城島 健司
 1976年6月、長崎県生まれ。右投右打。捕手。背番号2。別府大付属高校では捕手として高校通算70本塁打を記録する。
 1995年にドラフト1位でダイエーに入団する。1年目から12試合に出場する。
 2年目は、ウエスタンリーグで25本塁打、63打点を残し、本塁打王と打点王の2冠に輝く。1軍でも17試合に出場して4本塁打を放つ。
 3年目の1997年には捕手としてレギュラーを獲得し、打率.308、15本塁打、68打点を記録する。
 1999年には打率.306、17本塁打、77打点の活躍でダイエーを球団創設初優勝と日本一に導く。この年、初のベストナインとゴールデングラブ賞を受賞する。
 2000年には、右手骨折の影響で規定打席に到達しなかったものの、打率.310を記録してリーグ2連覇に貢献する。日本シリーズではシリーズタイ記録の4本塁打を放つが、巨人に敗退した。
 2001年には自身初の30本超えとなる31本塁打を記録。
 2003年には打率.330、34本塁打、119打点の目覚ましい活躍でチームをリーグ優勝に導き、シーズンMVPを獲得する。さらに阪神との日本シリーズでは2度目となるシリーズタイ記録の4本塁打を放ち、4勝3敗で日本一に輝く。
 2004年にも打率.338、36本塁打、91打点でチームをリーグ1位に導き、2005年も打率.309、24本塁打でチームの3年連続1位に貢献する。
 2006年には大リーグのシアトル・マリナーズに移籍し、打率.291、18本塁打、76打点の活躍を見せる。
 2007年にも打率.287、14本塁打、61打点を残す。2009年には打率.247、9本塁打に終わり、マリナーズと残り2年の契約を放棄して、阪神と契約し、日本球界に復帰する。
 2010年には打率.303、28本塁打、91打点の活躍を見せてチームを2位に押し上げたが、2011年からは両ひざをはじめとする度重なる故障に悩まされ、2012年限りで現役を引退した。

どんな低い球でもすくい上げて本塁打にしてしまうパワーと強引でありながらミートのうまいバットコントロールにより、打率も本塁打も稼げる強打者である。また、座ったまま2塁や1塁へ送球できる強肩と強気のリードでダイエーの黄金時代を作り上げ、捕手として日本人初の大リーガーとなった。

通算成績:(日本14年)打率.296、244本塁打、808打点、1406安打。シーズンMVP1回(2003)ベストナイン6回(1999〜2001・2003〜2005)ゴールデングラブ賞8回(1999〜2005・2010)盗塁阻止率1位4回(2001〜2004)
 (大リーグ4年)打率.268、48本塁打、198打点、431安打。盗塁阻止率1位(2007)
 (日米通算18年)打率.289、292本塁打、1006打点、1837安打。


数々の伝説


 @王貞治の直接訪問でダイエー入団

 城島は、子供の頃から巨人入団を夢見ていた。西武と地元ダイエーも候補ではあったが、ドラフトは、高校生に逆指名の権利がなかったため、城島は、駒澤大学進学を表明していた。
 しかし、城島の本心がプロ入りであることを読み取っていたダイエー球団は、城島を単独ドラフト1位で強行指名する。そして、新監督となった王貞治が直接、別府大付属高校を訪問するという異例の対応に出る。
 そんなダイエーの対応に心を動かされた城島は、大学進学の方針を覆してプロ入りを決断した。


 Aダイエーの初優勝に貢献

 ダイエーは、1989年に球団を保有してから10年間、1度もリーグ優勝をしていなかった。しかし、1999年、ダイエーは、ついに球団創設初のリーグ優勝を果たす。前半戦を首位で折り返すと、後半戦では9月に苦しんだものの首位を死守して、2位西武に4ゲーム差をつけてゴールした。
 打者では城島を中心に秋山幸二、松中信彦、小久保裕紀、吉永幸一郎ら好打者が揃って強力打線を形成し、投手陣では工藤公康、永井智浩、若田部健一、篠原貴行らが好投を続けた。
 城島は、リード面でもベテラン投手陣の信頼を得て全試合に出場し、打率.306、17本塁打、77打点の成績を残す。そして、ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得するなど、攻守にわたってチームをけん引した。


 B日米で盗塁阻止率1位

 城島の魅力と言えば、他の捕手であれば立ち上がって行う2塁や1塁への送球を座ったままできることだろう。しかも、その送球は、矢のような剛速球でいとも簡単に盗塁を刺してしまう。遠投で120メートルを記録するほどの強肩であり、阪神ではファンが城島の送球を「ジョーバズーカ」と呼んで称賛した。
 城島の捕手としての全盛期は、2000年代であり、2001年から2004年まで4年連続盗塁阻止率パリーグ1位、2002年には阻止率.508で半数以上の盗塁を刺している。さらに、大リーグでも、2007年に盗塁阻止率.465でアメリカンリーグ1位を記録しており、日米で盗塁阻止リーグ1位になった。


