伊東 勤
 1962年8月、熊本県生まれ。捕手。右投右打。背番号27。熊本工業高校時代に甲子園に出場。その後、西武の練習生として定時制の所沢高校に通った後、西武からドラフト1位指名を受けて入団。
 ルーキーの1982年から1軍の試合に出場して徐々に頭角を現し、3年目の1984年にはレギュラーを獲得。打率.284、10本塁打を記録する活躍を見せた。盗塁20個を記録するなど、走攻守にわたって非凡な才能を開花させ始めた。
 1985年には西武の若手投手陣をリードして盗塁阻止率も.392でリーグ1位となり、打っては打率.258、13本塁打で西武のリーグ優勝に貢献した。西武は、この年からパリーグ4連覇を果たし、1986年からは日本シリーズ3連覇を果たす。伊東は、この間に不動のレギュラーとなっていった。
 1990年には打率.281、11本塁打で西武の独走優勝に貢献する。日本シリーズでも本塁打を放ち、リードしては巨人打線を抑え込んだ。チームは4連勝で日本一に輝き、伊東は優秀選手賞を受けた。西武は、この年からパリーグ5連覇、日本シリーズ3連覇を果たす。もちろん、その間も伊東は不動のレギュラー捕手だった。
 1995年には盗塁阻止率.398で2度目のリーグ1位となるが、チームは久しぶりにペナントを逃している。
 1997年にも打率.280、11本塁打を記録して西武の3年ぶりのリーグ優勝に貢献する。この年から西武はパリーグ2連覇を果たした。
 2002年には40歳の正捕手兼コーチとして西武の独走リーグ優勝の立役者となり、19年連続で90試合以上に出場する結果となった。40歳にしてベストナインにも選ばれている。
 2003年には若手に道を譲るため、自ら現役引退を決意し、2004年から西武の監督に就任した。
 その1年目の2004年、シーズン2位ながらその年から導入されたプレーオフ制度を勝ち抜き、日本シリーズでも中日を4勝3敗で破って日本一となった。
 2007年限りで西武の監督を退任した。
 現役を通じて14回のリーグ優勝、8回の日本一に貢献、監督として1回の日本一を達成している。

 絶妙の配球で多くの投手を育て上げた名捕手で、長年に渡って西武の黄金時代を支え続けた。過小評価されがちな捕手の地位を高めた功績は大きく、20世紀を代表する捕手の1人である。

通算成績(実働22年):打率.247、156本塁打、811打点、1738安打、134盗塁。ベストナイン10回(1985〜1988・1990〜1992・1997・1998・2002)ゴールデングラブ賞11回(1985〜1988・1990〜1992・1994・1995・1997・1998)
数々の伝説


 @秋山幸二の高校を破って甲子園出場

 1980年夏、伊東が正捕手で四番に座る熊本工業高校は、県大会決勝で秋山幸二のいる八代高校を破って甲子園に出場する。
 甲子園でもまず1試合目の二回戦で好リードを見せて弘前工業高校に5−0で圧勝すると、続く三回戦では自ら本塁打を放つなど、4−2で勝ち進んだ。
 準々決勝の天理高校戦でも、伊東は本塁打を放ち、2試合連続本塁打を記録した。だが、試合巧者の天理には及ばず、3−6で敗れる。
 それでも、西武は、伊東の素質を高く評価した。しかし、伊東は、3年生ではあったが、定時制に籍を置いており、卒業まであと1年必要だった。西武は、伊東を西武の球団職員として1年間育てるため、熊本工業高校から所沢高校へ編入させる。西武にそこまでさせるだけの素質を伊東は既に備えていたわけである。


 Aサヨナラヒットで日本一を決める

 1988年10月27日、中日との日本シリーズ第5戦は、既に3勝1敗と王手をかけている西武が日本一を狙う試合となった。試合は序盤からシーソーゲームとなる。1回表に中日が先制したものの、西武は1回裏に3点を奪って逆転する。しかし、中日は2回、3回と得点を挙げて再び4−3と逆転。9回表を終わったところで6−5と中日がリードしていた。
 しかし、中日の守護神、郭源治から石毛宏典がソロ本塁打を放って土壇場で6−6の振り出しに戻す。
 試合は延長に入った。11回裏、西武は、2死2塁のチャンスを迎える。ここでバッターは、伊東だった。
 伊東は、郭からライト頭上を襲うヒットを放つ。そして、二塁ランナーが見事に生還。劇的なサヨナラ安打での日本一達成となった。サヨナラ安打での日本一達成は、1965年の巨人以来、史上2度目の快挙だった。


