郭 源治
 1956年10月、台湾生まれ。投手。右投右打。背番号30→33。小学生時代に台湾のナショナルチームで世界一になって一躍名を挙げ、華興中学を経て輔仁大学に進む。その大学時代に日本の中日からスカウトされて仮契約を結ぶ。
 大学卒業後、2年間の兵役を経て1981年、中日と正式契約を結んで入団する。1年目は途中入団ということもあって1勝に終わるが、翌1982年にはローテーション投手として剛速球と多彩な変化球を武器に9勝7敗の成績を残し、中日のリーグ優勝に貢献する。
 1983年に10勝を挙げると1984年にも13勝を挙げるなど、中日のエース格として1986年まで4年連続2桁勝利を挙げる。
 1987年には星野仙一新監督の方針によって、トレードで放出となった牛島和彦に代わって守護神の座に就き、4勝3敗26セーブ、30SPで最優秀救援投手と最多セーブに輝く。防御率は、驚異の1.56だった。
 翌1988年には抑えながら111回を投げる獅子奮迅の活躍で7勝6敗37セーブ、44SP、防御率1.95で2年連続の最優秀救援投手と最多セーブを記録してチームをリーグ優勝に導いた。37セーブと44SPは、ともに日本記録を塗り替える快挙で、シーズンMVPにも選出される。
 1989年にも25セーブ、29SPを残し、日本に帰化も果たす。
 1991年には再び先発として13勝9敗2セーブ、防御率2.71の好成績を残し、1993年にはまたも抑えとして17セーブを挙げるなど、チーム事情に合わせた起用に応える。
 1994年には8勝ながら防御率2.45で最優秀防御率のタイトルを獲得する。
 1996年、右肘の故障で0勝に終わり、日本プロ野球界を現役引退する。
 しかし、1997年には母国台湾への恩返しのため、台湾プロ野球の統一ライオンズに入団して日本での故障が癒えていないにもかかわらず5勝3敗の成績を残した。
 翌1998年に和信ホエールズに移籍すると本領を発揮して14勝3敗という驚異的な成績を残す。
 1999年にはシドニー五輪予選に台湾代表として出場し、韓国を相手に好投を見せた。和信でもシーズン9勝5敗の成績を残しながらもその年限りで現役を引退した。

 躍動感あふれるフォームから繰り出す伸びのある速球と鋭いシンカーやスライダーで先発でもリリーフでも好成績を残した。全盛期の速球は、150キロを超えており、クローザーとして最後の打者を抑えた後に見せる郭ダンスは、特に人気を呼んだ。

通算成績(日本:実働16年)106勝106敗116セーブ、141SP、防御率3.22 1415奪三振 最優秀救援投手2回(1987・1988)最多セーブ2回(1987・1988)シーズンMVP1回(1988)最優秀防御率1回(1994)
(台湾 実働3年)28勝11敗、防御率2.67
(プロ通算:実働19年)134勝117敗116セーブ

数々の伝説


 @貧困から世界一へ

 郭の少年時代は、1部屋の藁葺き小屋に家族9人が暮らし、収穫した米で何とか食べて行けるのが精一杯という苦しい生活だった。
 そんな状況で郭は野球を始める。スパイクさえない裸足の投手としての出発だった。
 それでも抜群の身体能力を誇っていた郭は、ハングリー精神で頭角を現し、小学六年生のとき、台湾ナショナルチームのメンバーとしてリトルリーグのワールドシリーズでカナダやアメリカを撃破し、世界一の座に就いたのである。


 A来日2年目で中日の優勝に貢献

 2年間の兵役を経て中日と正式契約を結んだ郭は、1年目こそ1勝に終わったものの、2年目には日本の野球と生活にも適応し、ローテーション投手として9勝7敗、防御率3.48というまずまずの成績で中日のリーグ優勝に貢献したのである。
 この年は、谷沢健一やモッカ、鈴木孝政、田尾安志といった中堅選手らに加えて都裕次郎、中尾孝義といった若手選手の台頭によって、混戦となったペナントレースを0.5ゲーム差で制したのだった。郭は、広島の津田恒美と新人王を争ったが、2桁勝利を挙げていた津田の前に惜しくも新人王は逃している。


