岩瀬 仁紀
 1974年11月、愛知県生まれ。左投左打。投手。背番号13。西尾東高校ではエースだったが、愛知大学では最初は外野手のレギュラーとして活躍し、愛知大学リーグ歴代2位の通算124安打を記録する。3年秋から投手兼任となる。
 その後、社会人野球のNTT東海で活躍し、1999年にドラフト2位で中日に入団する。
 プロ1年目からセットアッパーとしてリーグ最多の65試合に登板し、10勝2敗1S、防御率1.57の成績を残す。この年、28.15リリーフポイントで最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得する。
 2年目の2000年にも10勝5敗1S、防御率1.90の成績を残し、26.20リリーフポイントで2年連続最優秀中継ぎ投手となる。その後、2003年まで不動のセットアッパーとして活躍。2002年には防御率1.06を記録し、2003年には31.15リリーフポイントで3度目の最優秀中継ぎ投手となる。
 2004年には、中日監督に就任した落合博満の下で守護神に抜擢され、シーズン序盤は故障に苦しみながらも2勝3敗22Sの成績を残し、アテネ五輪にも出場して日本代表の銅メダル獲得に貢献する。2005年には1勝2敗46S、防御率1.88の成績を残す。シーズン46セーブは、それまでの45セーブを塗り替えるプロ野球新記録で、最多セーブのタイトルも獲得する。
 2006年にも40セーブを挙げて2年連続最多セーブに輝くと2007年にも43セーブを挙げて3年連続40セーブ以上という史上初の快挙を達成する。2007年の日本シリーズ第5戦では先発山井大介とのリレーによる完全試合を達成して、中日の日本一に大きく貢献する。
 2008年は、北京五輪に出場したため、36セーブに終わったが、2009年には41セーブを挙げて3度目の最多セーブと4度目の40セーブ以上を達成する。
 2010年6月にはプロ野球史上3人目となる通算250セーブを達成し、名球会入りを果たし、42セーブで5度目の40セーブ以上を記録し、チームをリーグ優勝に導いた。
 2011年9月には前人未到の通算300セーブを達成した。
 2012年には33セーブを挙げて8年連続30セーブ以上を記録するとともに、5度目の最多セーブを記録する。

 左腕から腕が遅れて繰り出される直球と真横に滑ると形容される驚異のスライダーを軸に、絶妙のコントロールで常に安定した投球をできる鉄腕である。中継ぎで活躍後、クローザーとしても活躍し、彼の成績が中日の成績に安定感を生んでいる。

通算成績(2016年末現在):54勝45敗402S、防御率2.13、785奪三振。最優秀中継ぎ3回(1999〜2000・2003)最多セーブ5回(2005〜2006・2009〜2010・2012)

数々の伝説


 @大学時代に野手から投手転向

 岩瀬は、愛知県でも強豪ではない西尾東高校でエースとして頭角を現し、3年夏の県大会ではノーヒットノーランを記録するも、甲子園出場は叶わなかった。愛知大学でも当初は外野手として頭角を現すが、投手としての才能を見いだされ、3年秋からはエースで四番という重責を担うことになる。そして、打者として愛知野球リーグ歴代2位の通算124安打を放つ一方で通算8勝を挙げる二刀流で活躍を見せる。だが、歴代1位になれなかったことが岩瀬に投手1本でいく決意をさせたと言われている。
 その後、社会人野球のNTT東海で伝家の宝刀スライダーを完成させて、逆指名によりドラフト2位で中日に入団する。このときの1位指名は、福留孝介であり、その後は、この2人が中日の屋台骨を支えていくことになる。


 Aプロ1年目にリーグ最多登板でリーグ優勝に貢献

 プロ1年目の1999年、岩瀬は、開幕1軍のメンバーに入り、開幕の広島戦にも登板する。その試合では3連打を浴びて逆転を許すほろ苦いデビューとなったが、その後の登板では立ち直り、落合英二、岩瀬、サムソン・リー、宣銅烈という強力なリリーフ陣を形成する。
 岩瀬は、リーグ最多となる65試合に登板し、10勝2敗1セーブ、防御率1.57という驚異的な成績で中日のリーグ優勝に大きく貢献する。リリーフポイント28.15は、リーグ最多であり、新人ながら最優秀中継ぎのタイトルを獲得する。それでも、この年は、上原浩治が20勝を挙げたため、岩瀬は、新人王を逃している。


