稲葉 篤紀
 1972年8月、愛知県生まれ。左投左打。外野手。内野手。背番号41(ヤクルト)→58(日本ハム)→41(日本ハム)。中京高校では3年夏にイチローの愛工大名電に決勝で敗れて甲子園出場を逃す。法政大学では1994年の秋季リーグ優勝に貢献する。大学時代、野村克也に見いだされて1995年、ヤクルトにドラフト3位で入団する。
 1年目から1軍で活躍し、規定打席未満ながら打率.307、8本塁打を記録し、ヤクルトのリーグ優勝・日本一に貢献する。
 2年目の1996年にはレギュラーとして打率.310、11本塁打の成績を残して、主力打者に成長する。1997年には21本塁打を放ってヤクルトのリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも打率5割で西武を破っての日本一に貢献する。
 その後、故障で低迷する時期はあったものの、2001年には打率.311、25本塁打、90打点の活躍を見せ、ヤクルトのリーグ優勝・日本一の原動力となる。
 2004年オフにはFA権を行使して、大リーグ挑戦を表明したものの、獲得球団が現れず、日本で獲得を表明した日本ハムに移籍する。
 日本ハムでは打撃改造に取り組み、2006年に打率.307、26本塁打でリーグ優勝に貢献すると、中日との日本シリーズでも打率.353、2本塁打の活躍で日本一に導き、日本シリーズMVPに選出される。
 2007年には打率.334、176安打で首位打者と最多安打のタイトルを獲得し、日本ハムのリーグ優勝に大きく貢献する。
 2008年、2009年にも打率3割を記録して4年連続3割を記録するとともに、2009年のリーグ優勝にも大きく貢献する。
 2012年4月28日の楽天戦で通算2000本安打を達成し、一塁手としてゴールデングラブ賞を獲得する。
 2014年、左ひざ故障により出場機会が減少し、その年限りで現役を引退した。

 腕をたたんでコンパクトに振り抜く安定したスイングで安打と本塁打を放つ中距離打者である。ヤクルト時代は直球に滅法強く、日本ハム移籍後は変化球や内角球にも強くなって打率も本塁打も量産できる強打者として進化し続けている。

通算成績(実働19年 2013年末現在):打率.286、261本塁打、1050打点、2167安打。首位打者1回(2007)、最多安打1回(2007)、日本シリーズMVP1回(2006)、オールスターMVP1回(2011)ベストナイン5回(2001・2006〜2009)、ゴールデングラブ賞5回(2006〜2009・2012)

数々の伝説


 @イチローと同じバッティングセンターで練習

 稲葉は、中学生の頃から父とともに愛知県にある空港バッティングセンターに通い、バッティング練習をしていた。当時、イチローも、父とともに同じバッティングセンターに通っていたが、稲葉は、イチローと会話することはなかったという。
 稲葉は、年下ながら速い球を軽く打ち返すイチローの存在は気になっていたという。また、イチローは、中京高校の主力となった稲葉の存在を記憶しており、稲葉を見て自分ならもっと活躍できるという意識を持ったという。
 稲葉は、高校3年生の夏にイチローがいた愛工大名電と決勝戦で対戦し、敗れて甲子園出場を逃している。


 A偶然、野村克也の目に留まる

 法政大学に進んだ稲葉は、プロからあまり注目される存在ではなかった。大学時代の通算成績は、打率.280、6本塁打であり、近鉄があいさつに来た程度だった。
 しかし、ヤクルトの野村克也監督は、1994年5月に息子克則がいる明治大学が法政大学と対戦する試合を観に訪れる。稲葉は、その試合で本塁打を放つ活躍を見せる。
 そして、野村が再度、克則の応援で観戦に訪れた明治大学×法政大学戦でも稲葉は、本塁打を放ち、即戦力の左打者を探してきた野村は、稲葉獲得をヤクルト球団に要請する。ヤクルトは、稲葉が非力という理由でドラフトのリストから外していたが、野村の強力な要請によってドラフト3位で指名することになる。


 Bヤクルトでプロ初打席本塁打と猛打賞

 プロ入り後、2軍で活躍した稲葉は、1軍に呼び出されて6月21日の広島戦に8番1塁として出場する。当時、1塁を守っていたオマリーが故障欠場して急遽、先発出場することになったのである。
 稲葉は、2回の第1打席で広島の先発紀藤真琴から右中間スタンドへ飛び込む先制2ラン本塁打を放つ。
 2打席目にもライト前安打を放ち、4打席目にもライト前にタイムリー安打を放って、猛打賞を記録する。
 稲葉は、この年、67試合出場ながら打率.307、8本塁打、40打点の活躍をを見せて、入団1年目にしてヤクルトのリーグ優勝に大きく貢献する。


 Cヤクルト黄金時代

 稲葉が入団した時、ヤクルトは、野村克也監督の下で黄金時代を迎えていた。入団1年目の1995年からリーグ優勝・日本一に貢献した稲葉は、1997年には主力打者として打率.267、21本塁打、65打点の活躍でリーグ優勝に貢献する。
 そして、西武との日本シリーズでは5試合で20打数10安打の打率5割を残し、MVPこそ古田敦也に譲ったものの、ヤクルトを日本一に導く。
 さらに、2001年には、打率.311、25本塁打、90打点と、ヤクルト在籍時最高の成績を残してリーグ優勝に大きく貢献する。近鉄との日本シリーズでも、第3戦では1回に決勝打となる犠牲フライ、優勝を決めた第5戦でも1回に決勝打となる右中間への先制タイムリー安打を放ち、4勝1敗での日本一達成を後押しした。
 稲葉の在籍中、ヤクルトは、3度の日本一に輝く黄金時代となったのである。

