石井 一久
 1973年9月、千葉県生まれ。投手。左投左打。背番号16(ヤクルト)→17(ドジャース)→23(メッツ)→16(ヤクルト)→61・16(西武)。
 東京学館浦安高校で好投手として注目を集め、1991年夏の県大会で4試合52奪三振を記録し、1992年、ドラフト1位でヤクルトに入団する。
 プロ1年目ではシーズン未勝利ながら日本シリーズ第3戦に先発して注目を集める。
 1993年には3勝を挙げ、翌1994年には54試合に登板して7勝5敗の成績を挙げて頭角を現す。
 1995年には先発ローテーションに定着して13勝4敗、防御率2.76、勝率.765で最高勝率に輝き、ヤクルトの2年ぶりのリーグ優勝に貢献する。
 しかし、1996年には左肩痛によって1勝に終わり、オフに手術を行う。
 1997年は左肩痛から復帰して10勝4敗、防御率1.91の好成績を挙げてヤクルトのリーグ優勝の立役者になるとともに、9月の横浜戦でノーヒットノーランを達成する。西武との日本シリーズでも第1戦で12奪三振の完封勝利を挙げて4勝1敗での日本一に貢献する。
 1998年には14勝6敗、防御率3.30、241奪三振で最多奪三振に輝き、歴代1位のシーズン奪三振率11.04を記録する。
 2000年には10勝9敗ながら防御率2.61、210奪三振で最優秀防御率と最多奪三振の二冠に輝く。
 2001年にも12勝6敗、防御率3.39の好成績を残してヤクルトのリーグ優勝に貢献する。近鉄との日本シリーズ第1戦では12奪三振を記録して勝利投手となり、4勝1敗での日本一に大きく貢献する。オフに大リーグのドジャースへ移籍。
 ドジャースでは2002年に14勝10敗、防御率4.27の好成績を残し、2004年にも13勝8敗、防御率4.71の成績を残したものの、トレードによりメッツへ移籍。
 メッツでは左ひざ痛の影響で3勝に終わり、2006年、ヤクルトに復帰。
 ヤクルトでは2006年に11勝7敗、防御率3.44の成績を残すと、2007年にも9勝を挙げる。
 2007年のオフに、新たな友達作りのため、西武へ移籍。西武では、1年目から11勝を挙げる活躍を見せる。
 2012年には10勝5敗、防御率3.33の好成績で通算10度目の2桁勝利を挙げる。
 2013年には左肩痛のため、0勝に終わり、現役を引退した。

 膝を胸の位置まで上げてからスリークォーターで切れ込むように投げる150キロ台の剛速球と鋭く曲がるスライダーで三振の山を築いた。ヤクルトの黄金時代を作り、セリーグ・大リーグ・パリーグを渡り歩いていずれも好成績を残した名投手である。

通算成績(日本18年)143勝103敗1セーブ、防御率3.63、2115奪三振 最多奪三振2回(1998・2000)最優秀防御率1回(2000)最高勝率(1995)
(大リーグ4年)39勝34敗、防御率4.44、435奪三振
(日米通算22年)182勝137敗1セーブ、防御率3.80、2550奪三振

数々の伝説


 @こだわりなくプロ入り

 石井は、小学3年生から野球を始めたものの、サッカーが好きなため、中学時代はサッカー部に所属しており、野球にはほどんど興味がなかったという。しかし、高校では野球をすることになり、1991年夏の千葉県大会では5回戦まで進んだ。5回戦で強豪の銚子商業に負けたものの、スコアは0−1であり、自責点はなかった。しかも、4試合に先発して52奪三振、自責点0だったため、プロから注目されることになる。
 石井は、プロに興味がなかったものの、父親がヤクルトの石岡康三コーチといとこであったことから、ヤクルト入りを希望し、ヤクルトにドラフト1位で指名されて入団することになる。