 Bセットアッパーの地位を向上

 岩瀬は、プロ1年目から5年目まで中継ぎ投手として活躍する。1999年は、宣銅烈、2000年から2002年まではギャラード、2003年もギャラードと大塚晶則につなぐ役割を黙々とこなし続けた。
 しかも、その5年間のうち4年間は防御率1点台という中継ぎ投手としては驚異の成績を叩き出し、日本にセットアッパーという言葉を根づかせた。
 岩瀬は、1999年に28.15リリーフポイントで最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得すると、2000年には26.20リリーフポイントで2年連続最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。2003年には31.15リリーフポイントで史上初の3度目の最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得する。


 Cクローザーに転向

 2004年、それまでクローザーだったギャラードと大塚がいなくなったことで、ついに岩瀬がクローザーの座を射止める。決断を下したのは、中日の新監督に就任した落合博満だった。
 落合は、かねてから岩瀬を高く評価し、2003年までの酷使を考慮してよほどのことがない限り1イニング限定のクローザーとして大事に起用する。
 岩瀬も、2004年こそ開幕前の左足指骨折の影響があって22セーブに終わるが、中日のリーグ優勝に貢献する。2005年には46セーブで日本タイ記録を樹立してセーブ王に輝き、その後も安定した成績を残し続ける名クローザーになっていく。


 Dシーズン46セーブ

 岩瀬は、クローザー転向2年目の2005年、シーズン当初から好調な投球を続け、高いペースでセーブを積み重ねる。
 チームは、阪神との首位争いに敗れて2位に終わったものの、岩瀬は、1勝2敗46セーブ、防御率1.88で、1998年に佐々木主浩が記録した45セーブを抜いて日本新記録を樹立する。
 この年、最多セーブに輝いた岩瀬は、翌2006年も40セーブ、2007年も43セーブを挙げて、史上初の3年連続40セーブも達成することになる。


 E中日の53年ぶりの日本一に貢献

 2007年の岩瀬は、自己2番目となる61試合に登板し、2勝4敗43セーブ、防御率2.44の成績で史上初の3年連続40セーブ以上を記録し、中日のリーグ2位に貢献する。
 そして、この年から始まったクライマックスシリーズで中日は、第1ステージで阪神に2連勝、第2ステージで巨人に3連勝して一気に日本シリーズ進出を決める。岩瀬は、阪神との第2戦から巨人との第3戦まですべて回をまたいでリリーフしながら4戦連続無失点で4連続セーブを挙げて日本シリーズ進出の原動力となる。
 そして、日本ハムとの日本シリーズでも2セーブを挙げて、岩瀬は、中日の53年ぶりの日本一に大きく貢献し、胴上げ投手となった。


 F日本シリーズで完全試合リレー

 2007年、中日は、2年連続で日本ハムと日本シリーズで対戦する。前年は、1勝4敗で敗れたが、この年は、第1戦に敗れたものの第2戦、第3戦と大勝して盛り返す。
 そして、岩瀬は、第4戦で4−2の9回を無失点に抑えて初セーブを挙げると、第5戦では8回まで日本ハム打線を無安打無四球と完全に抑えた山井大介の後を受けて9回表に登板する。異様な雰囲気の中、岩瀬は、3人を完璧に抑えて1−0の完全試合リレーを完成させ、中日を53年ぶりの日本一に導いた。
 この試合の9回は、山井の完全試合がかかっていたが、落合監督は、球場の山井コールをかき消すかのように、確実に勝つために絶対的守護神の岩瀬投入を選択した。この投手交代は、日本シリーズ史上最大のサプライズとして物議を醸したが、何食わぬ顔で日本シリーズ初の完全試合リレーを達成した岩瀬の評価はさらに高まった。


 Gクローザーとして史上3人目の名球会入り

 2010年6月16日の日本ハム戦で、岩瀬は、5−3の9回表に登板して2塁打を浴びたものの無失点に抑え、通算250セーブを達成する。これは、高津臣吾、佐々木主浩に次いで史上3人目の快挙で、名球会入りを果たした。
 岩瀬は、2004年にクローザーに転向してから実質6年余りでのスピード達成であり、その間に40セーブ以上を4度記録するという快挙を成し遂げている。


 H真横に滑る伝家の宝刀スライダー

 岩瀬は、社会人野球のNTT東海時代に伝家の宝刀スライダーを完成させる。
 このスライダーは、真横に滑るとも言われるほどの切れ味を持ち、プロに入ってから数年は、球威も卓越していたため、スライダーを投げておけば絶対に打たれないほどの魔球となった。そして、打者からは見にくい腕の振りと決して崩れないコントロールが安定した投球につながっている。
 岩瀬は、30代に入ってからも、スライダーを生かすため、シュートやシンカーを駆使して幅のある投球を繰り広げている。





(2010年8月作成)

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