景浦 将
 1915年7月、愛媛県生まれ。投手・外野手・内野手。右投右打。背番号6。松山商業で1931年に春夏連続甲子園出場、1932年春の甲子園で全国優勝、夏に準優勝を果たす。その後、立教大学に進むが、1936年に大学を中退して創設された大阪タイガースへ入団。
 プロ野球開始1年目の1936年から活躍し、投手として6勝0敗、防御率0.79の成績を残して現在も歴代1位となっている勝率10割で最高勝率のタイトルを獲得。最優秀防御率にも輝き、こちらは歴代2位の記録である。打っても打率.275、38打点を稼いだ。
 1937年春には打率.289、2本塁打、47打点(56試合制)で打点王に輝いている。投げては11勝5敗、防御率0.93という驚異的な成績を残した。
 1937年秋には打率.333、3本塁打、31打点(49試合制)で首位打者になっている。投げても4勝1敗、防御率1.41だった。景浦の活躍により、阪神は初優勝し、巨人との優勝決定戦も制した。
 1938年からは主に打者としての活躍になるが、この年の春に31打点(35試合制)で打点王、5本塁打でハリスに次いで2位となり、チームの優勝の原動力となった。大阪は2年連続で巨人との優勝決定戦も制している。
 1939年には9本塁打で10本塁打した鶴岡一人に次いで2位となった。
 1940年からは第二次世界大戦への出征のため、プロ野球を離れる。
 1943年に復帰して本塁打王にあと1本と迫る3本塁打を放ったものの、1944年に再び召集され、1945年5月20日にフィリピンで銃弾を受けて戦死。このとき、わずか29歳の若さであった。
 1965年、野球殿堂入り。
 
 重いバットを豪快に振り回すバッティングでどんな鋭い変化球にもフルスイングでとらえられた。また、投手としても剛速球で強打者たちを抑え込み、外野守備も強肩で鳴らした。「猛将」「闘将」という愛称を持ち、沢村栄治とは永遠のライバルと言われている。

 通算成績(実働5年):打者として打率.271、25本塁打、222打点、307安打。投手として27勝9敗、防御率1.57。首位打者1回(1937秋)打点王2回(1937春・1938春)最高勝率1回(1936)最優秀防御率1回(1936)


数々の伝説



 @甲子園で全国制覇

 松山商業時代、景浦は、既に抜きん出た実力を発揮し、1931年に春夏連続で甲子園出場すると、翌1932年春には全国制覇を成し遂げる。そして、夏の大会でも順調に決勝戦まで勝ち進んだ。しかし、決勝戦の中京商業戦では緊迫した試合となり、同点のまま延長戦に突入。延長11回、ついに力尽きて敗れ、春夏連覇は成し遂げられなかった。


 A沢村栄治から海に打ち込んだ場外本塁打

 1936年は、プロ野球最初のシーズンであると同時に、初めて日本一のチームを決めるシーズンだった。6大会が終わったときに、首位に与えられる勝ち点が2大会単独首位と1大会同率首位という対等の成績で並んでいた巨人とタイガースが洲崎球場で優勝決定戦(日本選手権)を行うことになった。試合は3戦で2試合先取した方が日本一である。
 初戦は沢村と景浦が投げ合った。序盤は沢村の好投で巨人が4−0とリードを奪うがタイガースも反撃をする。4回無死1・2塁でバッターボックスに立った景浦は、沢村の3段に落ちる変化球(縦に割れるカーブ)をものの見事にとらえ、打球は洲崎球場のレフト外野席を軽々と越えて場外の東京湾に消えた。
 この場外本塁打が世間に与えた衝撃は大きく、景浦は「目が縦に付いている」と恐れられた。ここから沢村と景浦は永遠のライバル関係となっていくのである。
 景浦の本塁打で1点差に迫ったものの、沢村はこの本塁打の3点のみに抑え、5−3で巨人が勝っている。
 この年、阪神は1勝2敗で巨人に敗れ、日本一を逃している。景浦は、投手としては2敗したものの、打者としては12打数6安打と活躍を見せている。


