郭 泰源
1962年3月、台湾生まれ。投手。右投右打。背番号12→18。台湾の長栄高校から合作金庫に進み、ロサンゼルス五輪に台湾代表として出場。MAX157キロをマークして脚光を浴び、台湾の銅メダル獲得に貢献する。
 1985年に西武へ入団して来日。1年目からノーヒットノーランを達成し、3完封を含む9勝5敗、防御率2.52の好成績を残す。チームもリーグ優勝、そして日本一を達成し、黄金時代へと突入する。
 1986年には剛速球を生かしてリリーフに転向し、5勝16セーブを挙げた。
 1987年からは再び先発に戻って13勝4敗という成績を残し、日本シリーズでも巨人相手に1失点完投でシリーズ初勝利を挙げた。1988年も13勝3敗1セーブ、防御率2.41と抜群の安定感で勝ち星を積み重ね、最高勝率にも輝く。
 1991年には15勝6敗1セーブ、防御率2.59という素晴らしい成績を残して西武をリーグ優勝に導き、シーズンMVPを獲得した。
 1992年にも3試合連続完封を達成するなど、14勝4敗、防御率2.41という好成績を残して2年連続ゴールデングラブ賞にも輝いた。日本シリーズでもヤクルト打線をほぼ完璧に抑えて勝利を挙げている。
 1994年には13勝5敗で2度目の最高勝率を手にする。
 1996年オフには外国人選手初のFA権を取得したものの1997年限りで現役を引退。
 引退後は、台湾に戻って台湾プロ野球界の技術顧問を務めたり、誠泰コブラズの監督を務めたり、と祖国の野球発展へ多大な貢献をしている。

 150キロを超える剛速球と高速変化球を武器に、絶妙のコントロールと流れるような投球フォームをも持ち合わせた投手だった。9度のリーグ優勝、7度の日本一に大きく貢献し、郭源治と並んで史上最高の外国人投手との呼び声は高い。

通算成績(実働13年):117勝68敗18セーブ23SP、防御率3.16 1069奪三振 シーズンMVP1回(1991) 最高勝率2回(1988、1994)ベストナイン1回(1991)ゴールデングラブ賞2回(1991・1992)

数々の伝説


 @ロサンゼルス五輪で157キロ

 郭がその名を世界に知らしめたのは、1984年のロサンゼルス五輪だった。アジア予選で日本を破っていることからして、郭が在籍する台湾の強さは既に計り知れないものがあった。ロサンゼルス五輪が始まってもその強さは実証され、アメリカにこそ1−2で敗れたものの、準決勝まで駒を進めた。
 準決勝の日本戦には郭が先発し、5回に1点を失うものの好投を続け、日本を苦しめた。結局延長10回にサヨナラ負けを喫したものの、その好投は世界中の注目を集めた。
 そして、その好投以上に周囲を驚かせたのが、球速である。MAX157キロを計測した郭の剛速球は、地を這うように低めに伸びてきて低めのストライクゾーンに構えたキャッチャーミットに突き刺さるという恐るべき威力を持っていた。
 ロサンゼルス五輪では、日本が金メダルに輝き、台湾は、銅メダルを獲得している。


 Aオリエントエクスプレス

 郭は、西武や巨人、そして大リーグも交えた熾烈な争奪戦の結果、西武が獲得する。契約金は1億円近かったと言われている。
 ロサンゼルス五輪で名をとどろかせていた郭は、「オリエンタルエクスプレス」の異名を持っていた。東洋の特急である。
 郭は、1年目からその実力を発揮して3完封を含む9勝5敗、防御率2.52の好成績を残す。3完封は、その年のリーグ最多記録だった。そして、西武は、2位に15ゲーム差をつける圧倒的な強さでリーグ優勝を果たす。西武の黄金時代は、郭の出現と共に始まったとも言える。
 郭の投球フォームは、流れるように美しく、しかも、全身の筋力もバランスが良かったため、速球は回転良く低めでホップした。低めで150キロを常に超えるストレートと140キロを超える高速スライダーは、日本の強打者たちもさすがに打ち崩せなかった。
 巨人OBの千葉茂は、郭の剛速球を目の当たりにして、まるで沢村栄治の速球だと驚嘆している。


