稲尾和久 
 1937年大分県生まれ。投手。右投右打。背番号24。別府緑ヶ丘高校から1956年西鉄ライオンズに入団。
 1年目からいきなり21勝6敗、防御率1.06で最優秀防御率のタイトルを獲得。新人王にも選ばれた。西鉄もリーグ優勝を果たし、日本シリーズも制した。
 2年目の1957年には35勝6敗、防御率1.37という完璧な成績で最多勝と最優秀防御率のタイトルを手にした。チームも日本シリーズ2連覇。
 1958年にも33勝、防御率1.42で2年連続最多勝・最優秀防御率のタイトルに加えて334奪三振で奪三振王にも輝いた。チームも日本シリーズ3連覇を果たしたが、稲尾はこのシリーズでチームが3連敗したあと、4連投4連勝という奇跡的な快投を演じた。
 1961年には78試合に登板し、スタルヒンが作った日本記録と並ぶシーズン42勝を挙げて、防御率1.69、353奪三振で最多勝・最優秀防御率・奪三振王に輝いた。
 1963年にも28勝16敗、226奪三振で最多勝と奪三振王に輝いてチームをリーグ優勝に導いている。
 しかし、過酷な登板日程により、肩を酷使したことで実働年数は14年と短く、1969年に現役引退。 
 「鉄腕」と呼ばれるタフネスぶりで、日本シリーズ4連投4連勝に象徴されるように、文句も言わずに投げ続けた。
 145キロを超えるストレートと鋭いカーブなどで、勝負球から逆算して配球を組み立てていく頭脳的なピッチングとコントロールで打者を翻弄した。

 通算成績:276勝(歴代8位)137敗、防御率1.98(歴代3位)。2574奪三振(歴代7位)。最多勝4回(1957・1958・1961・1963)最優秀防御率5回(1956〜1958・1961・1966)最多奪三振3回(1958・1961・1963)シーズン最多勝42勝(歴代1位)シーズン78試合登板(歴代1位)シーズン353奪三振(歴代2位)
 
数々の伝説

 @プロ入団時は無名

 稲尾は、漁師の父親に連れられて一緒に漁に出ていたため、毎日でも投げ続けられる体力と強靭な足腰が作られていったという。
 そんな稲尾も、高校に入った頃は捕手をしていた。しかし、2年生のとき、その強肩に目をつけた監督が卒業で抜けた3年生投手の穴埋めに投手として白羽の矢を立てたことから稲尾の投手人生は始まっている。
 そのせいか、プロ入団のときは無名に近く、当初は小倉高から入団した畑隆幸の陰に隠れていた。だが、オープン戦で他の投手を使い果たした三原監督が敗戦処理で登板させたところ、意外にも好投。
 そこからいきなり1年目でエースに登り詰め、21勝6敗、防御率1.06で新人王を獲得したのである。


 Aシーズン78試合登板とシーズン42勝
 
 1961年稲尾は、1シーズンで78試合に登板。これは、2005年に藤川球児が80試合登板を果たして破るまで44年間にわたって日本記録となっていた。
 内訳は、先発が30試合、救援が48試合である。
 そのうち、連投が26試合、中1日が12試合、中2日が22試合にのぼっている。藤川が全て救援登板で100イニングに満たなかったのに対し、稲尾は、先発とロングリリーフが中心だったため、404イニングを投げた。
 その結果、スタルヒンに並ぶ歴代1位のシーズン42勝という不滅の快挙も達成する。タイトルも、最優秀防御率、最多勝、最多奪三振、最高勝率とタイトルを総なめにした。
 稲尾は、1959年にも75試合登板、1963年にも74試合登板という記録も作っており、長年にわたって獅子奮迅の働きをしていた鉄腕投手なのである。