 A公式戦未勝利の1年目に日本シリーズ先発

 1992年、ヤクルトは、14年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズに出場する。この年、公式戦では12試合に投げて未勝利の石井だったが、野村克也監督は、シリーズ第3戦の先発に石井を抜擢する。
 石井の高い潜在能力を買っての秘策ではあったが、4回に常勝軍団の西武打線につかまり、2失点を喫して降板した。
 高校卒の新人投手が日本シリーズに先発するのは1966年の堀内恒夫以来26年ぶり歴代4人目で、公式戦で1勝も挙げていない投手の先発は史上初の快挙だった。


 Bノーヒットノーラン達成

 1997年9月2日、横浜戦に先発した石井は、直球の切れが抜群で4回までに4四球とコントロール難ながら無安打に抑える。3回を終わった時点でベンチで伊藤智仁投手に「ノーヒットノーランができそう」と宣言した。
 しかし、石井は、8回を終わった時点では野村克也監督に降板を進言した。これは、前年のオフに左肩の手術をしており、8回で107球を投げていたことと、ノーヒットノーランをしてしまうと今後の野球人生が怖い、という理由からだった。
 しかし、野村監督は、降板を認めず、9回のマウンドに上がった石井は、あっさり3人で片づけて史上65人目となるノーヒットノーランを達成した。
 石井の快挙で勢いづいたヤクルトは、2位横浜を突き放して首位を走り続け、リーグ優勝を果たすことになる。


 C脅威の奪三振率11.04

 1998年は、石井がヤクルトの大黒柱としてシーズンを通した活躍を見せ、14勝6敗、防御率3.30という好成績を残す。
 そして、この年の石井は、150キロを超える剛速球と決め球の鋭いスライダーで面白いように三振を奪っており、199回1/3を投げて241奪三振を記録する。
 9回あたりの奪三振数に換算した奪三振率は、実に11.04に達しており、これは、野茂英雄が1990年に記録した10.99をしのぐ日本新記録だった。


 Dヤクルト黄金時代

 ヤクルトの黄金時代は、石井の入団に始まり、石井の退団によって終わったと言っても過言ではない。
 石井が入団した1992年に石井は、12試合に登板してヤクルトのリーグ優勝に貢献すると、2年目には19試合に登板して3勝1敗の成績を残し、ヤクルトは2連覇を果たす。
 そして、エースに成長した1995年には13勝4敗の成績を挙げてリーグ優勝の立役者になり、1997年にも10勝4敗の成績でリーグ優勝に貢献する。
 さらに2001年には12勝6敗の成績を残して、リーグ優勝に貢献し、10年間で5度のリーグ優勝、4度の日本一に貢献したのである。


 E日本シリーズで12奪三振で3安打完封

 石井は、1997年、西武との日本シリーズ第1戦の先発を任される。対する西武も好投手西口文也であり、試合は、息詰まる投手戦となる。
 石井は、奪三振の山を築いていくが、西口も決定打を赦さず、試合は、7回裏まで0−0で進む。
 そして、8回表にヤクルトがようやくテータムの先制ソロ本塁打で1点を奪うと、石井は、さらにギアを上げて8回裏を3者連続三振で切り抜ける。
 9回裏も簡単に3人で片づけた石井は、シリーズ最多タイ記録となる12奪三振を記録して、1−0の3安打完封勝利を挙げた。
 ヤクルトは、その勢いのまま4勝1敗で日本一に輝き、石井は、優秀選手賞を受賞した。


 F暴投のシーズン記録更新

 大リーグに渡るまでの石井は、剛速球と鋭いスライダーで数多くの奪三振を記録するものの、コントロールが悪く、四球の数も多かった。
 1998年には105四球を与えており、暴投も20個を記録した。これは、村田兆治と酒井弘樹が記録した17個を3個も上回る当時の日本新記録だった。
 石井は、1998年から2001年まで4年連続シーズン最多暴投を記録している。当時は、補球に定評のあった古田敦也がレギュラー捕手を務めていたが、古田でも捕れないほどの荒れ球を投げていたということである。
 また、通算暴投数も115で、村田兆治の148に次いで歴代2位の記録である。


