伊良部 秀輝
 1969年5月、沖縄県生まれ(兵庫県育ち)。投手。右投右打。背番号18(ロッテ)→35(ヤンキース)→14(エクスポズ)→45(レンジャース)→41(阪神)。香川県の尽誠学園高校時代は、1986年夏・1987年夏の甲子園に出場し、速球派投手として知名度を上げた。
 1988年にドラフト1位でロッテに入団。
 1年目から先発・中継として2勝5敗1Sを挙げ、2年目には守護神の座にも就いて9Sを残した。
 3年目の1990年から主に先発で使われるようになり、8勝5敗というまずまずの成績を残したものの、翌年から不調に陥り、2年間で3勝に終わる。
 しかし、1993年5月の清原和博との対決で日本最速の158キロを記録すると、ローテーションに定着し、8勝7敗1Sと復活を遂げた。
 そして、1994年は、ロッテのエースとして15勝10敗、防御率3.04、239奪三振という好成績を残して最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。
 翌1995年にも11勝11敗、防御率2.53、239奪三振で最優秀防御率と2年連続の最多奪三振に輝き、弱小球団と言われてきたロッテを2位に押し上げた。
 1996年にも12勝6敗、防御率2.40で2年連続最優秀防御率と抜群の安定感を誇った。しかし、その年のオフに自らの夢とフロントとの確執からメジャー移籍を決意。ロッテとの激しい対立の末、1997年5月にヤンキースへ入団。
 1年目は不調で5勝に終わったものの、2年目の1998年にはシーズンを通してヤンキースのローテの一角を担い、13勝9敗、防御率4.06という素晴らしい成績を残してヤンキースの世界一に貢献した。
 1999年にも11勝7敗と2年連続2桁勝利を挙げるが、その年のオフにエクスポズへトレードが決まった。
 エクスボズでの伊良部は、相次ぐ故障に泣かされ、2年間で2勝に終わり、自由契約となった。
 しかし、伊良部は、レンジャースとマイナー契約を結び、自力でメジャーに昇格して守護神の座まで奪う活躍を見せる。しかし、3勝6敗16セーブと数字を積み重ねていた矢先の2002年7月、肺血栓が見つかり、またもや戦列を離れることとなる。
 病気が癒えた伊良部は、2003年に日本の阪神へ移籍。1年目から13勝を挙げる活躍を見せ、阪神の快進撃の立役者となって阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。
 2004年限りで現役を引退。その後、2009年にアメリカ独立リーグ、日本の独立リーグ(高知ファイティングドッグス)で現役復帰したが、その年限りで2度目の引退をした。

 150キロ台の剛速球に140キロ台の高速フォークを最大の武器にして打者を威圧しながら抑えるピッチングで大リーガーさえも手玉にとった。ロッテ時代に対戦した清原和博(西武)との数々の名勝負は既に伝説となっている。

 通算成績:<日本11年>72勝69敗11セーブ、防御率3.55、1282奪三振。最多勝1回(1994)最優秀防御率2回(1995・1996)最多奪三振2回(1994・1995)ベストナイン2回(1994・1995)
      <大リーグ6年>34勝35敗16セーブ、防御率5.15、405奪三振。
      <日米通算17年>106勝104敗27セーブ、防御率4.01、1687奪三振。


数々の伝説



 @甲子園では直球勝負

 1986年の夏、尽誠学園の2年生エースだった伊良部は、香川県大会を勝ち抜き、甲子園に出場する。しかし、初戦の東海大四高校(北海道)との試合では不運な内野安打が重なり、6−7で逆転負けを喫している。
 1987年の夏には再び香川県大会を勝ち抜き、甲子園に2年連続で出場する。
 初戦の浦和学院(埼玉県)戦では5−2で勝利を収め、伊良部自ら本塁打を放つなど、投打に渡って大活躍を見せた。
 しかし、2戦目では試合巧者の常総学院に甘い直球を狙い打ちされ、0−6と完敗した。
 高校時代の伊良部は、ほとんど変化球を使わず、直球のみに頼る豪快なピッチングをしていた。その上、プロに入ってから見せる150キロ台のストレートもまだなく、素質は大いに認められたものの、甲子園では好成績を残すことはできなかった。

