礒部 公一
 1974年3月、広島県生まれ。右投左打。外野手・捕手。背番号22→8。西条農業高校では1991年夏の甲子園に出場し、卒業後は社会人野球の三菱重工広島に進んで、強打の捕手として活躍する。1996年には都市対抗野球準優勝を果たして注目を集め、1997年、ドラフト3位で近鉄に入団する。
 プロ1年目から62試合に出場すると、1998年には118試合に出場して打率.291を残す活躍でレギュラーを獲得する。
 2000年には規定打席に到達しなかったもののの、捕手と外野手の兼用で打率.311を残す。
 2001年には外野手専任で全試合に出場して打率.320、17本塁打、95打点の活躍で近鉄のリーグ優勝に大きく貢献する。しかし、日本シリーズでは不振に陥って無安打に終わり、近鉄は1勝4敗で日本一を逃す。
 2003年に打率.288、12本塁打を残すと、2004年には球団合併騒動で球団合併阻止のために近鉄選手会長として奔走しながら打率.309、26本塁打、75打点という好成績を残す。選手会長としても、球団合併こそ阻止できなかったものの、球団数減少は阻止した。
 その年のオフは、オリックスバファローズのプロテクトを拒否し、新規参入球団楽天に入団する。
 楽天1年目の2005年は、弱小球団の中で気を吐き、本拠地初戦で先頭打者本塁打を放つなど、打率は.264ながら16本塁打、128安打を記録する。
 2006年には右脛骨骨折でシーズン後半を棒に振ったものの打率.275、2007年には打率.277と安定した活躍を見る。
 しかし、2008年からは出場機会が減少し、2009年には8試合出場に終わり、その年限りで現役を引退した。

 コンパクトな打法で広角にライナーを放ち、近鉄ではタフィ・ローズや中村紀洋とともに恐怖のクリーンアップを形成した。また、近鉄最後の選手会長として日本球界縮小化を阻止した。

通算成績:打率.281、97本塁打、517打点、1225安打。ベストナイン1回(2001)

数々の伝説


 @夏の甲子園では2回戦敗退ながら打率5割

 礒部は、1991年、西条農業高校で広島県代表として夏の甲子園大会に出場する。1回戦では、東北高校に4−3で勝利し、礒部も、1安打を放っている。
 しかし、2回戦の我孫子高校戦では、礒部が4打数3安打2打点という素晴らしい活躍を見せたものの、試合は、3−6で敗れてしまう。礒部は、高校ではドラフトで指名されることはなかったが、甲子園で打率5割を残すという非凡さで才能の一端を垣間見せた。


 A都市対抗野球で準優勝

 1996年、礒部は、社会人野球の三菱重工広島の捕手として第67回都市対抗野球大会に出場する。
 三菱重工広島は、強力打線を持ち、1回戦は礒部の本塁打もあって18−12という乱打戦を制すると、勢いに乗って勝ち進む。2回戦で13点、準々決勝で6点、準決勝でも5点と打ち続けて決勝に駒を進める。
 三菱重工広島は、決勝でも7点を奪ったものの、7−8で本田技研に敗れて準優勝に終わる。それでも、礒部は、攻守に渡る活躍が認められ、大会優秀選手に選出された。 


 B最初はオリックス志望

 近鉄最後の選手会長として有名な礒部だが、社会人野球の三菱重工広島では、オリックスを志望していた。オリックスもまた、礒部を指名する予定だったと言われているが、礒部を高く評価する近鉄がドラフト3位で指名する。
 礒部は、戸惑いながらも、ドラフト当日に近鉄の佐々木恭介監督自らがヘリコプターで挨拶に訪れたことにより、近鉄入団を決める。
 そして、入団8年目の2004年、近鉄とオリックスが合併することになり、入団前に縁のあった両球団が1つになったが、皮肉にも近鉄全選手の責任を背負っていた礒部は、合併球団オリックス・バファローズには残らないことを選択する。近鉄と命運をともにした礒部は、新規参入球団の楽天へ入団することとなる。


