飯田 徳治
 1924年4月、神奈川県生まれ。右投右打。一塁手・外野手。背番号23(南海・国鉄)。浅野綜合中学校から社会人野球の東京鉄道管理局に進んで活躍。都市対抗野球で高打率を残して注目を集める。
 1947年に南海へ入団し、1年目から94試合に出場する。
 2年目の1948年にはレギュラーとして92打点を挙げる活躍を見せて南海の初優勝に貢献。3年目の1949年には打率.322、27本塁打、101打点、21盗塁という好成績を残して日本を代表する選手に成長する。
 1950年には打率.327、23本塁打、97打点、30盗塁を残し、初のベストナインに選出される。
 1951年には87打点で打点王を獲得し、南海のリーグ優勝に貢献する。1952年には打率.323、18本塁打、86打点で2年連続打点王に輝くとともに南海のリーグ優勝の原動力となった。この年、初めて40盗塁の大台に乗せ、153安打は、リーグ最多安打だった。
 1954年にも打率.296、48盗塁でリーグ優勝に大きく貢献し、4年連続ベストナインに選出される。
 1955年には外野手に転向し、打率.310、14本塁打、75打点、42盗塁の活躍でチームをリーグ優勝に導き、シーズンMVPを獲得する。この年、163安打で2度目の最多安打に輝いている。
 1957年にはセリーグの国鉄に移籍して再び一塁手に戻り、40盗塁を決めて初の盗塁王を獲得するとともに、6年連続40盗塁以上を達成する。
 1958年は、アキレス腱断裂の故障により、1948年から続いていた連続試合出場が1246試合で止まり、シーズンのほとんどを棒に振る。
 しかし、1959年にはリーグ2位となる打率.296で見事な復活を果たす。
 1963年限りで現役を引退。
 1966年から2年間、サンケイの監督を務め、1969年には南海の監督を務めた。
 1981年、殿堂入り。

 謹厳実直に野球に取り組み、打っては中距離ヒッターの安打製造機として、守っては捕球の名手として、走っては俊足として南海の黄金時代を築いた。樹立した連続試合出場記録は、その後22年間破られることがなかった。

通算成績(実動17年)打率.284、183本塁打、969打点、390盗塁、1978安打。打点王2回(1951〜1952)盗塁王1回(1957)最多安打2回(1952・1955)シーズンMVP1回(1955)ベストナイン5回(1950〜1953・1955)

数々の伝説


 @シーズンMVP

 1955年、守備の負担減を考えて一塁手から外野手に転向することになった飯田は、開幕から11試合連続安打で打率.429を記録する好調な打撃を見せる。1955年8月24日のトンボ戦ではサイクル安打を達成するなど、シーズンを通して安打を量産したのである。
 最終的にはシーズン打率.310でリーグ4位に食い込み、14本塁打、75打点、42盗塁という走攻守にわたって素晴らしい成績を残す。シーズン163安打は、リーグ最多安打だった。外野手としてベストナインも受賞し、チームも、99勝41敗3分で2位西鉄に9ゲームの大差をつけてリーグ優勝を果たす。
 飯田は、走攻守にわたる活躍が評価され、初のシーズンMVPを受賞した。


 A百万ドルの内野陣

 飯田は、南海の機動力野球の中心選手として1950年から1953年まで一塁手として4年連続ベストナインを獲得する。1951年から1953年まで南海は、パリーグを3連覇、1955年にもリーグ優勝を果たし、黄金時代を築いた。特に1951年は、2位に18.5ゲーム差をつける圧倒的な優勝だった。
 当時の南海は、遊撃手の木塚忠助、三塁手の蔭山和夫、監督兼任二塁手の山本(鶴岡)一人、一塁手の飯田徳治、山本が監督専任の試合では岡本伊三美、と名選手が揃っていた。ワンバウンドや体を伸ばしての捕球の名手だった飯田は、かつて名一塁手として名を馳せた中河美芳の愛称「タコ足」の後継者として「タコ足2世」とまで呼ばれた。
 鉄壁を誇る南海の内野陣は、「100万ドルの内野陣」と呼ばれ、他球団から恐れられた。1952年には、内野手だけで計164盗塁を成功させるという、すさまじい記録も作る。
 また、この年の6月7日の東急戦では自慢の機動力を生かしてプロ野球史上初となる毎回得点を挙げている。


