梶本 隆夫
 1935年4月、山梨県生まれ。投手。左投左打。背番号33。岐阜県の多治見工高から1954年に阪急に入団。
 1年目からいきなり開幕投手に抜擢され、勝利投手になると、波に乗って20勝12敗という好成績を残した。
 3年目には28勝17敗、防御率2.24で327奪三振を記録して奪三振王となり、ベストナインにも選ばれている。
 4年目の1957年にも301奪三振で2年連続奪三振王に輝いている。この年、7月23日の南海戦で9連続奪三振の日本記録を樹立した。
 1966年にはシーズン15連敗という不名誉な日本記録を作ったが、翌年ようやく16連敗で止めて15勝9敗と復活している。チームもリーグ優勝を果たした。この頃、梶本は、パームボールをマスターして投球の幅を広げている。
 1968・69年にも12勝・18勝を残し、チームのパリーグ3連覇の立役者となった。
 1973年限りで現役を引退してコーチ専任となる。
 1979年から2年間は、阪急の監督を務めた。
 2007年、野球殿堂入り。
 生涯を通じて毎回奪三振を3度記録している。

 長身から淡々と投げ下ろす剛速球とドロップを武器に若い頃は多くの奪三振を稼いでパリーグのエースに登り詰め、20年間に渡って故障をほとんどせずに投げ続けた。

 通算成績(実働20年):254勝(歴代9位)255敗、防御率2.98。2945奪三振(歴代6位)。867試合(歴代3位)。最多奪三振(1956・1957)ベストナイン(1956)
数々の伝説


 @高卒の新人開幕投手

 1954年、阪急に入団した梶本は、体を早めに仕上げてキャンプに臨んだ。他の高卒入団投手2人が甲子園に出場して知名度が高かったのに対し、梶本は甲子園出場経験はなく、無名だったからである。
 梶本の150キロを軽く超えていそうな剛速球は、新人の中でも際立っており、それはすぐに西村正夫監督の目に留まった。
 西村監督は、高卒新人の梶本を何と公式戦の開幕投手に抜擢。この起用は、大きく当たり、梶本は開幕の高橋戦を5−3で勝利投手になると、そのまま勢いに乗って20勝12敗という成績を残している。
 

 A20勝で新人王を逃す

 プロ1年目の1954年、梶本は、開幕からエース投手扱いで活躍。このシーズンを20勝12敗、防御率2.73で228奪三振という快記録を残した。
 しかし、梶本は、新人王に選ばれることはなかった。同じ年、南海に入った宅和本司が26勝9敗、防御率1.58、275奪三振で最多勝と最優秀防御率、そして最多奪三振のタイトルを獲得してしまったからである。
 数字の上で圧倒的に勝る宅和が文句なく新人王に選ばれ、梶本は無冠に終わった。20勝以上して新人王になれなかったのは梶本ただ一人である。
 しかし、皮肉なことに梶本が20年に渡って活躍し続けたのに対し、宅和は最初の3年しか活躍することができず、通算56勝に留まっている。


 B公式戦9連続奪三振

 1957年7月23日、梶本は、南海戦に先発。3回に投手の皆川睦男から三振を奪うと、蔭山・森下・田中・野村・岡本・大沢・穴吹・寺田から打者一巡に渡って三振を奪い続け、9連続奪三振の記録を達成した。
 それまでの記録は、7連続奪三振であり、梶本の9連続はそれに2三振を上乗せする新記録だった。
 残念ながら10人目として再び打席が回ってきた皆川は、何とか平凡なセンターフライを放ち、梶本の連続三振記録は止められている。意外にも、梶本の連続奪三振を止めたのは投手の打撃だったのである。
 その後、1958年に土橋正幸が公式戦で9連続奪三振、1971年に江夏豊がオールスター戦で9連続奪三振を奪って、梶本の記録に並んでいるが、未だに9連続奪三振は日本記録として輝いている。


 Cあと1球でノーヒットノーランを逃す

 1959年6月12日、近鉄戦で先発した梶本は、剛速球がさえ渡り、7−0とリードしたまま、8回まで投げきって無安打に抑えていた。
 梶本は、9回も簡単に2死を奪い、あと1人を抑えれば、ノーヒットノーラン達成というところまでこぎるける。しかし、梶本は、ここで関森正治に安打を許してしまい、惜しくもノーヒットノーランを逃したのである。しかも、関森は、このシーズンの打率.205という選手で生涯通算打率も.201、260安打しか残していない。
 結局、梶本は、通算254勝を挙げながら、現役を通じて1度もノーヒットノーランを達成することがなかった。