 B来日1年目にノーヒットノーラン

 来日1年目の1985年6月4日、日本ハム戦に先発した郭の剛速球と高速変化球がうなりを上げた。剛速球を持ちながら、完璧なコントロールも併せ持つ郭は、日本ハム打線を寄せ付けず、7−0で完封勝利を飾るとともに、無安打に抑えてノーヒットノーランを達成したのである。わずか2四死球を与えたのみ。9回には1失策でランナーを出しはしたものの、全く動じず後続を打ち取る完璧な投球だった。
 

 C台湾の国民的英雄

 二郭一荘。台湾国民は、1980年代から1990年代にかけて台湾の英雄をこう呼んだ。二郭とは郭泰源と郭源治、一荘とは荘勝雄である。日本プロ野球での郭源治の通算成績は106勝106敗116セーブと外国人投手としては最高級の実績が残る。荘勝雄の通算成績も70勝83敗33セーブとまずまずの実績を残した。
 彼らがアマチュアだった時代には、まだ台湾プロ野球は存在せず、日本プロ野球のスカウト陣が彼らの並外れた素質に目をつけ、郭泰源は西武へ、郭源治は中日へ、荘勝雄はロッテへ入団したのである。
 台湾では、この3人の日本での活躍を連日のように報じていた。レベルの高い日本でプロのそうそうたる打者を牛耳る3人の台湾人投手の奮闘ぶりは、台湾の野球熱を煽った。
 1990年に創設となった台湾プロ野球の中華職業棒球聯盟は、彼らの活躍の賜物とさえ言ってもいいだろう。


 DシーズンMVP

 郭の入団以降、西武は1989年を除いて毎年リーグ優勝を果たし、日本一にも輝くという常勝チームになった。
 郭が全盛期だった1985年から1994年までの10年間は、リーグ優勝9回、日本一7回と向かうところ敵なしの状態だった。
 その中で郭が最も活躍したのは1991年である。4完封を含むシーズン15勝6敗1セーブ、防御率2.59で、激しく首位争いをした近鉄に強かった。12完投というタフネスぶりもさることながら四球数30とほぼ完璧なコントロールが光った。
 その抜群の安定感と貢献度によって、郭は、無冠であったにもかかわらず、デストラーデや秋山幸二、工藤公康らを押しのけてシーズンMVPに選出される。この年、郭は、さらにベストナイン、ゴールデングラブ賞にも選出されている。


 E外国人初のFA権取得

 外国人選手ながら毎年ローテーション投手として安定した成績を残してきた郭は、1996年オフ、ついにFA権を取得する。これにより、外国人選手枠の規定から外れ、日本人選手として扱われるようになった。先に来日して活躍していた郭源治は、1989年に早々と日本に帰化しており、既に外国人選手ではなかった。
 そのため、郭泰源が外国人選手として初のFA権取得となったのである。
 しかし、この頃、郭は、既に自慢の剛速球を失っており、シーズンも0勝6敗という極度の不振に陥っていた。残念ながら郭は、翌年も、復活することなく、日本人選手扱いとしては勝ち星を挙げられないまま現役を引退することになった。


 F台湾球界で指導者として活躍

 日本プロ野球界を現役引退後、郭は、祖国台湾で指導者としての道を選択する。そして、台湾プロ野球の技術顧問として台湾プロ野球界の発展を助ける重要な役割を郭はこなすことになる。1999年には元チームメイトの渡辺久信を呼び寄せて、コーチ兼任選手として大活躍させた。また、許銘傑投手の日本球界入りにも力を貸すなど、日台間の野球交流にも力を注いでいる。
 さらに、2004年から2年間、誠泰コブラズで監督を務めて好成績を残すなど、指導者としても実績を積み重ねている。




(2006年5月作成)

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