1946年8月、山口県生まれ。右投右打。投手。背番号20。下関商業高校で2年生の春のセンバツ大会で優勝、夏の甲子園で準優勝。3年生のセンバツ大会では2回戦敗退した。
1965年、西鉄ライオンズに入団。同期にあの尾崎将司がいた。
入団1年目に20勝10敗、防御率2.27という優れた成績を残して新人王に輝く。
3年目には23勝14敗、防御率2.31で最多勝のタイトルを獲得し、6完封も最多であった。
入団以降5年間に渡ってシーズン15勝以上という超一流の成績を残した。
しかし、入団6年目の1970年、通算100勝を達成するが、暴力団がらみの八百長疑惑が明るみになった「黒い霧事件」に巻き込まれ、プロ野球界から永久追放の処分を受ける。先輩から受け取ったため、返せなかった100万円が池永の投手生命を奪った。
投手としての絶頂期にいた池永は、突如プロ野球界から消えた。このとき弱冠23歳。
2005年4月にようやく永久追放処分が解除になり、35年ぶりに復権した。
バネのきいて豪快で重心が低い投球フォームから繰り出される140キロ台後半の直球とシュート・スライダーのコンビネーションで抜群のコントロールを誇り、安定した投球を見せた。
もし、黒い霧事件で永久追放されていなければ、200勝から300勝はしていたであろうと言われている。
通算成績(実働5年1ヶ月):103勝65敗、防御率2.36、793奪三振。新人王(1965)最多勝(1967)最多完封(1967)
|