掛布 雅之 
  1955年、千葉県生まれ。右投左打。三塁手。背番号31。習志野高で1972年夏の甲子園に出場し、1安打を放つが初戦で敗退。1974年にドラフト6位で阪神タイガースに入団。
 ドラフト6位ながら、1年目から1軍に抜擢されて83試合に出場し、3本塁打を残す。2年目にはレギュラーの座をつかみ、3年目の1976年には.325、27本塁打の記録を残してベストナインに選出され、阪神の主力選手に成長する。
 1977年に打率.331を残すと、1978年には32本塁打を放ち、ゴールデングラブ賞も受賞する。この年の8月には4打数連続本塁打も放っている。
 1979年には48本塁打を放って本塁打王に輝き、トレードで放出された田淵にとってかわって、ミスタータイガースの称号を手にする。1980年は膝の故障で苦しんだものの、1981年には10打席連続安打の日本タイ記録を樹立し、シーズン打率も自己最高の.341を残す。
 1982年には35本塁打、95打点、打率.325の成績で本塁打王・打点王の2冠王に輝く。1984年にも37本塁打で本塁打王となる。
 そして、1985年には四番として打率.300、40本、108打点の活躍で阪神のリーグ優勝・日本一に大きく貢献。
 しかし、1986年4月、中日戦で左手に死球を受けて骨折。これが掛布の実質上の選手生命を絶つことになった。その後、現役数年は相次ぐ故障に泣き、復活を目指しながらも、満足な成績を残せぬまま33歳という若さで1988年に現役を引退する。

 熱心な練習と研究で打撃を極め、本塁打を量産しながら高打率も残せるミスタータイガースとして活躍した。巨人のエース江川卓との対決は、歴史に残る名勝負と言われている。
 現在は、論理的な打撃理論を展開する野球解説者として人気が高い。 

通算成績:打率.292、本塁打349、打点1019。1656安打。本塁打王3回(1979・1982・1984) 打点王1回(1982) 最高出塁率2回(1981〜1982) ベストナイン7回(1976〜1979、1981〜1982、1985) ゴールデングラブ賞6回(1978〜1979、1981〜1983、1985) 最高長打率2回(1979、1982)

数々の伝説


 @ドラフト6位

 掛布は、ドラフト6位として入団しているが、扱いはドラフト外と同等であり、別に入団してきたドラフト外の選手と2人で入団発表を行っている。
 彼を見つけ出してきたのは、球団のスカウトではなく、素人の阪神後援者だったという伝説や、阪神関係者と掛布の叔父が友人であったため、練習に参加させてもらい、認められたなどという伝説が残っている。
 1年目のオープン戦は、2軍スタートであったが、3月21日の太平洋戦で1軍の中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休み、変わりに使う予定だった野田征稔という選手も母を亡くして帰郷する緊急事態となる。
 仕方なく、掛布が代役として8番で先発出場することになったが、掛布は、その試合で4打数2安打2打点の活躍を見せる。さらに24日の近鉄戦ではサードでスタメン出場して何と4打数4安打の大活躍を見せる。
 その掛布の素質にひかれた監督は、掛布を2度と2軍に落とすことはなく、順調に成長して3年目には主軸を打つようになった。


 Aオールスター史上初の3打席連続本塁打

 1978年のオールスター第3戦に先発出場した掛布は、4回表に佐伯和司投手からライトスタンドにソロ本塁打を放つと、続く5回表にも佐藤義則投手からライトスタンドに2打席連続ソロ本塁打を放つ。
 そして、8回表、パリーグには剛速球投手の山口高志がマウンドに立っていたが、掛布は、またしてもライトスタンドにソロ本塁打を放った。3打席連続本塁打は、オールスター史上初の快挙であり、3打席ともライトスタンドへのソロ本塁打で揃えるという離れ業をやってのけた。
 試合は、セリーグが8−5で勝利。掛布は、MVPに選ばれた。

 掛布は、その後も1981年のオールスター第2戦で9回に1点差に追い上げるソロ本塁打を放つと、延長10回裏にはライトスタンドに2打席連続となるサヨナラ3ラン本塁打でMVPを獲得する。さらに、1982年のオールスター第3戦でも3回に左中間スタンドへ決勝2ラン本塁打を放ってMVPに輝いている。


 B様々な日本タイ記録を樹立

 掛布は、1978年8月31日の広島戦から9月1日のヤクルト戦にかけて1四球を挟んで4打数連続本塁打を記録する。これは、青田昇や王貞治らに続いて史上9人目となる日本タイ記録だった。
 そして、1981年には8月5日の大洋戦で4回にライト前ヒットを放ってから3打席連続安打、6日の大洋戦では4打数4安打1本塁打、2四球、そして8月7日の中日戦でも3打席目まで安打を放って10打数連続安打の日本タイ記録を達成する。
 また、1982年8月24日のヤクルト戦では、7回裏に先頭打者で右中間にソロ本塁打を放つと、その回に打者一巡して回ってきた2死1、2塁のチャンスで今度は、ライトスタンドへ3ラン本塁打を放ち、日本タイ記録となる1イニング2本塁打を達成している。

