石嶺 和彦
 1961年1月、沖縄県生まれ。右投右打。捕手・外野手・指名打者。豊見城高校では1977年から1978年まで4季連続で春夏の甲子園に出場し、1977年夏、1978年夏にはベスト8まで進んだ。1979年、ドラフト2位で阪急に入団する。
 3年目の1981年に初めて1軍の試合に出場し、2本塁打を放つ。
 1984年には44試合に出場し、6本塁打を放ってチームのリーグ優勝に貢献する。
 1985年には77試合出場ながら打率.302、14本塁打を放つと、翌年には指名打者のレギュラーとして打率.300、33本塁打、96打点と活躍し、リーグを代表する選手に成長する。この年、指名打者でベストナインにも輝いている。4月から7月まで56試合連続出塁という日本記録も樹立する。
 1987年には肝炎を克服して打率.317、34本塁打、91打点を残し、2年連続ベストナインに選出される。9月には6試合連続本塁打というパリーグタイ記録を達成している。
 1989年には門田の加入で外野手・指名打者の両刀をこなし、ブルーサンダー打線の中核となって、チームをゲーム差なしの2位に押し上げる。
 1990年には37本塁打、106打点という自己最高の成績を残して打点王に輝き、3度目のベストナインにも選出される。
 1991年からは門田放出によって再び指名打者となる。
 シーズン24本塁打を放った1993年のオフにFA宣言を行い、1994年から阪神に移籍する。阪神でも17本塁打、77打点と結果を残し、10年連続2桁本塁打を記録する。1989年から1994年まで、数々の故障を抱えながらも6年連続全試合出場を果たした。
 1996年、2本塁打に終わり、現役を引退した。

 入団当初は捕手だったが、外野手や指名打者としてレギュラーを獲得し、本塁打を量産した。内角打ちを得意とし、数々の故障を克服した不屈の選手である。

通算成績(プロ18年、実働16年):打率.273、269本塁打、875打点、1419安打。打点王1回(1990)ベストナイン3回(1986〜1987・1990)
数々の伝説

 @甲子園で沖縄旋風

 石嶺は、豊見城高校時代、1年夏こそ甲子園出場メンバーに入っていなかったものの、その後、4季連続で甲子園大会に出場する。2年春には四番打者の捕手として甲子園に出場し、酒田東高校を相手に2安打2打点の活躍を見せて1勝を挙げる。
 そして、夏には水島工業を9−2、広島商業を1−0で破ってベスト8に進出する。石嶺は、この大会を通じて12打数4安打の活躍を見せている。
 1978年春のセンバツは1回戦で敗れたものの、夏の甲子園では我孫子に3−2、東筑を4−1で破って2年連続でベスト8に進出する。準々決勝の岡山東商業戦では石嶺が本塁打を放ったものの、延長戦の末、敗れた。それでも、大会を通じて13打数5安打4打点、打率.385を記録している。
 名監督栽弘義が率いた豊見城高校は、沖縄本土復帰の余韻が残る1975年から1978年にかけて8季のうち7季に甲子園大会へ出場し、ベスト8も4回という空前の沖縄旋風を巻き起こした。その中心にいたのが石嶺だった。


 Aドラフト2位で広島と阪急が競合

 甲子園で旋風を巻き起こした石嶺をプロが放っておくはずがなく、超高校級捕手として注目を集めることになる。
 しかし、ドラフト1位ではどの球団も手を出さず、ドラフト2位で阪急と広島が競合する。そして、交渉権は阪急の手に渡った。
 石嶺は、高校の栽監督がプロ入りに乗り気でなかったことや自らの膝の故障もあって、社会人野球入団との間で揺れるが、迷った末に阪急への入団を決める。
 この決断がのちにブルーサンダー打線を生むことになった。阪急は、この年、ドラフト1位では関口朋幸という投手を指名したが、関口はプロ通算12勝に終わっている。


 B故障によって最強の指名打者へ

 石嶺は、高校時代に死球を左膝に受けたのが元で、プロ入り前には左膝の半月板のずれが持病になっていた。
 そのため、1年目のオフには悪化して手術をしたものの、それ以降も膝の故障に苦しみ、捕手という激務を年間通してこなすことができなくなってしまった。
 1984年以降、石嶺は、卓越したバッティングセンスを生かし、捕手を捨てて外野手転向を試みる。しかし、石嶺の出番は代打要員としてだった。それでも、代打で成績を残すうちに認められ、指名打者でレギュラーを獲得することになる。元々、捕手が好きでなく、外野手としての経験も浅かった石嶺は、何のためらいもなく、指名打者としてやっていけたという。そして、1986年に指名打者のレギュラーとなるや、打率.300、33本塁打、96打点という素晴らしい成績を残したのである。