 G日本シリーズで2度目の12奪三振

 2001年の近鉄との日本シリーズも、石井は、エースとして第1戦に先発する。この試合でも、石井の剛速球とスライダーは冴えわたり、奪三振の山を築いていく。
 そして、石井は、7回1死までタフィ・ローズ、中村紀洋らが並ぶ強力な近鉄打線を無安打に抑える快投を見せる。7回1死から北川博敏にライト前安打を浴びてノーヒットノーランはできなかったものの、8回までに1安打、12奪三振という完ぺきな投球で7−0の勝利に貢献した。
 ヤクルトは、勢いに乗って近鉄を圧倒し、4勝1敗で日本一に輝き、石井は、2度目の優秀選手賞を受賞している。


 H大リーグ挑戦

 アマチュア時代は野球に興味がなかった石井だが、プロに入って活躍するようになってから、刺激を求めて大リーグで投げてみたいという夢を抱くようになった。
 そして、2001年オフ、石井は、ヤクルトの日本一達成を置き土産にポスティングシステムでの大リーグ挑戦を決意する。その後、獲得を表明したドジャースに入団し、1年目から前半戦で11勝を挙げる活躍を見せていく。しかし、9月8日に打球を頭部に受けて亀裂骨折の重傷を負ってその後のシーズンを棒に振り、14勝10敗で終える。
 2年目には9勝、3年目の2004年には13勝とローテーション投手として活躍したが、メッツ移籍後の2005年には左ひざ痛の影響で3勝に終わって帰国する。
 大リーグでは4年間で39勝を挙げたものの、度重なる故障に悩まされ、万全なシーズンを送ることが1度もなかった。


 I友達作りのため西武へ移籍

 2005年に大リーグで3勝に終わった石井は、2006年、古田敦也が選手兼任監督に就任した古巣ヤクルトに復帰する。
 そして、先発ローテーション投手として2年間活躍した2007年オフ、石井は、FA宣言をする。特定球団への憧れや金銭面が理由ではなく、「新しい友達を作りたい」という前代未聞の理由だった。
 西武では6年間プレーした後、左肩の故障が原因で現役を引退した。引退後は、サラリーマンとしてスポーツマネージメントをするため、一般社員枠で吉本興業に入社している。


 J200勝まであと18勝であっさり引退

 石井は、少年の頃からサッカーが好きで、野球にはあまり興味がなかったという。むしろ、見たい番組が野球中継で中止になることが多かったため、好きになれなかったらしい。
 そのため、プロに入ってから日本で143勝、大リーグで39勝して通算182勝として、通算200勝まであと18勝に迫りながら、左肩の故障を機に、何のこだわりもなくあっさり現役引退を決めた。
 テレビのインタビューでは「200勝したからといって人生が素晴らしくなるわけではないから182勝で充分」と答えている。 


 K伝説の宝庫

 石井は、結婚会見で木佐彩子夫人の得意料理を聞かれて「生野菜」と答えるなど、そのユーモアセンスで数々の伝説を残している。
 2001年、ヤクルトがリーグ優勝時と日本一達成時の胴上げは、石井が若松勉監督の足を高く投げ上げるといういたずらを行い、若松監督の体が宙返りするという前代未聞の胴上げとなった。
 また、日本一決定の瞬間には、キャッチャーフライだったのをいいことに、真っ先にベンチを飛び出し、胴上げ投手になった高津に抱きついている。

 西武時代は、ヒーローインタビューのとき、野球の話は観客が実際に見ていたから不要との解釈から、観客の知らない愛犬の話をしている。
 引退試合では、場内を一周するのが長すぎるという理由から、セグウェイに乗って高速で一周するパフォーマンスを披露した。





(2014年4月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system