井口 資仁
 1974年12月、東京都生まれ。右投右打。内野手。背番号7(ダイエー・ソフトバンク)→15(ホワイトソックス)→12(フィリーズ)→パドレス(10)→9(フィリーズ)→6(ロッテ)。国学院久我山高校では2年生の1991年に夏の甲子園に出場し、初戦敗退。その後、青山大学に進み、東都大学リーグで1994年秋に史上初の三冠王を獲得する。
 1996年には全日本大学野球選手権大会で大会記録となる3本塁打を放って優勝を果たす。また、この年、アトランタ五輪の日本代表として銀メダル獲得にも貢献する。
 大学通算24本塁打の東都リーグ新記録を樹立して、1997年、ドラフト1位でダイエーに入団する。
 1年目は、プロ初打席初安打を記録し、76試合に出場して打率.203、8本塁打を残す。2年目には21本塁打を残すと、3年目は14本塁打を残してソフトバンクのリーグ初優勝と日本一に貢献したものの、打率が伸び悩む。
 4年目の2000年には左肩の負傷で長期離脱し、54試合の出場に終わる。
 2001年は、盗塁王に狙いを定めて走りまくり、44盗塁を記録して盗塁王を獲得するとともに、30本塁打、97打点で初の30本塁打を記録する。ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されている。
 2003年には打率.340、27本塁打、109打点、42盗塁で初の打率3割を達成するとともに、2度目の盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得する。
 2004年にも打率.333、24本塁打、89打点の活躍を見せ、3度目のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞する。その年のオフに大リーグのホワイトソックスへ2年契約で移籍する。
 2005年は、ホワイトソックスのレギュラー二塁手として活躍し、打率.278、15本塁打、71打点、15盗塁の成績を残してチームの地区優勝に貢献する。その後、ポストシーズンでも活躍を見せ、ワールドシリーズに出場。ワールドシリーズも制して、日本一とアメリカ一を達成した日本人初の選手となった。
 2006年にも打率.281、18本塁打、67打点の成績を残す。
 2007年途中には、フィリーズに移籍し、移籍後45試合で打率.304の好成績を残す。2008年にはパドレスとフィリーズの2球団でプレーする。
 2009年には日本球界のロッテと契約し、打率.281、19本塁打の成績を残す。
 2010年は、打率.294、17本塁打、103打点の活躍で、ロッテをシーズン3位に押し上げると、クライマックスシリーズ、日本シリーズでも活躍し、日本一に登り詰める史上最大の下剋上に貢献した。シリーズ打率.371、2本塁打を記録している。
 2013年7月、日米通算2000本安打を達成。

通算成績(2016年末):<日本>打率.271、249本塁打、1002打点、1730安打、176盗塁。
盗塁王2回(2001・2003)ベストナイン3回(2001・2003・2004)ゴールデングラブ賞(2001・2003・2004)
<大リーグ>打率.268、44本塁打、205打点、494安打、48盗塁。
<日米通算>打率.270、293本塁打、1207打点、2224安打、224盗塁。


数々の伝説


 @夏の甲子園では初戦敗退

 井口は、中学時代から社会人野球の熊谷組で練習に参加させてもらって実力を磨き、国学院久我山高校では1年生のときから頭角を現す。2年生の時には、3番遊撃手としてチームを夏の甲子園に導いた。
 甲子園では初戦の池田高校戦で3打数1安打1死球に終わり、チームも延長10回の激闘の末、4−5で敗退する。
 3年生の時には、甲子園に出場することができず、井口は、青山学院大学に進むことになる。


 A東都大学リーグ史上初の三冠王

 青山学院大学では1年生のときからレギュラーとして活躍し、2年生の秋には、打率.348、8本塁打、16打点の活躍で、東都大学リーグ初の三冠王を獲得する。この年には、東都大学リーグ記録となる4試合連続本塁打も達成している。
 さらに、翌1995年には、年間最多本塁打12本の東都大学リーグ新記録を樹立し、大学4年間の通算本塁打数は24本に達して東都大学リーグの歴代新記録を4本も塗り替えた。
 井口は、大学通算で4度の東都大学リーグ優勝に貢献し、全日本大学野球選手権でも2度優勝に導いて、4年生のときは大会記録となる3本塁打を記録する。プロ野球界も、井口を高く評価し、まさに東都大学リーグ史上最高の打者だった。


 Bアトランタ五輪で銀メダル

 1992年、井口は、アトランタ五輪で日本代表に選出されて出場する。井口は、予選リーグのオーストラリア戦で左中間への大きな本塁打を含む4打数2安打1打点、ニカラグア戦で5打数2安打、韓国戦で5打数5安打3打点、イタリア戦で3打数1安打1打点を記録するなど活躍し続けて、日本代表の決勝トーナメント進出に貢献する。
 そして、準決勝のアメリカ戦ではレフトスタンドに本塁打を放つなど、4打数2安打1打点を残し、アメリカを11−2で破って決勝に進むのに大きく貢献した。
 井口は、決勝のキューバ戦では4打数1安打に終わり、9−13で敗れたものの、日本代表は、銀メダルを獲得した。


