門田 博光
 1948(昭和23)年2月、奈良県生まれ。左投左打。外野手。背番号27(南海)→44(南海)→60(南海)→78(オリックス)→53(ダイエー)。天理高校から社会人野球のクラレ岡山を経て1970年にドラフト2位で南海ホークスに入団。
 2年目に素質を野村克也監督に認められて3番に座り、打率.300、31本塁打、120打点で打点王を獲得し、南海の中心打者となる。
 南海では野村の後継者としてコンスタントな活躍を見せる。
 しかし、10年目の1979年2月のキャンプ練習中にアキレス腱断裂の大怪我を負い、3ヶ月の入院。その年のほとんどをリハビリに費やした。
 それでも、翌1980年には自己最多の41本塁打を放って完全復活、翌1981年には7月に月間16本塁打の日本記録を作って、シーズン44本塁打で初の本塁打王に輝いている。
 さらに1983年には40本で2度目の本塁打王となる。
 40歳を迎えた1988年には打率.311、44本塁打、125打点で2冠王に輝き、「不惑のアーチスト」「中年の星」と賞賛された。
 そして、1989年にオリックスに移籍。1989・1990年に33・31本塁打と2年連続30本塁打以上を放っている。
 翌年は再び古巣のダイエーに戻って2年間プレーし、1992年に目の衰えを理由に44歳で現役引退。
 2006年、殿堂入り。

 左打席で豪快にバットを力いっぱいボールに叩きつける打ち方は、常に本塁打を意識したフルスイングで、普通なら体力が衰える40代になっても豪快な本塁打を放ち続けた。

通算成績:打率.289、567本塁打(歴代3位)、1678打点(歴代3位)、2566安打(歴代4位)、通算三振1520(歴代3位)
 本塁打王3回(1981・1983・1988)、打点王2回(1971・1988)、最高出塁率3回(1981・1987・1988)、シーズンMVP1回(1988)。ベストナイン7回(1971・1976・1977・1981・1983・1988・1989)

数々の伝説


 @大きくなっていく背番号

 門田は、南海入団当初、背番号27番で入団。1980年に背番号を44番に変更。この変更は、44歳で亡くなった母への弔いで申し出たものだという。さらに1983年に今度は44から60番に変更して2度目の本塁打王を獲得する。
 1989年に門田はオリックスに移籍。背番号は、現役では最大の78番を選択した。コーチや監督が付けるような番号である。
 そして、1991には再び古巣のダイエーに移籍。ここでも大きな背番号53を付けてそのまま現役を終えた。
 これほどの大打者であり、しかも何度も背番号を変更しながらも、門田は、1桁番号はおろか26番以下の背番号をついには付けることなく終わっている。
 これは、単にこだわりがなかったとも、華やかなセリーグの一流選手に対する反発とも言われているが真相は定かではない。


 Aアキレス腱断裂の大怪我からパワーアップして復活

 1979年2月の高知キャンプで練習中、門田は、コーチの笛に合わせてジャンプして着地した瞬間にアキレス腱を断裂。
 31歳になっていた門田は、そのまま5月まで入院となり、再起を危ぶまれる。その年はほとんどをリハビリに費やし、19試合に出場し、2本塁打のみという成績に終わっている。
 しかし、1980年には打率.292、41本塁打、84打点という入団以来最高の成績で復活。特にそれまでの最高本塁打数が31本だったのを大きく10本も上回る41本塁打を放っている。
 さらにその翌年は44本塁打で2度目の本塁打王となり、歴代3位の567本塁打を数えるまでになった。


 B不惑のアーチスト

 40歳を迎えた1988年、門田は、好調に本塁打を量産し、前年の31本塁打を超えてもなお打ち続け、シーズンが終わったときには44本塁打に達していた。
 打点も125で、本塁打・打点とも自己最高の成績で2冠王に輝いている。
 しかも、40歳での本塁打44本は大リーグでエバンス(タイガース)が記録した34本を10本も上回る驚異の世界記録となった。
 ちなみに日本では王が引退の年に記録した30本が最高記録である。
 そして、1989年にはオリックスに移籍して33本塁打、翌1990年にも31本塁打を放ち、最年長記録を次々に塗り替えている。
 

 C福岡行きを拒否して地元移籍

 1988年末、南海は突如、球団をダイエーに身売り、大阪にあった球団は福岡に移ることとなる。
 1989年2月には41歳となる門田は、この福岡移転を拒否して移籍を希望し、同じ年にこれまた阪急が身売りしてできたオリックスに移ることとなる。
 そして、2年後の1991年、チームの方針とダイエーの熱意から古巣への無償トレードを承諾。ダイエーで2年間プレーして現役を終えている。


 D40歳を超えて133本塁打したフルスイング

 門田の最大の長所は、ミートの際に最も速いスピードでボールを叩く豪快なフルスイングだった。
 そのため、567本もの本塁打を量産。特に40歳を超えてからなお133本積み重ねた記録は、あの全力を注ぐスイングの賜物である。
 その代償として三振の数も多く、歴代3位の通算1519三振を残している。特に鈴木啓示の3000奪三振のときにこれ以上ないフルスイングで三振したことは有名である。
 オリックス在籍時に豪快なホームランを放った後、パワーが衰えた、と嘆いてチームメイトを驚かせたという逸話も残っている。


 E月間本塁打数16本

 1981年7月、門田は、この月に入ってから信じ難いペースで本塁打量産体制に入り、その月が終わったとき、16本に達していた。
 その月は、不運にもオールスター戦があるため、23日から30日までの間は公式戦は行われていなかった。
 したがって、他の月より少ない21試合しか行われなかったにもかかわらず、16本という日本記録を打ち立てたことは奇跡と言える。
  



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