 B日本シリーズ3連敗の後、4連投4連勝

 1958年10月11日に西鉄×巨人の日本シリーズが行われた。
 西鉄のエース稲尾は、5日前から原因不明の高熱に冒されていた。開幕前夜に平熱に戻ったものの、第1戦は、4回3失点で降板。結局2−9で敗れて負け投手となった。
 第2戦も落とした西鉄は、第3戦の先発に稲尾を立てたが、惜しくも巨人藤田元司投手に完封され0−1の敗戦。
 3連敗で後がなくなった西鉄は、第4戦も稲尾を先発に立てた。稲尾は、10安打を浴びながらも4失点で何とか6−4で勝利を手にした。
 第5戦は、3回終了時点で0−3と圧倒的に不利な中で稲尾は登板。好投を続けるうちに味方打線が3点を奪って追いつき、延長戦へ。
 10回裏、稲尾が自らサヨナラ本塁打を放って2勝目を手にした。
 連投をしているうちに調子が戻ってきた稲尾は、第6戦も好投し2−0の3安打完封で3勝目を挙げた。
 そして、第7戦、稲尾は、8回まで無失点に抑え、9回に長嶋茂雄にランニング本塁打を浴びたものの、1失点完投で見事日本一となった。
 世間は「神様、仏様、稲尾様」と呼んで賞賛した。


 C20連勝

 1957年、プロ2年目の稲尾は、この年もシーズン当初から好投を続ける。
 そして、7月18日の大映戦での完封勝利から負けることを忘れ、9月3日の毎日戦で勝利投手になった稲尾は、パ新記録となる14連勝を記録。
 そして、10月10日の毎日戦では松田清(巨人)の19連勝を抜く20連勝の快挙を達成した。
 この年、稲尾は、33勝を挙げて、チームを連覇に導いている。


 Dルーキー投手が日本シリーズで決勝打

 ルーキーの1956年、日本シリーズは、西鉄×巨人の対戦となり、1勝1敗で第3戦を迎えた。
 稲尾は、この試合、リリーフに立ち、巨人の好投手大友からライト前にヒットを放った。
 これが決勝打になり、西鉄は第3戦を勝っている。
 稲尾は、新人ながら、自分がマウンドに立っていたらどこに投げるかを考え、外角ストレートを冷静に狙い打ったと言われている。
 

 E日本シリーズ11勝

 1956年から三原監督が率いる西鉄ライオンズは日本シリーズ3連覇。
 それを支えたのは、明らかに1956年に入団した稲尾だった。
 1年目から新人王を獲得し、その後日本シリーズでも好投。
 1958年には4連投4連勝をしている。
 現役通算で積み重ねた勝利数は11勝。これは、巨人の堀内恒夫と並んで歴代1位の記録である。


 F逆算のピッチング

 稲尾の特徴と言えば、コントロールの良さ。そして、何連投でもこなせるタフネスさ。
 しかし、それらの特徴を最大限に生かしていたのが、頭脳的な「逆算のピッチング」である。
 場面や打者の打ち気を考えて、何球目にどのような打ち取り方をするかを逆算し、考えた通りに攻めていくのだ。
 その「逆算のピッチング」を生み出すきっかけになったのが1958年の日本シリーズで長嶋茂雄と対戦したときだという。
 2勝3敗で迎えた第6戦は、2−0で9回裏まで進み、2死1・3塁という場面で、稲尾は打席に長嶋を迎える。第1戦で外角低めのスライダーを3塁打されていた稲尾は、内角高めぎりぎりの3球目で打ち取る計画を立てた。まず外角低めへボールとなるスライダー。2球目はストライクゾーンぎりぎりの外角スライダー。1球目を見逃し、2球目をファウルした長嶋のカウントは1−1。
 稲尾は、勝負と決めていた3球目で内角高めぎりぎりのところへ直球を投げ込んだ。長嶋はキャッチャーファウルフライを打ち上げ、ゲームセット。
 稲尾は、その後、重要な局面では、打ち取る球から逆算して投球を組み立てるようになったという。



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