 B台湾の国民的英雄

 二郭一荘。台湾国民は、1980年代から1990年代にかけて台湾の英雄をこう呼んだ。二郭とは郭源治と郭泰源、一荘とは荘勝雄である。日本プロ野球での郭泰源の通算成績は117勝68敗18セーブと外国人投手としては最高級の実績が残る。荘勝雄の通算成績も70勝83敗33セーブとまずまずの実績を残した。
 彼らがアマチュアだった時代には、まだ台湾プロ野球は存在せず、日本プロ野球のスカウト陣が彼らの並外れた素質に目をつけ、郭源治は中日へ、郭泰源は西武へ、荘勝雄はロッテへ入団したのである。
 台湾では、この3人の日本での活躍を連日のように報じていた。レベルの高い日本でプロのそうそうたる打者を牛耳る3人の台湾人投手の奮闘ぶりは、台湾の野球熱を煽った。
 1990年に創設となった台湾プロ野球の中華職業棒球聯盟は、彼らの活躍の賜物とさえ言ってもいいだろう。


 Cサヨナラホームラン

 1988年5月13日、リリーフエースとして2年目を迎えていた郭は、4−4の同点で延長10回裏にランナー1人を置いて打席が回ってきた。
 中日ベンチは郭をそのまま打席に送った。中日ベンチとしては、郭をマウンドに送り出したからにはもはや次の投手はありえなかったのだ。
 その郭が巨人の槙原寛己の剛速球を叩くと打球は、意外にも伸びに伸びてレフトスタンドに突き刺さったのである。
 投手による劇的なサヨナラホームランだった。これで波に乗った郭は、この年、リーグ優勝とセーブ日本記録まで突き進んだのである。


 D運命の抑え転向

 1986年オフ、燃える男星野仙一が中日の監督に就任する。そして、まず手始めに行ったのが落合博満の獲得だった。だが、交換選手となった4人のうちの1人が絶対的な守護神の牛島和彦である。
 そうなると、誰かが代わりに抑えをやらなければならない。星野が白羽の矢を立てたのが郭だった。郭の剛速球と情熱的な投球スタイルが抑え向きだと判断したのである。
 星野の決断は正しかった。郭は、抑え転向1年目にして4勝3敗26セーブ30SP、防御率1.56という好成績を残し、セーブ王と最優秀救援投手に輝いたのである。


 E郭ダンス

 満面の笑みを浮べて雄たけびを上げながらジャンプしてのガッツポーズ。郭が抑えをやっていた頃の中日の勝利は、この儀式が名物だった。最後の打者を打ち取ったときに見せる郭の喜び方は、半端でなく、郭の野球への強い情熱がそのまま表れていた。
 あまりにも華麗なこのガッツポーズは、いつしか「郭ダンス」と名付けられ、ファンに愛されるようになった。
 いまだに郭の写真を見かけたとき、圧倒的に多いのはこの郭ダンスの場面を写したものである。


 F弟の事故死とリーグ優勝、そして日本記録

 1988年、リリーフ転向2年目の郭は、前年にも増して投球が冴え渡り、6月には10連続セーブポイントを記録する。
 しかし、7月には弟源利が交通事故死し、悲嘆に暮れることとなる。それでも、チームの優勝のために気力を振り絞った郭は、悲しみをこらえて一心不乱に好投を続け、チームも首位を快走した。
 そして、10月7日、マジック1の中日は、ヤクルトと対戦し、11−3と圧倒的なリードを奪った状況で郭が9回に登板する。郭は、ヤクルト打線を簡単に3人で抑え切り、胴上げ投手となった。それは、弟に捧げる優勝でもあった。

 この年の郭は、江夏豊と森繁和が記録した34セーブを上回る37セーブ、山本和行と石本貴昭が記録した40セーブポイントを上回る44セーブポイントという2つの日本新記録を樹立した。もちろん、シーズンMVPも郭だった。
 星野仙一監督は、そんなリリーフエース郭を常に信頼してマウンドに送り出した。郭を頼りにするあまり、長いイニングを投げさせることも多かったが、星野は「郭は私の命綱ですから」と試合の行方を託した。また、郭も、星野を現役の先輩後輩の関係だった頃から慕い、星野を胴上げするために投げまくった。星野を名監督に押し上げた原点は、郭との信頼関係にあったと言っても過言ではない。


