石井 茂雄
 1939年5月、岡山県生まれ。投手。右投右打。背番号57→20(阪急・太平洋)→37(巨人)。勝山高校を中退して1957年8月に阪急に入団する。
 1958年から2年間は0勝に終わる。1960年に初勝利を挙げるものの、頭角を現すまでには至らなかった。
 1961年までは通算3勝だったが、1962年に先発投手として起用され始めて4勝を挙げると、1963年に1年間で17勝を挙げて主力投手となる。
 1964年には64試合に登板して28勝15敗、防御率2.85の好成績を残して、勝利数リーグ2位を記録する。チームも、前年の最下位から2位に躍進を遂げる。
 1965年にも21勝17敗の好成績で2年連続20勝以上を記録する。
 1967年には9勝4敗の成績ながらも、勝率.692でリーグ最高勝率に輝き、阪急球団創設からの初優勝に貢献する。
 1968年に11勝14敗、防御率2.93の成績を挙げて阪急のリーグ2連覇に貢献すると、1969年にも12勝6敗、防御率3.09の成績を残して阪急のリーグ3連覇の原動力となった。この年は、優勝決定試合で勝利投手となっている。
 1970年には16勝12敗の好成績を残したものの、チームはリーグ優勝を逃すが、1971年には7勝7敗ながら、チームのリーグ優勝に貢献する。
 1973年に太平洋へ移籍し、その1年目に12勝13敗の成績を残して3年ぶりの2桁勝利を挙げる。これが通算8度目の2桁勝利だった。
 1979年には巨人に移籍したものの、シーズン2勝に終わり、現役を引退した。

 先発もリリーフもこなしながら長年活躍した投手で、直球にカーブやスライダーなどの多彩な変化球を織り交ぜる投球術と卓越した制球により、阪急黄金時代の礎を築いた。 

通算成績(現役23年、実働22年):189勝185敗3セーブ、防御率3.46、1435奪三振。最高勝率1回(1967)

数々の伝説


 @2年連続20勝以上

 石井が自己最高の成績を残したのが1964年である。この年は、先発にリリーフに獅子奮迅の働きを見せ、325回を投げて28勝15敗、防御率2.85、176奪三振の成績を残す。
 しかし、この年は、南海が優勝したため、阪急は惜しくも2位に終わった。また、最多勝は30勝の小山正明で石井は2位、最多奪三振も197個の尾崎行雄に及ばず、石井はタイトルを獲得できなかった。
 さらにその翌年も、21勝17敗、防御率2.83の成績を残して2年連続20勝を達成する。そんな石井の活躍にもかかららず、阪急は、順位を4位に落とした。また、最多勝は、27勝を挙げた尾崎行雄で、石井は2位に終わり、またしてもタイトルは逃したのだった。


 A防御率最下位で勝率1位

 1967年、阪急の初優勝に貢献した石井だったが、防御率は、規定投球回に達した投手の中で最低となる22位の3.73だった。
 本来であれば、負け越していてもいいはずなのだが、石井は、何と9勝4敗の成績でリーグ最高勝率だった。当時は、勝利数の下限がなかったため、規定投球回に到達していれば、パリーグの最高勝率投手となったのである。
 そのため、防御率が1位だったチームメイトの足立光宏は、20勝10敗の成績ながら勝率は2位となった。
 このように、防御率が最下位で勝率が1位というのは、プロ野球初の珍事だった。


 B走りすぎて2塁打記録を作れず

 1965年5月21日の東映戦で、石井は、投手としての出場ではあったが、打撃も好調で、3回に2塁打を放つと4回には3塁打、6回と8回にも2塁打を放つ活躍を見せる。
 そのかいあって、石井は、この試合で勝利投手となったのだが、パリーグではそれまで1試合4二塁打を記録した選手はいなかった。もし石井が4回に3塁まで走らず、2塁で止まっていれば、打者としてパリーグ新記録を樹立できたはずだった。
 石井は、打撃センスも持ち合わせており、1959年は13打数5安打の打率.385、1964年には103打数27安打の打率.262、3本塁打を残している。


 C阪急の4度のリーグ優勝に貢献

 1967年、石井は、9勝4敗の成績を残して阪急のリーグ優勝に貢献する。阪急にとっては、これが球団創設以来、初の優勝だった。
 西本幸雄監督の下、石井の他に米田哲也、足立光宏、梶本隆夫という好投手を揃え、打者では永池徳二、スペンサー、ウィンディという長距離砲を揃えて、2位に9ゲーム差をつけての圧勝だった。
 阪急は、翌年も翌々年もリーグ優勝を果たし、石井も11勝、12勝を挙げて大きく貢献する。
 1971年にも石井は、7勝を挙げて、阪急の4度目のリーグ優勝に貢献している。
 石井は、20勝以上挙げた全盛期こそ、チームを優勝に導けなかったものの、1960年代後半から1970年代にかけての阪急黄金時代の礎を築いた投手だった。


 D1969年リーグ優勝試合で勝利投手

 1969年、阪急は、近鉄の猛追に苦しめられながらもリーグ3連覇を果たす。10月19日、優勝決定試合となった近鉄戦に先発したのが石井だった。
 この年の石井は、ここまで11勝6敗とまずまずの成績を残していた。石井は、この日も安定した投球を見せ、近鉄打線を5回まで0点に抑え込む。阪急は、2回、4回、6回と1点ずつをとって試合を優位に進めた。
 石井は、6回に1点を失ったものの、6回1/3を1失点で切り抜けて梶本にマウンドを譲った。
 試合も、3−2で勝利し、阪急は、球団初の3連覇を果たし、石井は、シーズン12勝目を挙げたのである。


 E2度の移籍

 1971年に7勝、1972年に5勝と、成績が下降線をたどりつつあった石井は、1973年、金銭トレードで太平洋に移籍することになる。太平洋は、前年が西鉄という球団名で最下位だったチームで、常勝チームとなりつつあった阪急とは全く逆の球団である。
 しかし、石井は、太平洋への移籍1年目に40試合に登板し、12勝13敗、防御率3.35の成績を挙げて意地を見せる。
 そして、その6年後の1979年には巨人へ移籍する。プロ入り23年目にして初のセリーグという新たな挑戦だった。しかし、巨人ではシーズン2勝を挙げたにとどまり、その年限りで現役を引退している。


 F地味な印象

 石井は、弱小球団だった阪急を初のリーグ優勝、そしてリーグ3連覇に貢献した功労者でありながら、世間から高い評価を受けているとは言いがたい。
 それは、黄金時代を築いた同じチーム内に彼以上に印象の強い好投手がいたためである。石井は、日本シリーズにも4度出場してはいるものの、米田哲也や足立光宏、梶本隆夫といった投手に隠れた印象があり、通算成績も0勝1敗である。
 また、オールスターゲームにも3度出場しているが、通算0勝2敗と、表舞台で活躍した記録がないのである。
 また、1973年に弱小チームだった太平洋に移ってからは1度も勝数が負数を上回ることがなかった。
 そのため、石井は通算189勝という一流の成績を残していながら、振り返って語られることが少ない投手である。


 G通算200勝にあと11勝で引退

 石井は、初めて2桁勝利を挙げたのがプロ入り7年目と遅く、その後は、毎年安定した成績を残していたものの、阪急には米田哲也という大エースがいたため、1966年以降は飛躍的に勝ち星が伸びるということがなかった。 
 さらに1973年には弱小球団の太平洋に移籍したこともあって1974年からは2桁勝利からも遠ざかることになる。
 石井は、40歳まで現役を続けたものの、通算200勝にはあと11勝届かなかった。




(2007年10月作成)

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