 
 A158キロを出して日本最速記録達成

 1993年5月3日の西武戦の8回、伊良部は、西武の主砲清原和博と対戦した。その3球目だった。伊良部の右腕から放たれた剛速球は、日本プロ野球史上最速の158キロを記録した。しかし、清原もさすがに常勝西武の主砲。伊良部の158キロをバックネットへのファウルでしのいだ。
 そして、勝負の7球目は、157キロを計測したものの、清原は見事に右中間へ弾き返した。
 伊良部は、158キロを出したときの投球を「自分の力以上のものが出せた」と後に語っている。伊良部の直球は、清原を相手にしたとき、他の打者に対する直球よりも3キロから5キロは速くなったという。自他ともにライバルと認める両者の対決は、常に全力の真っ向勝負だったのである。
 日本最高球速を出した当時、伊良部は、まだローテーションに定着できるかどうかという位置にいた選手だった。しかし、この試合以降、伊良部は、不動のエースへの道を歩み始めることになる。


 B伊良部クラゲ

 1993年8月31日、ロッテは、本拠地千葉マリンスタジアムで日本ハムを迎え撃ち、伊良部は、日本ハム打線をわずか1失点に抑えて10−1で大勝した。
 当時、日本ハムの監督は、「親分」の愛称で親しまれる大沢啓二。大沢監督は、あまりの惨敗に試合後、思わずこう漏らした。
「幕張の海に伊良部クラゲがいた。バットがビリビリしびれたわ」
 幕張は、千葉マリンスタジアムがある地域のことで、千葉マリンスタジアムのあった場所は、昔、海水浴場として賑わっていた。
 大沢監督のこの発言は、伊良部の並外れた剛速球の威力をものの見事に言い当てた表現として、マスコミに大きく取り上げられ、反響を呼んだ。
 千葉マリンスタジアムでは伊良部クラゲにちなんだクラゲのマスコットも発売されたという。


 Cロッテで多くのタイトルを獲得

 1994年の伊良部は、自己初の2桁勝利を達成すると勝利数を15まで伸ばし、15勝10敗、防御率3.04、239奪三振で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得する。ベストナインにも選出された。
 1995年も11勝11敗ながら防御率2.53で最優秀防御率のタイトルを獲得。239奪三振で2年連続の最多奪三振を記録するとともに、2年連続ベストナインにも選ばれている。この年、バレンタイン監督を迎えたロッテは、大リーグ式の野球で快進撃を見せ、伊良部・小宮山悟・ヒルマンの3本柱で34勝を稼ぎ出すなど、69勝58敗の成績で2位となった。ロッテがAクラスに入るのは、1985年以来、実に10年ぶりのことだった。
 1996年の伊良部は、さらに防御率を上げ、2.40で2年連続の最優秀防御率を獲得する。3年連続の2桁勝利も達成し、伊良部は、日本を代表する投手として名声を欲しいままにしようとしていた。
 ところが、伊良部とは逆にロッテは不振に陥る。1995年限りでバレンタイン監督が解任されたことにより、バランスを失ったチームは5位まで沈んでいった。
 野茂英雄の大リーグ挑戦以来、将来の大リーグ移籍を夢見ていた伊良部は、バレンタインを解任した広岡達朗GMと衝突してしまい、大リーグ移籍を決意することになる。


 D大リーグ移籍のもつれから悪役に

 伊良部が大リーグ移籍をほのめかしたのは1995年のことである。この当時、伊良部は、大リーグへ移籍した野茂英雄と入れ替わるようにパリーグのエースの座に就いていた。
 そして、1996年にロッテが不振に陥り、マスコミから次第に伊良部と広岡達朗GMの確執が取りざたされるようになって伊良部の大リーグ移籍が次第に現実味を帯びてくる。
 伊良部は、小学生の頃からベーブ・ルースに憧れ、また、投手としてはサチェル・ペイジを理想としていたという。そして、常に世界一を狙える常勝球団ヤンキースのファンでもあった。
 そんな伊良部が大リーグ移籍を決意したのは1996年のオフだった。
 だが、ロッテは、伊良部の個人主義を苦々しく眺めていた。ロッテは、この年5位。12勝6敗で防御率2.40の成績を残し、最優秀防御率を2年連続獲得中の伊良部の放出には難色を示した。野茂が大リーグで成功したとはいえ、まだ当時は日本人選手の大リーグ流出に大きな壁が立ちはだかっていたのである。ここでロッテは、もう1年間、伊良部の大リーグ入りを遅らせようと慰留に努める。それをマスコミがロッテ寄りの立場で書き立てたため、ロッテと伊良部の摩擦は大きくなっていく。
 ロッテは、解決をあせってパドレスに独占交渉権を譲る。けれども、伊良部は、憧れのヤンキース入りだけしか頭になく、大リーガー並みに代理人を雇って対抗した。
 ロッテと伊良部の対立は、そのまま日米間の摩擦に持ち込まれた。興味深いことに米大リーグ最高経営会議は、「日米間選手契約に関する協定」に従ってロッテ球団の側を支持したのに対し、大リーグ選手会は、伊良部を支持した。結局、この対立は、パドレスが権利を放棄したことで、1997年5月29日にようやくヤンキース入りが決まる。伊良部の希望通りの結果となったわけである。
 この過程でロッテの意向は、ほとんど無視され、伊良部の個人主義に屈した形となった。ただロッテも、一時伊良部の大リーグ入りが困難と伝えられたとき、FA資格を得るために再契約したいという伊良部の意向に対して、かろうじて「チームに対してあれだけ悪口を言って出て行った方に来られても困る」(『中日新聞』'97.4.17)と、ヤンキースからの身分照会を認めた。
 日本では伊良部の大リーグ入り決意からヤンキース入団までの間、、球団もマスコミも国民も、伊良部をこぞって「わがまま」「自分勝手」と決めつけて扱い、伊良部に協力的な態度をとった者はほとんどいなかった。
 伊良部は、日本で孤立したまま、海を渡る。