 C1試合6安打

 2003年は、ダイエーが超重量打線を形成していたこともあって、チーム打率.297という驚異的な記録を残す。
 そんな中で、2003年7月27日のオリックス戦は、ダイエー打線が爆発する展開となる。1回に11点を奪って一方的な試合展開となり、城島も1回にライト前ヒットを放つと、3回の第3打席ではレフトスタンドへ3ラン本塁打、4回の第4打席でもレフトスタンドへ3ラン本塁打、5回の第5打席でもレフトへタイムリー2塁打、6回の第6打席はレフト前ヒット、8回の第7打席もセンター前ヒットを放つ。
 この日は、ダイエーが26−8で圧勝し、城島は、何と7打数6安打2本塁打7打点という驚異的な記録を残した。1試合6安打は、仰木彬と並んでパリーグタイ記録で、プロ野球史上2位の記録である。


 DダイエーでシーズンMVP

 2003年は、城島の年と言っていいほどの活躍を残している。ペナントレースでは、攻守にわたってダイエーをけん引し、打率.330で6位、本塁打34本で3位、打点119で2位となるなど、素晴らしい好成績を残してベストナインに選出される。守備でも盗塁阻止率.427でリーグ1位となり、ゴールデングラブ賞を受賞する。
 この年は、タイトルこそ獲得できなかったものの、ダイエーは、2位西武に5.5ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。城島は、攻守にわたってダイエーをリーグ優勝に導いた立役者として、シーズンMVPに選出された。


 Eダイエーで2度目の日本一


 ダイエーで1999年に球団創設初の日本一を経験した城島は、2003年には攻守の主役として、阪神との日本シリーズで活躍を見せる。
 第1戦では4回に同点ソロ本塁打を放ち、第2戦では3回にソロ本塁打を放ち、いずれも勝利に結びつく。
 そして、3勝3敗で迎えた第7戦では、3回と6回にソロ本塁打を放って、6−2でダイエーの勝利に貢献し、ダイエー2度目の日本一に大きく貢献する。

 シリーズMVPは、2勝を挙げた杉内俊哉投手が選出されたものの、城島のシリーズ4本塁打は、シリーズタイ記録で優秀選手賞を受賞する。
 城島は、1999年にも第1戦から第3戦まで3試合連続本塁打を放ち、第6戦でも本塁打を放ってシリーズ4本塁打を記録している。2003年は、2度目のシリーズ最多本塁打タイ記録達成で、長嶋茂雄以来史上2人目の快挙だった。


 Fアテネ五輪で銅メダル

 城島は、アテネ五輪に日本代表の正捕手として全試合に出場する。日本代表は、予選を1位通過で勝ち抜き、準決勝に進出したものの、オーストラリアに0−1で敗れ、3位決定戦に回る。3位決定戦では、カナダを圧倒し、11−2で勝って銅メダルを獲得する。
 城島は、予選のキューバ戦で本塁打を放ち、3位決定戦のカナダ戦でも本塁打を放つなど、9試合で打率.378、2本塁打、7打点の活躍を見せた。


 G捕手として初の日本人大リーガー

 2005年、城島は、シーズン後半に2度の故障離脱があってプレーオフには出場できなかったが、FA権を獲得し、オフにはリーグ挑戦を決意する。
 11月22日、城島は、シアトル・マリナーズと3年契約を結び、捕手としては史上初となる日本人大リーガーとなった。
 2006年4月3日の開幕戦で城島は、7番捕手で先発出場して、第2打席で本塁打を放ち、翌日には2試合連続本塁打を放つ。
 その後、日本とアメリカの投手の攻め方の違いから、リード面で苦しみながらも、打率.291、18本塁打を残す。シーズン18本塁打は、松井秀喜が大リーグ1年目で残した16本塁打を超える記録となった。


 H第2回WBCで世界一

 城島は、第1回WBCでは大リーグ挑戦が決まった直後ということもあって日本代表に選出されなかったが、第2階WBCでは日本代表に選出され、正捕手として出場する。
 1次ラウンド、2次ラウンドともに韓国に敗れるなど、苦しみながらも準決勝に進出する。城島は、2次ラウンドでキューバが打者への情報伝達を投球と同時に行っていることを逆手にとって、構えた場所と逆の配球を行うという作戦をとって、キューバ打線を2試合連続完封してチームを波に乗せている。

 日本代表は、準決勝でアメリカを9−4で破り、決勝では韓国に延長の末、5−3で破り、見事に世界一連覇を果たす。城島は、準決勝で1打数1安打2犠牲フライの活躍を見せ、決勝では安打こそなかったものの、捕手で4番打者として先発出場し、韓国打線を延長10回3失点に抑えて守り切った。
 城島は、全9試合に出場し、30打数10安打で打率.333、1本塁打、4打点の好成績を残した。


 I捕手としての目途が立たず引退

 阪神と城島は、2010年から4年契約を結んでいたが、城島は、度重なる故障により、2013年は、捕手としてプレーする目途が立たず、球団やファンに対して失礼にあたるという理由から、残り1年間の契約を放棄して、2012年限りでの現役引退を表明した。
 城島は、大リーグのシアトル・マリナーズでも出場機会を制限され、一塁手転向を言い渡されたことで、結んでいた3年契約のうち2年間分を放棄して、日本球界に復帰している。
 城島は、あくまで捕手として1軍出場することにこだわり続け、それができなくなったとき、潔く捕手として引退することを決断したのである。






(2013年1月作成)

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