1941年11月、アメリカ生まれ。左投左打。一塁手。背番号4(南海)→42(近鉄)。サンタアナ大学からフィリーズ、ドジャースのマイナーを経てカブスで1967年に大リーグへ昇格し、以後2年間で打率.248、2本塁打を残す。その後、レッズ傘下のマイナーを経て、1970年に日本の南海へ入団する。
来日1年目は、開幕戦のダブルヘッダーで計4本塁打を放つと、シーズン33本塁打を放ち、88打点を挙げる活躍を見せる。
1971年には6月に5試合連続本塁打を放つなど、シーズン35本塁打を記録し、1972年には打率.292、32本塁打、70打点の活躍を見せる。
1973年には32本塁打を放つ活躍で南海のリーグ優勝に大きく貢献し、守備では一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞する。巨人との日本シリーズでは打率.200、本塁打なしに終わって1勝4敗で日本一を逃す。その年のオフ、打率が低く確実性を欠くという理由で南海を放出され、近鉄に移籍する。
近鉄1年目の1974年には、全試合起用されて打棒が爆発し、打率.226の最下位ながら38本塁打、90打点の活躍で初の本塁打王を獲得する。一塁手としてベストナインにも選出されている。
1975年29本塁打に終わったものの、近鉄の後期優勝に貢献する。
1976年には5月から6月にかけて通算2度目となる5試合連続本塁打を放ち、打率.244ながら36本塁打を記録して2度目の本塁打王に輝く。
しかし、1977年は打率.177、11本塁打と不振に陥ってシーズン途中に現役を引退した。
191センチの巨体を生かした豪快なスイングで本塁打か三振かという打撃を見せて2度本塁打王に輝いた外国人スラッガーである。打率こそ低迷したものの、爆発した時の本塁打固め打ちは魅力的で、野村南海を初優勝に導いている。
通算成績(実動6年):打率.239、246本塁打、562打点、762安打。本塁打王2回(1974・1976)ベストナイン1回(1974)ゴールデングラブ賞1回(1973) |