 E日本人初の名門ヤンキース入り

 伊良部は、「日本のノーラン・ライアン」という触れ込みでニューヨークに迎え入れられた。
 アメリカへ行ってからの伊良部は、順調に調整を続け、1A、2A、3Aでの登板を好投の連続で切り抜け、大リーグ昇格を果たす。そして、7月10日には大リーグ初登板を6回2/3を2失点に抑える好投で初勝利を手にする。
 しかし、大リーグ移籍をめぐる日本のマスコミとの確執は、アメリカに行ってからも続いていた。それがアメリカとのマスコミとの関係も悪化させる結果を招く。記事や報道を真に受けたファンも、罵声を浴びせるようになった。
 周囲のあまりの攻撃ぶりに伊良部は、試合でも荒れた。ノックアウトされてブーイングを浴びせる観衆に向かって唾を吐く、1試合に2度もボークを取られる、バント処理でボールにグラブを投げ付ける、投げる前に指へ唾をつけて「ボール」を宣告されるペナルティーを受ける、など。そのたびにマスコミは、伊良部を痛烈に批判し、伊良部は、本来の実力を出せずに1年目のシーズンは5勝4敗、防御率7.09という成績に終わった。


 Fヤンキースのローテ投手から移籍へ

 1998年、伊良部は、立ち直り、開幕からヤンキースのローテーションの一角に食い込んで13勝9敗、防御率4.06という好成績を残す。
 続く1999年も11勝7敗で2年連続2桁勝利を挙げる。
 しかし、大リーグは、トレードが日常茶飯事である。伊良部も、1999年のオフにエクスポズが獲得に動いたことでヤンキースからエクスポスへ急遽トレードされることとなる。
 2000年の伊良部は、6月に右膝、8月に右肘を痛めて2勝5敗に終わった。翌年も、再び右膝と右肘を痛める。
 2001年にも靭帯を痛めて戦列を離れ、9月には登板前日の飲酒が原因で自由契約となる。
 それでも、故障が癒えた伊良部は、ウインターリーグに参加し、実力の違いを見せつけてレンジャースとの契約を果たした。
 2002年の伊良部は、レンジャースの守護神の座を奪い、セーブを積み重ねる。しかし、そんな矢先、伊良部はまたも病魔に襲われる。肺動脈付近に血栓が見つかったのである。サッカー日本代表の高原直泰がW杯前にかかったのと同じエコノミー症候群だった。
 伊良部は、またもリハビリ生活を送ることとなる。その年のオフ、伊良部はレンジャースを自由契約となった。


 G阪神で復活

 レンジャースを自由契約になった伊良部に目をつけたのが日本の阪神タイガースである。伊良部の好きな球団は、周知の通りヤンキース。そして、もう一つが阪神。伊良部は、少年時代から生粋の阪神ファンだった。
 しかも、伊良部の出身は兵庫県の尼崎市。阪神は、地元球団なのである。
 伊良部と阪神の交渉は順調に進み、伊良部は、2002年の暮れには阪神タイガースと2003年の契約を結ぶ。
 8年ぶりに日本のプロ野球に戻ってきた伊良部は、病気も故障もすっかり回復していた。伊良部は、阪神移籍1年目からメジャーの貫禄を見せつけて6月5日には日米通算100勝を達成し、早々と阪神に欠かせぬ戦力となる。年間を通してローテーションで投げ続けた伊良部は、13勝8敗の好成績を残して、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導き、日本中を熱狂させた。





Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system