 C6試合連続本塁打

 石嶺は、シーズン34本塁打を放った1987年、9月2日の西武戦で本塁打を放ってから9月10日の近鉄戦で本塁打を放つまで、毎試合1本ずつ本塁打を放ち、6試合連続本塁打を達成した。シーズン前に肝炎を患っていながら、シーズンに入ると前年以上に打ちまくり、連続試合本塁打のパリーグタイ記録を樹立したのである。
 これは、日本記録である王貞治とランディ・バースの7本に次ぐ記録である。


 Dシーズン代打本塁打6

 1984年以降、石嶺は、左膝に抱える故障のため、捕手ではなく、主に代打要員として使われるようになる。
 そして、1985年、石嶺は、シーズン序盤から安定した活躍を見せ、代打で本塁打を打ちまくる。そして、ついに8月24日の近鉄戦でシーズン代打本塁打6のパリーグタイ記録を達成したのである。その後、大島康徳が中日で樹立したシーズン代打本塁打7の日本記録への挑戦が期待されたが、チーム事情がそれを許さなくなり、レギュラーの指名打者としてスタメンに名を連ねることになったため、日本タイ記録達成はならなかった。


 E56試合連続出塁の日本記録樹立

 1986年4月29日から石嶺は、毎試合出塁を続ける。5月も6月も全試合に1回は出塁するという超人的な活躍を見せた。
 そして、7月25日、石嶺は、ロッテ戦で20号本塁打を放ち、ついに56試合連続出塁という日本新記録を樹立したのである。次の試合でその記録は、ストップしたものの、王貞治が残した55試合連続出塁の日本記録を破るという快挙だった。
 この記録は、1994年、オリックスの後輩であるイチローが破り、69試合にまで伸ばしている。


 Fブルーサンダー打線の中核

 石嶺は、1984年のリーグ優勝時にはまだレギュラーをつかんでおらず、サブとしての活躍であったが、翌年以降はチームの中心選手になっていく。
 そして、1989年、門田博光がオリックスへ移籍してきたことによって、ブルーサンダー打線が誕生する。
 1番松永、2番福良、3番ブーマー、4番門田、5番石嶺、6番藤井と続く打線は、当時のプロ野球界の中で圧倒的な破壊力を誇った。
 投手陣が打たれても、それ以上に打って勝つスタイルの中で、石嶺は、1989年に20本塁打、77打点、1990年に37本塁打、106打点という活躍を見せてチームは2年連続2位となった。特に1989年は、ブーマーが40本塁打、門田が33本塁打、藤井が30本塁打し、あと1勝していればリーグ優勝というところまで迫った驚異の打線だった。


 Gオールスターゲームで好成績

 石嶺は、オールスターゲームで随所に活躍を見せる。1987年の第3戦では本塁打を含む4打数3安打2打点の活躍で優秀選手賞に輝いている。1990年の第2戦でも本塁打を放って4打数2安打2打点で優秀選手賞を受賞する。
 MVPの受賞こそなかったものの、4回出場したオールスターゲームでの通算成績は、28打数11安打2本塁打で、打率は驚異の.393である。


 HFA制度創設時にFA宣言

 石嶺は、FA制度が発足した1994年にFA宣言をして、セリーグの阪神へ移籍する。膝に故障を抱える石嶺にとって、指名打者制度がなく、どうしても守備に就かざるを得ないセリーグでプレーすることは、危険な選択だった。
 しかし、石嶺は、憧れのセリーグでプレーするために、そんなマイナス面を抱えながらも果敢にFA移籍をする。
 石嶺は、阪神移籍初年度から全試合に出場し、17本塁打、77打点とまずまずの活躍を見せて、守備も無難にこなした。石嶺は、連続試合出場を1988年8月14日から続けており、これを阪神での1995年7月12日まで894試合にわたって続けた。これは、当時、歴代5位の記録だった。



(2006年11月作成)

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