1970年8月、栃木県生まれ。内野手、外野手、投手。背番号66→0→5。右投左打。足利工業高校の2年時に夏の甲子園に出場し、初戦で敗退。その後、投手としての素質を注目されてドラフト外で1989年に大洋に入団する。
1989年は、ルーキーながら17試合に登板し、1勝1敗、防御率3.56というまずまずの成績を残す。
しかし、2年目、3年目は防率9点台に低迷し、1991年オフに打者転向を決意する。
1992年に打者として69試合に出場すると、翌1993年には三塁手のレギュラーとして打率.266を残し、24盗塁で盗塁王に輝く。また39犠打、リーグ最多の5三塁打を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得した。
1994年、39犠打でリーグ最多犠打を記録すると、1995年には打率.309を残して初の3割を達成する。
1996年には遊撃手へコンバートとなり、自己最多の45盗塁を決めたものの、緒方孝市が50盗塁を記録していたため、盗塁王は逃した。
1997年には自己最多のリーグ5位となる打率.319を残し、本塁打も10本放って初のベストナインに選出される。
そして1998年、打率.314、39盗塁、174安打という好成績を残して盗塁王と最多安打の2冠に輝くとともに、横浜を38年ぶりのリーグ優勝に導く。ベストナインとゴールデングラブ賞も受賞した。そして、西武との日本シリーズでも、打率.364、1本塁打、3盗塁、9得点の活躍で、4勝2敗で日本一を達成する原動力となった。
1999年も39盗塁で2年連続盗塁王に輝くと2000年には35盗塁で3年連続4度目の盗塁王に輝く。
2001年には打率.295、171安打で2度目の最多安打を記録し、5年連続ベストナインに選出される。
2006年5月には史上34人目となる通算2000本安打を達成する。投手として勝ち星を挙げている2000本安打達成は、川上哲治以来、史上2人目の快挙である。
2008年オフには広島へ移籍し、2010年には代打中心ながら打率.318を記録している。
2012年は、打率.167に終わり、その年限りで現役を引退した。
決して恵まれているとは言えない体格ながら努力で走攻守のすべてを鍛え上げ、そのそれぞれでトップクラスの実績を重ねた。マシンガン打線の核弾頭として横浜の38年ぶりの日本一にも貢献し、30代後半になっても守備の負担が大きい遊撃手として好成績を残し続けている。
通算成績(実働24年):打率.282、102本塁打、670打点、2432安打、358盗塁、289犠打。最多安打2回(1998、2001)盗塁王4回(1993、1998〜2000)ベストナイン5回(1997〜2001)ゴールデングラブ賞4回(1993〜1995、1998) |