石毛 宏典
 1956年9月、千葉県生まれ。遊撃手・三塁手。右投右打。背番号7(西武)→0・7(ダイエー)。市立銚子高から駒澤大学を経てプリンスホテルへ入る。1981年に西武ライオンズに入団。
 プロ1年目の1981年から首位打者を争う活躍を見せ、打率.311で長嶋茂雄以来のルーキー打率3割を達成。21本塁打、25盗塁という新人とは思えない活躍で新人王を獲得した。
 1986年には打率.329、27本塁打、89打点、19盗塁の活躍とともに、チームリーダーとしての走好守に渡る活躍が評価され、シーズンMVPに選出された。
 1988年には打率.389、3本塁打の活躍で、日本シリーズMVPを獲得。
 1994年6月11日のダイエー戦では1イニング2本塁打を記録している。
 西武は、石毛の在籍中、11度のリーグ優勝、8度の日本一を達成した。そのうちリーグ5連覇とリーグ4連覇を1度ずつ含んでおり、圧倒的な強さを誇った。
 また石毛は日本シリーズで1985年第5戦から1988年第1戦まで17試合連続安打という日本記録も樹立している。
 1995年に福岡ダイエーホークス移籍したが、1996年限りで現役引退。
 1997年、指導者となるために、アメリカ大リーグのドジャースへ留学。翌年、福岡ダイエーホークスの2軍監督となる。
 2002年から2003年途中までオリックスブルーウェーブの監督を務めた。

 ハツラツとしたプレーで観客を沸かせ、走好守揃ったプレーで常勝西武のチームリーダーとして個性豊かな選手達をまとめあげた。

 通算成績(実働16年):打率.283、236本塁打、847打点、1833安打。243盗塁。新人王(1981)シーズンMVP1回(1986)日本シリーズMVP1回(1988)ベストナイン8回(1981〜83・1985〜87・1992・1993)ゴールデングラブ賞10回(1981〜83・1985〜88・1991〜1993)

数々の伝説


 @新人で3割打者

 1981年、石毛は、新人ながらレギュラーとしていきなり落合博満と首位打者争いを繰り広げた。最終的には失速し、落合に首位打者のタイトルを奪われたものの、打率.311、21本塁打、25盗塁で文句なしの新人王であった。
 そして、その新人で打率3割というのが実に長嶋茂雄以来23年ぶり史上7人目の快挙であった。


 AシーズンMVPと日本シリーズMVP

 1986年、石毛は、8月19日から28日まで8試合連続打点、7月29日から8月27日まで23試合連続安打、さらに7月29日から9月21日まで41試合連続出塁という記録をたて続けに作っている。
 西武が快進撃を始めた6月には打率.361を残し、シーズン終了時には打率.329(リーグ5位)、27本塁打(リ−グ8位)、89打点(リーグ7位)、19盗塁という好成績になっていた。
 石毛の活躍に導かれるように、西武も見事に2年連続のリーグ優勝を果たす。
 同じ年にロッテの落合博満が打率.360、50本塁打、116打点で2年連続3回目の3冠王に輝いていたが、石毛は、打撃以外の守備・走塁、そしてチームリーダーとして統率した力が認められ、落合をさしおいてシーズンMVPを獲得することとなった。
 1988年の中日との日本シリーズでは、5試合で打率.389、3本塁打、6打点と固め打ちを見せ、西武の4勝1敗での圧勝に大きく貢献し、日本シリーズMVPを獲得した。


 B西武黄金時代を作る

 石毛のプロ2年目となった1982年、西武ライオンズは、初のリーグ優勝。西鉄時代から考えれば、19年ぶりの優勝であった。
 その後も石毛は、常にレギュラーとしてショート、もしくはサードを守ってチームを支え続けた。
 1983年も2年連続のリーグ優勝。
 1984年こそ、ブーマーの3冠王を獲る活躍などがあって阪急に優勝を譲ったが、1985年からリーグ4連覇。
 1989年は激戦の末、ブライアントの劇的4連発に屈し、ゲーム差なしで近鉄に優勝をさらわれたが、1990年からまたもリーグ5連覇を達成。
 石毛が1995年からダイエーに移籍して、西武の連覇は5で止まった。
 石毛在籍14年間にリーグ優勝11度、日本一8度という、とてつもない黄金時代を作り上げた。石毛在籍時の西武は、言うまでもなく最強だった。


 Cヒーローインタビュー

 西武の常勝時代は、石毛・秋山・清原・デストラーデが打ち、石毛・平野・辻・秋山などの守備の名手が鉄壁を誇り、工藤・郭・渡辺久らが抑えて勝つ、という隙のない野球だった。
 そして、彼らは、その都会的な雰囲気と、自由奔放な言動から「新人類」の代表にまで祭り上げられた。
 その中でも、秋山のバク転と石毛・工藤のヒーローインタビューは、際立っていた。
 石毛・工藤のヒーローインタビューは、かけあいの漫才に近く、ファンの声援に応えて気持ちを語るだけの従来のインタビューのイメージを大きく覆した。スポーツニュースですらその場面が放送されるほどの人気ぶりであった。


 D1イニング6本塁打の3本目
 
 1986年8月6日、西武×近鉄戦が行われ、8回の西武の攻撃が始まるまでに7−2で近鉄がリードを奪っていた。
 8回の西武の攻撃では、まず西岡が石本投手からソロ本塁打。そして、新人だった清原が2ラン本塁打で2点差に詰め寄った。
 さらに石毛がセンターへソロ本塁打を放ち、西武はこのイニング3本目の本塁打であと1点差。ブコビッチも本塁打で続いて簡単に同点に追いつく。
 近鉄は石本投手をあきらめるが、それでも西武の勢いはとどまることを知らず、秋山が逆転となる本塁打、とどめは太田が突き放す本塁打を放って1イニング6本塁打という大記録が作られた。


 E指導者への道

 石毛は、1996年限りで現役を引退。それと同時にアメリカ大リーグのロサンゼルス・ドジャースへ留学を決める。元々、広岡達朗・森祇晶という名監督の下で、チームリーダーとして個性ある選手達をまとめてきた石毛にとって、指導者になるのは必然であった。
 1年間、ドジャースでコーチのノウハウを学んだ後、ダイエーの二軍監督に就任。
 そして、2002年、ついにオリックス・ブルーウェーブの監督として指揮を執ることとなった。





Copyright (C) 2001 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system