 Dシーズン15連敗

 1966年、梶本は、4月に2勝するまずますの出足だったが、5月1日に敗戦投手となった後、全く白星から見放されてしまう。
 9月19日の南海戦では好投しながらも0−2で敗戦投手となり、日本新記録のシーズン14連敗を記録した。
 さらに9月27日の東映戦でも敗戦投手となった梶本は15連敗で、その年の成績を2勝15敗で終えている。それでも、防御率は3.68。梶本の不調と言うよりは、この年のチーム打率.229という貧打線に泣いた、と言った方がふさわしいかもしれない。シーズン15連敗は、未だに日本記録である。
 翌年、年をまたいで続いた連敗を何とか16で止めた梶本は見事な復活を見せ、15勝9敗、防御率2.44の成績を残している。


 E打者としても出場

 梶本は、投手としての才能も並外れたものを持っていたが、打者としてのセンスも素晴らしく、投手なのに打順3番を打つこともあった。西本幸雄監督は、梶本を1963年5月12日の東映戦に一塁手で3番打者としても出場させて、梶本は、1安打1打点を挙げた。この年の阪急は、最下位に終わっており、チーム打率も.228。梶本の打撃に頼らざるを得ないほど、当時の阪急の打線がひどかったのだ、とも言われている。
 強打者としても目安とされる敬遠も、通算2度されている。
 また、外野手や代打としての出場もあり、通算成績は打率.204、13本塁打の成績を残している。


 Fカウント2−3で四球

 1972年、東映×阪急戦で、阪急の先発は梶本だった。
 東映の先頭打者だった大下剛史は、1回裏、カウント2−3まで持ち込んだ。
 その後、捕手からの送球を受けた梶本は、足でマウンドをならすなどの行為をしてサインを交換し、投球動作に入ろうとした瞬間だった。
 二塁塁審の露崎が「ボール」を宣告した。野球規則の中に「塁に走者がいないとき、投手はボールを受けた後二十秒以内に打者に投球しなければならない。投手がこの規則に違反して試合を長引かせた場合には、球審はボールを宣告する」とある。その部分が初めて適用されたのだ。
 阪急の西本監督は、当然のように抗議に出たが、ストップウォッチを見せられて断念したという。
 当時から投手の長い間合いによって試合が長引くことが懸念されていた。そのため、規則に基づいて審判が厳格に下した判定であったが、判断が難しいせいか、この規則が適用された例は今のところ梶本ただ1人である。


 G名球会唯一の負け越し投手

 梶本は、プロ生活20年間のうちに通算254勝を挙げたが、同時に負け数も255に上っている。通算200勝以上を挙げた名球会投手の中で負け越しているのは、梶本ただ1人である。
 プロ生活20年間のうち、勝ち越した年が9年、負け越した年が11年と、こちらも負け越しが上回っている。特に1966年の2勝15敗は、13もの負け越しであり、通算成績に大きく響いている。
 しかし、梶本の通算防御率は、2.98。この防御率は、決して悪いわけではない。ただ当時の阪急の打線が梶本を援護しきれなかったことが大きな原因であろう。
 

 H伝説のコーチ

 梶本は、1973年限りで引退すると、そのまま阪急のコーチとしてチームに残った。
 ちょうど、そのころ今井雄太郎という投手が1軍と2軍を行き来して結果を出せないでいた。繊細で気の弱い性格が災いし、2軍でいい成績を出しても、1軍の試合では本来の投球をできないでいたのだ。
 1978年、投手コーチをしている梶本は、今井に酒を飲ませてからマウンドに上げるアイデアを考案。実際、酔って気が大きくなった今井は、その試合で好投。
 そのエピソードがマスコミに取り上げられ、今井は「酒仙投手」の異名をとるとともに、才能が開花。その年の8月31日のロッテ戦では完全試合を達成し、13勝4敗1セの好成績を残して阪急のエースに成長していくことになった。




Copyright (C) 2001-2002 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system