 Cドラフトの超目玉

 1996年オフのドラフトの超目玉だったのは、青山学院大学の井口である。東都大学リーグで史上初の三冠王を獲得したのをはじめ、アトランタ五輪でも主軸として銀メダルを獲得しており、走攻守が高いレベルで揃った選手としてプロ野球の各球団が井口獲得に名乗りを上げた。
 井口争奪戦は、過剰なまでの競争となり、7億円が動いたという噂まで流れたほどだった。しかし、逆指名で井口が選んだのは、その中で最も金額の提示が低かったダイエーだった。これは、当時のダイエースカウトが井口を2年生から密着マークしていたことと、大学の先輩の小久保が入団していたことが理由として挙げられる。
 井口の入団決定後の報道もすさまじく、井口の一挙手一投足が日々映像で流れるほどの注目度だった。


 D盗塁王

 ドラフト1位でダイエーに入団した井口は、プロ2年目にはレギュラーを獲得したものの、プロ4年目までは成績が伸び悩んでいた。
 その一方で、ドラフト2位の松中信彦がプロ4年目の2000年に3割30本塁打を達成し、ドラフト3位の柴原洋がプロ2年目に打率.314でベストナインに選出され、一流プレーヤーに成長していく。
 そんな中、井口は、プロ4年目の2000年に左肩負傷により離脱し、長期のリハビリに入る。そんなとき、コーチの島田誠は、井口に何かタイトルを狙うよう助言し、井口は、最も可能性のある盗塁王に狙いを定めて、2001年に入る。
 2001年の井口は、果敢に盗塁を狙うスタイルに変更し、全試合に出場して何と44盗塁を成功させて、見事に盗塁王に輝く。それとともに、すり足打法にした打撃も開眼し、自身初の30本塁打を達成する。


 Eダイエーの黄金時代を築く

 井口は、1999年に遊撃手のレギュラーとして14本塁打、14盗塁の活躍でダイエー初のリーグ優勝に貢献する。
 2000年には長期離脱したものの、ダイエーは、2年連続優勝を果たす。そして、王貞治監督による打撃指導が花開いた2001年からは走攻守が揃った強打者として活躍し、2003年には打率.340、27本塁打、109打点、42盗塁という驚異的な成績を残し、ダイエーのリーグ優勝に貢献する。さらに、阪神との日本シリーズでは第6戦で決勝2ラン本塁打、第7戦でも中押しの2ラン本塁打を放つ活躍を見せて、ダイエーを日本一に導いている。
 2004年にも打率.333、24本塁打の活躍でダイエーを1位に導いたものの、プレーオフで西武に敗れて日本シリーズ進出は逃している。
 井口が入団する前年は最下位だったダイエーも、井口が入団後、松中、柴原、城島、小久保らの活躍により、1999年以降は常勝軍団となっていったのである。


 Fワールドシリーズ制覇

 2005年に大リーグのホワイトソックスに移籍した井口は、レギュラー二塁手としてシーズン序盤から活躍し、5月3日には4打数4安打1本塁打の活躍を見せるなど、6月前半まで3割を超える打率を残す。
 その後も、コンスタントに活躍した井口は、打率.278、15本塁打の成績でホワイトソックスの地区優勝に貢献する。
 さらに、レッドソックスとのプレーオフでも第2戦で本塁打を放ち、3連勝に貢献すると、次のエンゼルス戦でも4勝1敗でのリーグ優勝に貢献する。アストロズとのワールドシリーズでも第2戦で1安打、第3戦では2安打1打点を記録するなど、4連勝でのワールドシリーズ制覇に貢献した。これにより、井口は、日米の両シリーズを制覇した日本人初の選手となった。


 G史上最大の下剋上で日本一

 2009年に日本球界に復帰し、ロッテの主力打者となった井口は、2010年も、4月終了時点まで打率.357を残し、その後も勝負強い打撃でシーズンを通じて得点圏打率.340の活躍を見せる。そして、シーズン打率.294、17本塁打、103打点の成績を残して、ロッテを首位に2.5ゲーム差の3位でクライマックスシリーズに導く。
 クライマックスシリーズ1ステージの西武戦でも、井口は、第2戦で決勝のセンター前ヒットを放って勝利に導く。第2ステージでは、ソフトバンクに対して1勝3敗の窮地に立ったものの、井口は、そこから2試合連続猛打賞という驚異的な打棒を見せ、4勝3敗と逆転での日本シリーズ進出に大きく貢献する。
 さらに、井口は、日本シリーズでも第1戦に本塁打を含む猛打賞で勝利に貢献すると、第3戦でも2安打1打点で勝利に貢献し、第7戦でもタイムリー二塁打を放つなど、7試合で打率.371、2本塁打、5打点の活躍でロッテを日本一に導いた。シーズン3位から日本一になったのは、史上初であったため、ロッテの快進撃は「史上最大の下剋上」と呼ばれた。


 H田中将大から日米通算2000本安打

 2013年7月26日、井口は、楽天戦の1−1の同点で迎えた6回表、楽天のエース田中将大から左中間スタンド中段に飛び込む本塁打を放ち、日本人としては史上5人目の日米通算2000本安打を達成する。日本で1506本、大リーグで494本を積み重ねた。
 この年、田中は、開幕から13連勝を続けており、防御率も1点台前半と、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そのため、井口は、この日を迎えたとき、2000本安打まで残り2本だったが、この試合での達成はないと判断し、家族を球場に呼んでいなかったという。
 この試合は、井口が本塁打を放って9回表までロッテが2−1とリードしたものの、9回裏に逆転サヨナラ負けを喫し、田中は、開幕14連勝を達成している。





(2013年8月作成)

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