 B野茂英雄のあわやノーヒットノーラン試合を逆転満塁サヨナラ本塁打で終わらせる

 1994年4月9日、パリーグの開幕戦で西武は、近鉄と激突した。近鉄の先発は、エース野茂英雄である。
 その野茂は、1回から西武打線を完璧に抑え込んだ。8回裏まで野茂は無安打無失点。
 9回表に先制の3点を挙げて3−0とリードした近鉄は、野茂のノーヒットノーランに期待をかけた。
 だが、さすがの野茂も、堅くなったのか、清原和博に2塁打を浴びてノーヒットノーランを逃す。野茂は、ここから四球とエラーで一死満塁のピンチを背負ってリリーフエース赤堀元之に交代する。
 そこで、打席には伊東が入った。伊東は、赤堀から必死に粘る。そして、8球目の直球を叩くとレフトスタンドへ打球は吸い込まれていく。スコアは一気に4−3。パリーグを代表する守護神から放った本塁打は、あまりにも劇的な逆転満塁サヨナラ本塁打となった。
 この本塁打は、伊東にとってもプロ通算1000本目となる記念安打だった。
 

 C19年連続90試合以上に出場

 かつて、森昌彦が次々に入団してくる捕手に全く隙を与えず、常にレギュラーを守り続けて「皆殺しの森」と呼ばれたように、伊東もまた、次々に入ってくる捕手にレギュラーをとらせなかった。
 その期間は実に19年。この間、伊東は、常にシーズン90試合以上の出場を続けている。
 それでも、危機が全くなかったわけではない。
 1990年にはかつて日本ハムで活躍した大宮龍男が移籍してきた。1992年にはかつて中日でシーズンMVPも獲得したことがある中尾孝義が移籍してきた。しかし、伊東は、正捕手の座を明け渡さなかった。
 1996年には大型捕手の高木大成が入団してきた。それでも、伊東は捕手として85試合に出場し、高木の59試合を上回っている。そして、高木は、打力を生かすため、内野手に転向させられた。翌年に入団してきた和田一浩もまた、捕手として伊東を超えることができず、野手に転向する。
 1998年にはオリックスで活躍した中嶋聡が移籍してきた。だが、伊東は、中嶋以上の出場数を誇り、レギュラー捕手の座は守り続けた。
 2002年に40歳でベストナインを獲得するまで伊東は、19年間常に正捕手だったのである。


 D捕手として多くの記録

 伊東は、現役生活を通じて1度もシーズン打率3割を記録したことも、打率ベスト10内に入ったこともない。
 しかし、伊東の捕手としての総合力は群を抜いていて、パリーグNO.1捕手の名をほしいままにした。盗塁阻止率こそリーグ1位になったのは2度のみだが、捕逸が少なく、守備記録も作っている。
 1997年、シーズン943守備機会連続無失策というパリーグ新記録を樹立したのだ。シーズンを越えて考えると、1996年9月から1998年5月まで3シーズンにわたって実に1263守備機会連続無失策となり、これもパリーグ新記録となった。
 伊東は、打者のデータ・心理・タイミングを的確にとらえ、投手のリズム・性格まで考えた、セオリーにとらわれない巧みなリードで次々に入団してくる投手を名投手に育て上げる。
 そうして築き上げた14度のリーグ優勝、8度の日本一は、捕手の役割の大きさを世間に認識させるに充分なものがあった。伊東の全盛期に西武は、ほとんどの年で優勝を手にしていたことになる。
 伊東は、守備の負担が大きく、短命に終わることが多い捕手としては異例の2327試合出場を果たした。これは、野村克也の2921試合に次いで日本歴代2位の記録である。


 E通算犠打パリーグ記録

 西武の黄金時代は、清原和博、秋山幸二、デストラーデ、石毛宏典を中心とする強力打線ばかりが目立っていたが、伊東はそのサポートにも余念がなかった。
 伊東の残した通算犠打は305。新井宏昌の300犠打を抜いてパリーグ新記録を樹立した。


 F引退してすぐ監督、そして日本一

 西武は、長年チームの屋台骨を支えてきた伊東を早くから監督にする計画を立てていた。2002年に伊原春樹監督が就任したとき、既に次の監督は伊東と決まっていた。伊東は正捕手兼任コーチとなった。
 伊原監督は、2002年優勝、2003年2位という好成績を残す。伊東は、2003年限りで現役引退を決め、絶好のチーム状態で伊原監督からバトンを受けた。
 南海の名捕手野村克也や巨人の名捕手森昌彦が引退後、名監督として数々の栄光を手にしたように、伊東も1年目からその素質を充分に見せつける。
 シーズンを74勝58敗1分で2位に終わったものの、この2004年から導入されたプレーオフ制度により、プレーオフ第一ステージに進んだ。3位日本ハムとの第一ステージを2勝1敗でしのぐと、第二ステージでも1位ダイエーを3勝2敗で制してリーグ優勝を決めた。さらに日本シリーズでは不利を予想されながら中日を4勝3敗で下し、日本一となったのである。




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