 C捕手から外野手に転向

 強打の捕手として近鉄に入団した礒部は、入団1年目から捕手として33試合に出場する。それとともに打撃を生かすために外野手としての出場も17試合あり、入団2年目には捕手70試合、外野手71試合で、その割合が半々にまでなる。
 そして、入団3年目の1999年にはほぼ外野手としての出場となる。それでも、2000年には再び捕手と外野手との併用となるが、この年は、打率.311を記録する一方、捕手としての盗塁阻止率が著しく低下した。そのため、2001年開幕前には元ドジャース監督で近鉄アドバイザーのトミー・ラソーダの進言もあって、梨田昌孝監督が外野手専任を決断する。
 外野手専任となった礒部は、クリーンアップの一角に座り、近鉄をリーグ優勝に導くのである。


 D最強の5番打者として近鉄リーグ優勝に貢献

 2001年の近鉄は、前年最下位からのスタートだった。しかし、シーズン序盤から打線が活発で中村紀洋、タフィ・ローズ、吉岡雄二らが本塁打を量産し、不安定な投手陣をカバーした。
 そんな中で礒部は、開幕戦に決勝3ラン本塁打を放って外野手のレギュラーに定着すると、シーズン後半にはローズ、中村の後ろで5番打者として活躍し、「最強の5番打者」と呼ばれるまでになる。
 ダイエー、西武との激しい首位攻防戦を繰り広げた9月には19日の西武戦で3−4の劣勢な展開だった7回裏に逆転3ラン本塁打を放って西武戦3タテを演出し、一気にリーグ優勝を手繰り寄せた。
 礒部は、この年、全試合に出場して打率.320、17本塁打、95打点の好成績を残して近鉄のリーグ優勝に大きく貢献し、近鉄の看板選手となった。


 E近鉄選手会長としてプロ野球界縮小化を阻止

 2004年6月13日、近鉄とオリックスが球団合併を発表する。それを契機に経営者側は、12球団から11球団、さらに10球団での1リーグ制への移行という流れを作ろうと動き始めた。
 球団合併とはいえ、事実上、オリックスに吸収されてしまう近鉄は、まさに正念場を迎える。
 当時、近鉄の選手会長を務める礒部は、近鉄全選手の将来を背負って、プロ野球選手会の古田敦也会長とともに合併阻止に向けて奔走する。
 しかし、9月に入り、球団合併阻止が困難な事態に陥り、プロ野球選手会は、9月18日、19日にストライキ決行を発表する。このとき、礒部は、近鉄消滅を阻止するため、強硬に無期限ストライキを求めている。
 結局、2日間限定のストライキ決行によってプロ野球機構を軟化させたプロ野球選手会は、球団合併を引き換えに楽天の新規参入を勝ち取っていくことになる。
 だが、次のストライキ回避が決まった9月23日、礒部は、会見で近鉄をそのままの形で残せなかった悔しさから、謝罪の言葉を口にして涙を見せた。


 F近鉄選手会長の傍ら自己最高の26本塁打

 2001年の優勝から3年連続でAクラスを維持していた近鉄だったが、2004年は、球団合併騒動があり、下位に低迷する。
 そんな中で近鉄の選手会長を務める礒部は、好調を維持してチームを牽引する。選手会長として労使交渉に幾度となく足を運びながらもクリーンアップの一角を担って120試合に出場し、打率.309、26本塁打、75打点と申し分のない成績を残す。特に打率、本塁打数についてはチーム最高の成績であり、26本塁打は自己最高の本数だった。
 その礒部の活躍がひときわ目立ったのが、球団合併騒動渦中の8月29日のロッテ戦である。2−2の緊迫した展開で延長戦に入ったこの試合で、延長10回裏の先頭打者として打席に立った礒部は、山ア健投手からライトスタンドへ劇的なサヨナラ本塁打を放ち、連敗を止めたのである。


 Gミスターイーグルス

 近鉄がオリックスと合併してオリックス・バファローズとなった球団に対して、礒部は、プロテクト選手として残ることを拒絶した。
 それは、近鉄選手としての誇りを持ち、近鉄消滅の責任を一身に背負う決断であり、プロテクト選手以外が集まる新規参入球団楽天の選手となった。
 選手層の薄い楽天は、開幕2戦目でロッテに0−26という記録的な敗戦を喫するなど、最下位を独走するシーズンを送る。その中で礒部は、本拠地初戦となる4月1日のフルキャスト宮城での西武戦で1回裏に先頭打者としてバックスクリーンに本塁打を打ち込み、チームに16−5という大勝をもたらす。
 礒部は、この年、1番打者やクリーンアップとしてシーズンを通じて活躍し、その存在感の大きさからミスターイーグルスと呼ばれるようになっていく。





(2009年11月作成)

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