池山 隆寛
 1965年12月、兵庫県生まれ。右投右打。遊撃手・三塁手等。背番号36→1→36。市立尼崎高校3年のとき、夏の甲子園に出場し、2試合で4安打を放つ。ドラフトでは2位でヤクルト・巨人・近鉄の同時指名を受け、交渉権を得たヤクルトへ1984年に入団。
 1986年にプロ初本塁打を放つと、1987年にはレギュラーを獲得して13本塁打を残す。
 1988年には31本塁打を放ち、ベストナインにも選ばれて、一気にリーグを代表するスラッガーとなった。その年から5年連続30本塁打以上という遊撃手新記録を作り上げている。
 1989年には自己最高の34本塁打を放った。
 1990年には打率.303、31本塁打、97打点という好成績を残している。また、この年の8月には中日戦でサイクル安打を達成した。
 1992年は、打率.279、30本塁打、79打点でヤクルトを14年ぶりのリーグ優勝に導き、ベストナインとゴールデングラブ賞を獲得する。日本シリーズでも2本塁打を放ったが、チームは西武に3勝4敗で敗れた。
 1993年にも24本塁打でヤクルトのリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでもチームが西武を4勝3敗で破って日本一となるのに貢献した。
 1995年には19本塁打、70打点でヤクルトの日本一に貢献したが、1996年にアキレス腱を痛めて半年を棒に振り、ヤクルトは4位に落ちた。
 1997年には復活して18本塁打、79打点で、ヤクルトを再び日本一に押し上げた。
 その後も、故障と闘いながら本塁打を積み重ねていたが、次第に代打での出場が増えていく。
 2000年からは背番号を36に戻して故障克服を目指したが、その後も故障に悩まされ、2002年限りで現役を引退した。

 フルスイングをして本塁打か三振かという豪快なバッティングスタイルによって「ブンブン丸」との異名で恐れられたスラッガーである。守備でも遊撃手として華麗なプレーで多くのピンチを救い、攻守にわたる活躍でヤクルトの黄金時代を作り上げた。

 通算成績(実働19年):打率.262、304本塁打、898打点、1521安打。108盗塁。1440三振。ベストナイン5回(1988〜1990・1992・1993)ゴールデングラブ賞1回(1992)

数々の伝説


  @苦しんだ入団当初

 ブンブン丸で一世を風靡する池山も、入団当初は本塁打が出なかった。入団した年の8月に1軍で試合に出場したものの、そこから2年間は本塁打が出ていない。1年目は7打席立ったものの無安打。2年目も85打席立ちながら本塁打は出ず、打率も.141と低調だった。
 ようやくプロ1号が出たのは3年目に入った1986年6月12日の大洋戦。実にプロ142打席目のことだった。


  A遊撃手として史上初の5年連続30本塁打以上

 1987年に遊撃手としてレギュラーの座に着いた池山は、豪快なスイングでそれまでの遊撃手のイメージを大きく覆す。
 パワーでバックスクリーンへいとも簡単に放り込んでしまうスケールの大きいバッティングで、1988年にはシーズン31本塁打の記録を残した。
 しかも、その活躍は、1年で終わらなかった。1989年に自己最多の34本塁打を放つなど、ショートを守りながら5年連続30本塁打以上という脅威の記録を打ち立てる。
 これは、遊撃手として史上初の快挙だった。


  Bブンブン丸

 池山の愛称は言わずと知れた「ブンブン丸」だ。まるで、球場全体にブンブンという音が響き渡りそうなほど、バットを思いっきり振り回すバッティングから生まれた。当てに行って後悔するよりは、結果を恐れずに全力で振り切りたい。
 スイングに全身全霊を捧げて5年連続30本塁打以上を放つスラッガーとなった。
 その一方で、全力で振り回すだけに三振の数も増える。リーグ優勝した1992年にも30本塁打を放ちながら、148三振でセリーグ三振王になるなど、計3度の三振王に輝いている。
 三振をしながら、その鋭く大きなスイングに投手が怯えてしまう。そして、ファンは、その空振りを見て次の打席の本塁打を期待する。それがブンブン丸の真骨頂だった。


  C巨人の選手達をしのぐ人気

 1988年、池山は、オールスターゲームにファン投票で選出される。しかも、全選手中のトップとなる投票数を得ていた。
 1990年代に入ってヤクルトが強くなるにつて、ヤクルトや池山の人気は、最高潮を迎えた。神宮球場には連日若い女性ファンが多く駆けつけるようになった。国民の五割近くが巨人ファンと言われる日本の中で、池山を筆頭としたヤクルトの選手達は、巨人の選手達をしのぐほどの人気を誇ったのである。