 Bシーズン防御率歴代2位

 プロ野球が始まった1936年、景浦は、6勝0敗、防御率0.79という完璧な成績を残す。57回を投げて自責点はわずかに5。この防御率は、1943年に藤本英雄が記録した0.73にわすかに及ばないながらも堂々歴代2位の記録である。
 さらに景浦は翌1937年春も好調を維持し、11勝5敗、防御率0.93を記録した。しかし、沢村栄治はその上を行く0.81という防御率を残していたため、景浦は2位に甘んじることとなった。しかし、防御率0.93は、歴代8位の記録であり、シーズン防御率の歴代10位の中で2回ランクされているのは景浦と野口二郎(4位・7位)だけである。


 Cタイガースを初優勝に導く

 1937年、タイガースは、前年の雪辱のために打倒巨人に燃えるが、春は巨人が41勝13敗2分、タイガースが41勝14敗1分でわずかに及ばず、優勝を逃す。
 しかし、秋は、景浦・藤村富美男・松木謙治郎・藤井勇らのタイガース打線が猛威を振るい、39勝9敗で、巨人の30勝18敗を大きく引き離して初優勝を決めた。景浦は、投打に渡って活躍し、打率.333で首位打者に輝くとともに投手で4勝を挙げている。
 そして、春・秋の優勝チームが日本一を争う優勝決定戦では巨人を4勝2敗と圧倒し、初の日本一に輝いたのである。


 D反抗

 景浦は、チームの大黒柱でチームを引っ張る立場であるがゆえに、石本秀一監督ともしばしば対立している。また松山商業の先輩であった森茂雄を追い出すような形で石本が監督になったことも確執の要因と見られている。
 石本監督と衝突したとき、景浦は、試合で反抗を見せた。外野守備に就いているとき、打球が飛んできたにもかかわらず、突っ立っているだけで他の外野手に球を追わせたり、クソボールを故意に空振し、三振に倒れて堂々とベンチに戻ってきたりしたのである。
 そのため、1965年に野球殿堂入りが決まるときも、一部で「野球に取り組む姿勢に不真面目なときがあった」などという理由で反対意見が出ていたと言われている。


 E打者と投手でタイトル獲得

 景浦は、言わずと知れた強打者である。1937年春に47打点で打点王を獲得すると、1937年秋には打率.333で首位打者、1938年春にも31打点で2度目の打点王に輝くなど、阪神の主砲として活躍した。本塁打も2度に渡ってシーズン2位になっている。
 景浦は、こうした大打者でありながら好投手でもあった。1936年に防御率0.79という信じがたい防御率で最優秀防御率のタイトルを獲得している。
 また同時に6勝0敗で勝率10割という最高勝率も記録した。これは、1937年秋の御園生崇男、1981年の間柴茂有と並んで永久に不滅な歴代1位である。
 プロ野球創設期には投手として投げない日は4番打者として打つ、という二刀流を成功させた。1937年には投手で4番として出場している試合もある。


 F惜しまれる戦死

 プロ野球が創設されてまもなく、日本は戦時下へ突入する。景浦は、1940年から1942年まで徴兵されることになる。景浦が25歳から27歳までの間である。
 1943年にプロ野球へ復帰して1年間活躍したものの、1944年に再び召集がかかる。景浦は、1945年5月20日、フィリピンで米軍の銃撃を受け、壮絶な死を遂げた。というのが公報だが、マラリアの高熱をおして食料調達に出掛けたまま二度と戻ってこなかったという説もある。
 このとき、景浦はまだ29歳の若さであった。
 戦死しなければ、藤村・別当らとともに戦後の阪神で活躍したことが確実なだけに、惜しまれる死である。
 



Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system