今中 慎二
 1971年3月、大阪府生まれ。投手。左投左打。背番号14。大阪桐蔭高校からドラフト1位で1989年に中日入団。
 2年目の1990年に19歳ながら10勝6敗1セーブ、防御率3.86の成績を残して頭角を現す。
 1992年には故障の影響で8勝に終わったものの、1993年には17勝7敗1セーブ、防御率2.20、247奪三振で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得し、沢村賞にも選出された。7月6日のヤクルト戦では1試合16奪三振のセリーグタイ記録を作っている。
 1994年には13勝9敗3セーブ、防御率2.88と先発、抑えにフル回転し、チームが130試合目の最終同率優勝決定戦10.8に至る原動力となった。しかし、先発した10.8では降板して敗戦投手となった。
 1996年まで4年連続2桁勝利を含む6度の2桁勝利を記録した。
 しかし、1996年の7月に左肩を痛め、それでも無理して投げ続けたために、1997年からは左肩痛に悩まされ、不振に陥った。
 1999年には左肩の手術に踏み切り、再起を図ったが、以前の球威は戻らず、2001年限りで現役を引退した。
 巨人戦に通算25勝20敗という好成績を残している。

 同じ投球フォームからしなるような腕の振りで繰り出される140キロ台後半のストレートと80キロ台のスローカーブを武器に、「天才」の名を欲しいままにし、日本を代表する投手に登り詰めた。肩の故障により、全盛期が短かったことが惜しまれる。

通算成績(プロ13年・実働12年):91勝69敗5セーブ、防御率3.15。1129奪三振。最多勝1回(1993)最多奪三振1回(1993)沢村賞1回(1993)ベストナイン1回(1993)ゴールデングラブ賞1回(1993)

数々の伝説


 @スローカーブ

 今中の最大の持ち味は、80〜90キロ台のスローカーブ。しなやかなムチのようにしなる左腕の振りから繰り出される緩く鋭いカーブを完璧に攻略できる打者はいなかった。美しい弧を描いて肩の高さから入ってきて低めいっぱいに決まるその球筋は芸術品であった。
 このスローカーブを支えていたのが140キロ台後半のストレート。スローカーブと同じフォームから繰り出される速球は、星野仙一監督が「カミソリ」と絶賛するほどの切れ味だった。
 そのため、ストレートとスローカーブのコンビネーションで対戦する打者のバットは面白いように空を切った。ストレートの後のスローカーブに打者が体勢を崩して空振りする姿は圧巻だった。
 今中は1993年に247奪三振を記録している。セリーグでこれ以上の記録を求めてさかのぼっていくと、若き日の江夏豊が1971年に記録した267奪三振まで行ってしまう。
 それほど、今中のピッチングは、質が高かったのである。


 A最優秀防御率をかけたダブルヘッダー連続先発

 1991年10月15日、中日のシーズン最終戦は、広島とのダブルヘッダーであった。
 既に広島の優勝が決まっており、関心はタイトル争いに移っている。
 今中は、防御率1位の佐々岡真司の防御率2.44を追って2.55の成績を残していた。
 1試合目に先発した今中は9回1失点で完投し、9−1で中日が勝った。この時点で今中の防御率は、2.48に上がっていた。
 もし、今中があと4回を無失点に抑えれば、今中は佐々岡を抜いて防御率1位に躍り出ることができる。
 今中は、わずか20分後に行われた2試合目にも先発した。
 先頭打者の正田耕三に2塁打を浴びたものの、今中は巧みなけん制で刺す。しかし、広島も佐々岡のタイトル獲得を援護すべく、ヒット、そして盗塁とつないで、野村謙二郎のヒットで1点をもぎとった。
 今中の最優秀防御率のタイトルへの夢は初回で絶たれてしまったのである。


 B沢村賞

 1993年は、今中の年だったと言っても過言ではない。17勝7敗で山本昌広、野村弘樹と並んで最多勝を獲得し、247もの三振を奪って最多奪三振のタイトルを獲得している。1990年代のセリーグでこれを超えるシーズン奪三振を記録した投手は1人もいない。
 しかも、7月6日のヤクルト戦では毎回の16奪三振を奪い、これはセリーグタイ記録でもあった。
 防御率も2.20で2位。
 これ以外にもベストナイン、ゴールデングラブ賞と、多くの賞をもぎとっている。
 シーズン終了後、今中は、沢村賞に選出される。中日では杉下茂、権藤博、小川健太郎、星野仙一、小松辰雄に続く快挙だった。


 C伝説の10.8で敗戦投手

 1994年10月8日、今中は、巨人との最終試合に先発する。この試合は、69勝60敗で同率首位となった中日と巨人の対戦で、勝った方がリーグ優勝という世紀の1戦だった。
 緊迫した雰囲気の中、今中は1回表の巨人の攻撃を3人で簡単に抑える。
 しかし、2回表は、巨人の四番打者落合博満からであった。今中の投げた3球目は、外角やや真ん中よりに入る直球。
 スローカーブを使わずに直球勝負に出た今中は、落合に右中間スタンド中段に運ばれる完璧な先制本塁打を浴びた。
 これでリズムを崩した今中は、この回さらに1点を失う。中日は2回裏に同点に追いついたものの、3回表、今中はまたしても落合に勝ち越しのタイムリーを打たれる。これが結果的に決勝点となった。4回にも2本塁打を浴びた今中は、この回で降板。試合は6−3で巨人が勝って優勝し、今中は4回8安打5失点で敗戦投手となった。落合との対戦で得意のスローカーブが投げられなかったせいで流れが大きく変わったことは今や伝説となっている。


 D故障との闘い

 今中は、「天才」と呼ばれると同時に「ガラスのエース」と呼ばれることもあった。おそらく1992年の故障や1994年の10.8での降板により、マスコミが彼にそんな称号を与えてしまったのだろう。
 1996年7月、今中は、大きな岐路に立たされる。チームを支えてきた左肩に異変が起こったのだ。今中は、左肩の炎症のため、一時登録を抹消されるものの、巨人との優勝争いのさなかにあったため、一軍に呼び戻されて投げ続けることになる。
 翌1997年、今中の左肩炎症は悪化し、不振に陥る。この年わずか2勝。翌年も2勝。
 1999年には手術を行い、復活にかけたものの、以前の球威が戻ることはなく、2001年限りで現役を引退する決意をした。
 このときわずか30歳。ガラスのように美しい輝きを見せながら、太く短く砕け散った野球人生だった。




Copyright (C) 2001-2002 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system