 G100勝100セーブ

 1994年9月21日、阪神戦に先発した郭は、4−0で5安打完封を果たし、通算100勝を達成する。既に前年には通算100セーブを達成しており、江夏豊、斎藤明夫、山本和行、大野豊に続く史上5人目の通算100勝100セーブ達成だった。
 郭は、先発では最優秀防御率、抑えでは最優秀救援投手とセーブ王と、先発と抑えの双方でタイトルも手にしている。1988年のイメージから郭は抑え投手というイメージが強いものの、郭の現役時代は先発、抑えの期間がほぼ同じくらいで、実際はチーム事情に合わせてバランス良くこなしていたことになる。


 H最優秀防御率、しかし伝説の10.8で登板なし

 1994年10月8日、69勝60敗で同率首位となっていた中日と巨人は、最終戦でリーグ優勝を決めるという決戦となった。
 中6日空いていた郭は、この試合に先発を志願している。郭は、シーズン8勝ではあったが、防御率がセリーグトップと好調を持続していた。
 しかし、中日の先発は、若きエース今中だった。その今中は、3本の本塁打を浴びるなど乱調で4回5失点で降板した。
 注目された継投だったが、高木守道監督は、通常の試合と同じように中継ぎ投手を起用し、結局3−6で敗れた。この年、最多勝を獲得した山本昌広、そして、最優秀防御率のタイトルを手にした郭という超一流投手がいたにもかかわらず、起用しなかったことは、その後しばらくの間、物議を醸した。


 Iナゴヤドームのこけら落としで日本プロ野球界の引退試合

 1996年、肘の故障が長引いて0勝に終わった郭は、現役引退を決める。故障が完治すればまだまだ投げられるのではと思われてはいたが、これ以上星野監督に迷惑をかけられないという潔い決断だった。
 そんな郭の心情を思いやった星野と中日は、郭に華麗な引退試合の舞台を用意する。
 1997年から中日の本拠地となるナゴヤドームのこけら落としとなる試合で郭が打者1人限定で先発することになったのである。その試合は、1997年3月17日のオープン戦だった。
 対戦相手は、オリックスで、その1番バッターは、世界一の安打製造機イチローである。郭は、まだ誰も投げたことのないナゴヤドームのマウンドに立ってイチローに真っ向勝負を挑み、140キロ台半ばの直球でセンターフライに打ち取る。
 郭は、「ゲンジ」コールが響く中、マウンドを降り、日本プロ野球界を引退した。


 J台湾野球界のために現役続行

 1996年限りで日本プロ野球界を引退した郭だったが、彼は、自らを育ててもらい、そして日本球界に入ってからも熱狂的な応援をしてくれれた台湾への恩返しを片時も忘れたことがなかった。郭は、日本で培った野球技術を台湾へ伝え、台湾の野球発展のために台湾での現役続行を決意する。
 1997年、郭は、台湾プロ野球の統一ライオンズに入団する。日本での故障が癒えていなかった郭は、この年、5勝に終わるが、和信ホエールズに移籍した1998年には故障から回復し、42歳にして14勝3敗という驚異的な成績を残す。
 翌1999年にはシドニー五輪予選の台湾代表に選出されて韓国戦に先発する。そして、韓国プロ野球界のスーパースターが揃う強力打線に対して5回2失点の好投を披露した。その後、救援投手が打たれて延長11回にサヨナラ負けしたものの、銅メダルを獲得することになる韓国をあと一歩のところまで追い詰めたのは郭の好投だった。
 郭は、この年、和信でシーズン9勝を挙げたものの、背中の故障もあってその年限りで現役を引退した。 
 台湾球界は、長年にわたる郭の野球界への貢献に敬意を表し、台湾代表チームの背番号33を永久欠番とした。




(2006年4月作成)

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