日、南海戦で金田は、史上2人目のサイクル安打を達成する。
 金田は、第1打席こそ凡打に終わったものの、第2打席に本塁打を放つと、第3打席に安打、第4打席に二塁打を放ち、第5打席に得意の三塁打を放ってサイクル安打となった。


 Dシーズン最多三塁打日本記録

 1951年、金田は、打率.322の好成績を残しているが、それにも増して目立ったのが三塁打である。左の強打者で俊足だった金田は、三塁打を放つ技術が突出していた。特に二塁を回るところから三塁までの加速は素晴らしかったという。
 この年、金田は、シーズン18三塁打を記録して、プロ野球記録を塗り替えたのである。この記録は、現在でも日本記録であり、2位レインズの16本を2本上回っている。
 また、金田は、1946年7月25日の巨人戦で、現在も日本記録である1イニング2三塁打を録したほか、シーズン三塁打王にも4度輝いている。
 そのため、通算三塁打数も103で、福本豊、毒島章一に次いで歴代3位である。


 E藤村富美男排斥事件

 金田は、気性の激しさから武勇伝も多く、危険球を投げてきた別所毅彦をバットを持ったまま追い回したという伝説もある。
 そんな金田が主将として起こしたのが藤村富美男監督の排斥事件である。
 1956年の阪神の選手たちには、藤村富美男新監督が独裁的な采配を繰り広げたことへの不満と、球団の待遇に対する不満があった。そのため、我慢の限界に達した選手たちの大部分がシーズン後、連判状で監督更迭を球団に要求したのである。
 その後、球団は、一旦、金田と契約をしない方針を示したが、球団代表の介入によって、12月30日にようやく金田と藤村が和解するという形で元の鞘に収まる決着を見せた。


 F監督として波乱万丈

 1960年、阪神監督に就任した金田は、2年目に成績が低迷してシーズン途中で球団から休養を言い渡され、そのまま退任に追い込まれる。
 そして、1973年、2度目の阪神監督となった金田は、選手に対する厳しい言動が騒動を巻き起こす。鈴木皖武投手に対して、オープン戦から度々指導を超えたなじり発言が続き、それに加えて起用法にも鈴木の不満が積もっていた。我慢ならなくなった鈴木が6月、名古屋の宿舎で金田に殴りかかるという暴行を働いたのである。
 そして、そのシーズン、阪神は、あと少しで巨人のV9を阻止できるというところまで行きながら0.5ゲーム差で優勝を逃してしまう。
 さらに、ベテラン投手の権藤正利も、金田の度を超えた暴言に不満を持っていた。その年のオフ、ファン交流試合で金田は、権藤から監督室で暴行を受けたのである。
 鈴木は、1ヶ月間の謹慎、権藤は現役引退となったものの、金田に対する選手の不信は消えることなく、1974年に阪神が4位となって、金田は、わずか2年で監督を退任することになった。




(2011年2月作成)

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