 Cミスター・タイガース

 1979年、掛布を次期主砲に据えることを決めた阪神は、主砲の田淵幸一を真弓明信とのトレードで西武に放出する。田淵は、王貞治の連続本塁打王記録を止めて本塁打王に輝くなど、高々と舞い上がる軌道の美しい本塁打でミスタータイガースの異名をとっていた。
 四番となった掛布は、田淵の穴を埋めるため、本塁打にもこだわりを見せ、球団記録である初代ミスタータイガース藤村富美男の46本塁打を上回る48本塁打を放って本塁打王のタイトルを獲得する。また、この年は、打率も.327でリーグ2位の好成績を残す。
 この活躍により、掛布は、4代目ミスタータイガースの称号を得ることになる。


 D名言

 1983年6月30日、後楽園球場での巨人×阪神戦。
 巨人の先発は、怪物と言われる巨人のエース江川卓である。
 1回表、ランナーを二人置いて打席に立った掛布は、江川から150キロを超える直球をライトスタンドへスリーランホームランを放つ。
 さらに3回表に満塁で回ってきた第2打席でも150キロを超える直球をライトスタンドへ叩きこむ満塁ホームランとした。
 江川は、この回で降板。
 試合後、掛布は、この日の江川との対決をこう振り返った。
「ボールがどうぞ打ってくださいと話しかけてきた」
 この名言は、川上哲治の「ボールが止まって見えた」という名言と並んで、打撃の達人の極意として、語られることが多い。


 E本塁打王争いで10打席連続四球

 1984年、掛布は、本塁打を量産し、10月2日時点で37本塁打を放って本塁打王争いのトップに並んでいた。同じく37本塁打を放っていたのは中日の宇野勝で、10月3日と10月5日の2連戦で最終直接対決が行われることになった。
 しかし、両チームの投手陣は、本塁打を打たれることを恐れて、まともに勝負しない。掛布は、3日の試合で5四球、5日の試合でも5四球を与えられ、10打席連続四球という日本新記録を樹立する。それまでの記録は、スペンサーの8打席連続四球であり、掛布と同時に宇野も10打席連続四球の記録を作っている。


 Fバックスクリーン3連発

 1985年4月17日、甲子園球場で巨人×阪神戦が行われた。
 試合は、7回表まで巨人が3−1とリード。
 巨人のマウンドには若き日の槙原寛己がいた。
 7回裏、簡単に二死一二塁でまず3番バースが槙原の初球を豪快にバックスクリーンに叩きこみ、4−3と逆転に成功。
 さらに4番の掛布が1−1からバックスクリーンにソロホームラン。その興奮が冷めぬうちに5番岡田が1−0からバックスクリーンへソロホームランを放って3連発となった。
 このバックスクリーン3連発は、奇跡と呼ばれ、阪神タイガースはこの3連発以降快進撃を続けて打ちまくり、この年は日本一にまで登り詰めている。
 また、この年の掛布の本塁打数は40本、バースは54本、岡田が35本とクリーンアップで129本塁打という大記録を残している。


 G21年ぶりの優勝に貢献

 阪神は、プロ野球創設当初からある名門球団であるが、1964年に優勝して以降は低迷を続けていた。
 しかし、1985年は、4番掛布を軸として前後のバース・岡田・真弓らが打ちまくって21年ぶりに優勝した。
 掛布もこの年は、シーズンを通じて本塁打を量産し、打率.300・40本塁打・108打点というMVP並みの活躍を見せている。
 その勢いは、日本シリーズでも衰えることを知らず、西武との日本シリーズでも第5戦で1回裏にセンターへ先制の決勝3ラン本塁打を放って勝利に貢献すると、第6戦でもレフトスタンドへとどめの2ラン本塁打を放ち、阪神を4勝2敗で日本一に導いた。


 H悲運の引退

 優勝した翌年の1986年4月、中日戦で斎藤投手から受けた死球で左手を骨折して以降は、復活を目指しての闘いを続けることになったが、その度に相次ぐ故障に見舞われて完全復活は遠ざかった。
 そして、1987年には永遠のライバルと言われた江川卓が引退、さらに自身もオフである1988年3月に飲酒運転で逮捕されてしまう。
 そして、この逮捕により、オーナーや監督との確執が残り、気力・体力ともに限界に達した掛布は、この年限りで現役引退。何と33歳という若さであった。



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