 Dサイクル安打達成は降雨コールドゲーム

 稲葉は、2003年7月1日の対横浜戦(松本市野球場)に先発出場する。この日は、激しく雨が降っており、試合成立も危ぶまれる中での開催だった。
 稲葉は、1回表に右中間三塁打を放ち、4回にはライトへソロ本塁打を放つ。そして、5回表には先頭打者としてライト前安打を放つと、打者一巡して回ってきた第4打席では、ライト線へタイムリー二塁打を放って史上56人目のサイクル安打を達成する。
 4打席のみで、しかも5回表に達成したが、試合は、6回裏終了時点で降雨コールドゲームとなった。稲葉は、5回の第4打席が最終打席となる、という奇跡的な記録達成だった。試合は、稲葉の活躍もあって11−5でヤクルトが勝利している。

 また、この日は、ダイエーの村松有人も、サイクル安打を達成しており、同日に2選手がサイクル安打を達成するのは史上初の出来事だった。


 E大リーグ挑戦断念

 2004年、FA制度を取得した稲葉は、オフに憧れだった大リーグ挑戦を決意する。しかし、この年、稲葉は、打率.265、18本塁打と今ひとつの成績であったため、年が変わっても大リーグから獲得の正式表明はなかった。
 ヤクルトは、稲葉を残留させるために2年契約2億円の提示をしていたが、大リーグの獲得球団がないと見るや、単年契約7800万円に変えてきた。逆に日本ハムは、単年契約6000万円ながら、北海道に移った球団を初優勝させるため、稲葉の必要性を訴え続けた。そして、いつまでも稲葉の入団を待つという姿勢を示していた。
 それを意気に感じた稲葉は、熟慮の末、日本ハム入団を決める。


 F稲葉ジャンプ

 稲葉は、日本ハムに移籍したものの、パリーグへの対応に苦しみ、なかなか調子が上がらなかった。そこで、稲葉は、自らの打撃フォームを改造し、調子を取り戻す。
 そして、2006年シーズン前には応援団によって稲葉のファンファーレが制作された。当初は、稲葉の打席時にジャンプをする計画はなかったが、4月13日の楽天戦で、フルキャスト宮城の寒さに耐えかねたファンがジャンプして応援し始めたのがはしりとなった。
 この稲葉ジャンプは、日本ハムの名物となり、札幌ドームをはじめ、多くの球場で行われるようになった。稲葉が打席に入るときに、内外野のスタンドのファンがそろってジャンプする景色は、壮観である。


 G日本シリーズMVP

 2006年、日本ハムは、ヒルマン監督の下、新庄の引退宣言でファンとともに一体となり、82勝54敗の成績でリーグ優勝を果たす。稲葉も、移籍2年目のパリーグに対応し、打率.307、26本塁打の好成績でチームを牽引した。
 クライマックスシリーズも勝ち抜いた日本ハムは、日本シリーズで中日と対戦する。前評判では不利との予想だったものの、日本ハムは、稲葉が第3戦と第5戦で本塁打を放つなど、打率.353、2本塁打、7打点の活躍を見せて、4勝1敗で北海道の日本ハムに初の日本一をもたらす。
 そして、稲葉は、新庄やダルビッシュをしのいで、日本シリーズMVPに選出されたのである。


 HWBCで世界一に貢献

 稲葉は、2009年WBCの日本代表に選出される。当初は、途中出場の多かった稲葉だが、負ければ準決勝進出の道が絶たれてしまうという第2ラウンドのキューバ戦で稲葉は、4番指名打者として出場する。
 稲葉は、4回表にライトへ二塁打を放ってチャンスを作り、相手チームのミスにつけこんで2点を奪った日本が5−0で勝利し、準決勝進出を決める。
 稲葉は、さらに準決勝のアメリカ戦でも4番指名打者として出場し、2回に四球、4回にはライト前安打を放っていずれも得点に結びつけるなど、活躍して9−4でアメリカに圧勝する。
 そして、決勝の韓国戦でも、途中出場ながら8回にライトへ2塁打を放ってチャンスを作り、3点目へつなげる活躍を見せる。そして、延長10回には、無死1塁からバントを決めて、あのイチローの決勝2点タイムリーへのお膳立てをする。
 稲葉は、WBCを通じて22打数7安打、打率.318で日本代表の世界一連覇に大きく貢献したのである。
 

 I2000本安打達成

 稲葉は、ヤクルトで1年目から66安打を放ち、2年目からはレギュラーに定着して安打を積み重ねる。1999年には故障で35安打に終わるといった苦しいシーズンもあったが、ヤクルトでは10年間で972安打を放つ。
 その稲葉が本領を発揮するのは、日本ハムに移籍してからである。毎年100安打以上を放ち、2007年にはリーグ最多となる176安打を放って打率.334で首位打者も獲得する。日本ハムでは移籍後7年間で994安打を放ったのである。
 そして、2012年、稲葉は、開幕から好調を維持し、打率リーグ1位を維持したまま、4月28日の楽天戦で1回表にヒメネスからライト前に先制タイムリー安打を放って通算2000本安打を達成する。
 プロ野球史上39人目で、大学出身者としては8人目の快挙だった。




(2012年4月作成)

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