 B日本シリーズで打率5割も敗北

 飯田は、1951年から1953年まで3年連続日本シリーズに出場していたが、3年連続で巨人に敗れて日本一を逃していた。
 1955年の日本シリーズは、またしても巨人との対戦となる。打倒巨人に燃える南海は、巨人を徹底的に研究して第7戦にまでもつれ込む激戦となる。
 飯田は、全7試合に出場して第2戦では決勝本塁打、第3戦では3安打、第5戦でも本塁打を放つ。通算でも22打数11安打の打率.500、2本塁打、5打点、2盗塁という驚異的な成績を残したが、南海は、巨人に3勝4敗で敗れ、またしても日本一を逃すとともに、飯田もMVPを逃すこととなった。


 C10年選手制度のせいで移籍

 1956年の飯田は、打率.252と低迷し、1955年の打率.310から大きく成績を落としたこともあって、球団は、国鉄への移籍を決める。
 これは、飯田が10年選手とはなったものの、その年、成績が大きく落ち込んだため、10年選手制度によるボーナスの支給を出し渋って、移籍させることを決めからである。、飯田は、その代わりに南海が得たトレード金銭を得た。当時、ちょうと南海が打倒巨人のために打線の大型化を模索していた時期とも重なり、ホームランバッターではない飯田が放出される憂き目に遭った。
 飯田は、国鉄移籍1年目からリーグ4位の打率.293、40盗塁を残して盗塁王を獲得し、力が衰えたわけではないことを証明して見せた。


 D6年連続40盗塁以上

 飯田の魅力は、連続出場、守備力、打撃技術と多様だが、俊足の走者としても卓越していた。
 1950年にシーズン30盗塁を記録すると、1952年には40盗塁、1953年には48盗塁を記録し、1957年には40盗塁で盗塁王を獲得するなど、安定した成績を残す。そして、1952年から1957年まで6年連続40盗塁以上を記録したのである。
 南海では5年間にわたって40盗塁以上を記録したものの、当時のパリーグは、盗塁王を獲得するには確実に50盗塁以上する必要があったため、1度も獲得できなかった。


 E1246試合連続試合出場

 飯田は、プロ2年目の1948年にレギュラーを獲得して138試合出場を果たす。特に9月12日からはシーズン終了まで全試合に出場する。これが連続試合出場記録の始まりとなった。
 1956年オフにはセリーグの国鉄に移籍することになるが、飯田は、既に1078試合連続出場を記録していた。1954年には手首に受けた死球の影響で守備や代打の出場でしのいだ時期もあったが、8年連続で全試合出場を果たしていた。
 国鉄に移籍してからも、168試合連続出場を続けていたが、1958年5月24日の阪神戦で、一塁ランナーとして次打者の安打で2塁を回ったところで右アキレス腱を断裂し、連続出場記録は、1246試合で止まる。
 しかし、この記録は、当時のプロ野球新記録だった。欠場はプロとして恥と、酒や夜遊びを絶ち、「謹厳実直」と評された。
 この記録を破ったのが「鉄人」と評された衣笠祥雄で、飯田の記録樹立から実に22年後のことだった。衣笠は、1980年8月4日に飯田の記録を破った後、さらに2215試合連続出場まで記録を伸ばし、当時の世界記録を塗り替えている。


 F故障と復活

 1958年5月24日の阪神戦で右アキレス腱を断裂した飯田は、その年38試合出場に終わり、シーズンをほぼ棒に振ることとなった。
 しかし、元来故障に強い飯田は、翌年のシーズン当初には復帰し、盗塁数こそ故障前より減ったものの、打率.296でリーグ2位に食い込む活躍を見せる。
 1960年にも打率リーグ8位の成績を残して、飯田は、見事に故障から復活を遂げたのである。


 G2000本安打まであと22安打で引退

 飯田は、入団8年目の1954年には通算1000本安打を達成し、このまま行けば、通算2000本安打は確実なペースだった。
 しかし1958年のアキレス腱断裂により、ペースが落ちてしまう。それでも1963年にはシーズン24安打を放って通算1978安打とし、あと22安打放てば通算2000本安打というところまでこぎつけた。
 もう1年現役を続ければ、確実に通算2000本安打達成となるところだったが、飯田は、自らが追い求める打撃ができなくなったことを理由に現役を引退する。当時は、まだ通算2000本安打がそれほど大きな価値を持って語られていなかったのである。
 そのため、飯田は、現在のところ、プロ野球史上で最も2000本安打達成に近づきながら現役を引退した選手である。




(2008年4月作成)

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