  D華麗な守備

 豪快な本塁打のイメージに隠れがちだが、池山は、守備でも魅せた選手である。スラッガーでありながら、守りの負担が大きい遊撃手としてヤクルトの守備の要となった。
 池山は、ゴールデングラブ賞こそ1992年の1回だけしか獲得していないものの、華麗な横っ飛びやフィールディングには定評があった。
 そんな池山だからこそ、守備で日本記録も作っている。1991年に遊撃手としてのシーズン守備率.9941の日本新記録を樹立したのだ。刺殺数+補殺数が682個で、失策はわずか4個だった。
 池山は、現役時代を通じて遊撃手として5度ベストナインに輝いている。攻守の総合力において、池山は、1980年代後半から1990年代半ばにかけてリーグ最高の遊撃手だったと言えるだろう。


  E1イニング2本塁打7打点

 1993年5月19日、池山は、広島戦に先発出場する。序盤から試合は荒れて3回表を終わったところでスコアは2−5と広島にリードを許していた。しかし、3回裏、ヤクルトは大きなチャンスを得る。無死満塁で打席には池山。ここで池山は、鈴木健投手からレフトスタンド上段に飛び込む見事な満塁本塁打を放った。スコアは6−5と逆転する。
 ヤクルトの猛攻は、これだけでは終わらなかった。打者一巡して2死1・2塁で再び池山につないだのだ。池山は、期待に応えて3ラン本塁打を放った。これでスコアは13-5である。
 1イニング2本塁打も歴代12人目の日本タイ記録であり、1イニング7打点も42年ぶり歴代2人目の日本タイ記録だった。
 その試合は、池山の2発で決まるかと思われたが、広島が驚異的な粘りを見せて16−16で延長戦に突入し、14回裏にようやくヤクルトが1点を奪ってサヨナラ勝ちを収める、という史上最大得点1点差試合でもあった。


  Fヤクルト黄金時代の中核

 1990年、ヤクルトは、知将野村克也を監督に迎え、上昇を始める。1991年に3位に上がると1992年には14年ぶりのリーグ優勝を果たす。
 池山は、ヤクルトのクリーンアップの一角を担い、古田敦也・広沢克己らとともに打線を支えた。この年の池山の成績は打率.279、30本塁打、79打点。タイトルこそ獲れなかったものの、池山の活躍なくして優勝はなかったと言えるだろう。
 池山は、野村監督就任後、データ重視の方針により、常に本塁打を狙うフルスイングからの転換を図る。三振を減らしてヒットを増やせるように、カウントによってはコンパクトなスイングに変えたのである。いかなるときにもあくまでフルスイングを貫くか、時にはチームプレーのためにフルスイングを捨てるか。悩んだ末の決断だったという。
 これにより、池山は、三振の数を減らし、チームプレーのバッティングを重視してヤクルトの黄金時代を作り上げていく。しかし、その打撃改造で、池山は、少しずつフォームを崩し、本塁打数が減ってしまうという逆効果も生んだ。この打撃改造については、未だにファンの間で賛否が分かれるほどである。


  G生え抜きとして史上初の通算300号

 2001年5月6日の広島戦で、池山は、7回2死2、3塁のチャンスに代打で登場する。そして、山崎健投手の直球を弾き返した打球は、右中間スタンドへ吸い込まれていった。
 この本塁打がヤクルト生え抜き選手としては初の通算300号本塁打となった。試合は、激しい乱打戦となっていたが、池山の本塁打が効いて、ヤクルトが15ー11で打ち勝っている。


  H最後はフルスイングの三振で引退

 池山は、1987年から6年連続100三振以上を記録するなど、日本を代表するホームランバッターである一方でその代償も払っている。
 2002年10月17日。池山は、この広島戦を最後に現役を引退することが決まっていた。先発で出場した池山は、延長戦になっても出場し続ける。そして、1点リードされた10回裏2死2塁の場面で池山に打席が回ってきた。その前の打席で二塁打を放っていた池山は、フルスイングに賭けた。長谷川昌幸投手が投げた1球目、2球目の速いストレートに豪快な空振り。3球目のストレートにもフルスイングで挑んだが、結果は空振三振。池山は、「ブンブン丸」と呼ばれた自らの原点に戻って現役生活に幕を下ろした。これが通算1440個目の三振だった。





Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system