イチロー
 本名:鈴木一朗。1973年10月、愛知県生まれ。右投左打。外野手。背番号51(オリックス・マリナーズ)→31(ヤンキース)→51(マーリンズ)。愛工大名電で甲子園に2度出場し、いずれも初戦敗退。1992年、ドラフト4位、年俸430万円でオリックスに入団。
 2年間の下積生活を経て、仰木監督就任の1994年、レギュラーに定着して史上初の200本安打(最終成績210安打、日本歴代1位)を達成し、打率.385で首位打者を獲得する。以来、7年連続で首位打者を獲得する(歴代1位)。
 1995年には80打点、49盗塁で打点王・盗塁王も獲得してオリックスをリーグ優勝に導き、シーズンMVPに選出される。1996年には3年連続MVPを獲得し、チームも巨人を倒して日本一となる。
 2000年には日本歴代2位の打率.387を残し、2000年12月、14億円の移籍金で大リーグのシアトル・マリナーズと契約。日本人野手として初の大リーガーとなる。
 2001年、大リーグではルーキーながら打率.350、242安打、56盗塁で、首位打者、最多安打、盗塁王という3つの主要タイトルを獲得してマリナーズの地区優勝に貢献し、新人王とアメリカンリーグMVPにも選ばれる。
 2002年も打率.321で208安打と2年連続200安打を達成するが、打率は惜しくも4位に終わる。
 2004年には月間50安打以上を3回達成する大リーグ記録を作り、シーズン安打262本は84年ぶりに大リーグ記録を更新する快挙となった。打率.372で大リーグ2度目の首位打者も獲得した。
 2006年に行われた第1回WBCでは日本代表の中心で牽引し、日本を世界一に導く。
 2007年には大リーグのオールスターゲームで史上初のランニング本塁打を放ち、オールスターMVPに輝いた。このシーズンは、打率.351の高打率を残している。
 2008年に107年ぶりとなる8年連続シーズン200安打を達成すると、2009年には前人未到の9年連続シーズン200安打を達成し、打率.352の好成績も残した。また、この年の3月には第2回WBCでチームリーダーとして日本代表を牽引し、決勝の韓国戦で決勝打を放って世界一連覇に貢献した。
 2010年には10年連続シーズン200安打を達成している。2012年シーズン途中にはヤンキースへ移籍し、地区優勝に貢献した。
 2013年8月には日本人としては前人未到の日米通算4000本安打を達成する。
 2015年にはマーリンズに移籍した。2016年6月には日米通算4257安打を達成し、プロ通算史上最多安打記録を樹立した。

 彼独特の振り子打法は、足を捕手側にゆるやかに振り上げて、タイミングを取りながら、足が戻る反動を利用し、打つ瞬間の軸足が投手側の足(左打ちのイチローの場合、右足)になるという、これまでの常識を覆した打ち方である。2000年からはこの打法に修正を加え、それほど足を上げないフォームにしている。

通算成績(2016年末現在):(日本9年:1992〜2000)打率.353、118本塁打、529打点。199盗塁。1278安打。首位打者7回(1994〜2000)、打点王1回(1995)、盗塁王1回(1995)、最多安打5回(1994〜1998)。シーズンMVP3回(1994〜1996)。

(大リーグ16年:2001〜2016)打率.313、114本塁打、760打点。3030安打。508盗塁。首位打者2回(2001・2004)最多安打7回(2001・2004・2006〜2010)盗塁王1回(2001)シーズンMVP1回(2001)
日米通算(25年):打率.324、232本塁打、1289打点、707盗塁。4308安打。

数々の伝説


 @2軍オールスターMVPの賞金

 プロ1年目からイチローは、ウエスタンリーグで高打率を残し、2軍のオールスターに選ばれる(その年、.366でウエスタンリーグの首位打者獲得)。
 そのオールスターで3対3で迎えた8回、代打で登場したイチローは有働から決勝ホームランを放ち、9回にもヒットと盗塁を決めてMVPを獲得し、賞金100万円を手にする。
 しかし、イチローは、その100万円を自分や家族のために使わず、全額を神戸の養護施設に寄付している。もちろん、2軍選手でそのようなことをしたのはプロ野球初である。


 A日本人最高選手の縁

 1993年6月、イチローはプロ入り117試合目にして、ようやく初本塁打を放つ。
 このときマウンドにいた投手が、日本人大リーガー隆盛の先駆者となった大投手野茂英雄であった。
 この本塁打をきっかけに、一軍に定着するかと思われたが、その後数試合に出場しただけで二軍落ちを言い渡されている。

 
 B一日も休まず


 イチローは、チチローの愛称もある父宣之さんとの少年時代からの付ききりの指導で有名である。
 宣之さんは、常にイチローの将来を見据え、野球の理論書を読みあさり、毎日練習に付き合っていた。
 高校入学後は、寮生活のため、そうしたことはできなくなっていったが、高校三年の夏の大会後、三年間のクラブ生活から解放され、遊びや受験といった普通の学生生活をする同級生達を尻目に、プロ入りまで一日も休まずに父子で練習を続けたという。
 いつしかイチローは、「センター前ヒットでいいなら2打席に1回は打てる」というレベルにまで達していた。


 C単独行動

 イチローの個性的な言動は、マスコミでも紹介されているが、彼は、学生時代もほとんど単独行動をしていたという。
 そのため、急に姿を消して他の部員たちを驚かすことがしばしばあったようだが、監督夫人にだけは行き先を告げていたという。
 また、イチローは、甲子園で初戦敗退したときもただ一人泣かずに、翌日から普段の練習に戻っている。三年生の夏、県大会決勝で敗退したときも涙を見せず、「自分の評価を下げないためにも(甲子園に)行かなくてよかったかもしれない」と答えている。
 イチローは、プロ入りしてからも、他人や世間とはある程度、距離を置いているという。こうした常に冷静なところが超一流選手になっても、以前と全く変わらずにいられる理由といわれる。


 D57試合連続出塁

 1994年、1軍レギュラーに定着したイチローは、毎試合出塁を重ね、57試合連続出塁という日本新記録を達成する。
 その後も記録を伸ばし、最終的には69試合連続出塁となった。これは、3ヶ月間、常に1試合に1度は塁に出ていた、というすさまじい記録である。


 E前人未到の200本安打

 1994年、9月14日の日本ハム戦でイチローはシーズン192安打目を打ち、藤村富美男(阪神)の191安打を抜いて日本新記録を達成。
 9月20日のロッテ戦では、1・2打席でヒットを放ってシーズン通算安打を199本としたイチローは、第3打席でも園川から見事なライト線への二塁打を飛ばし、シーズン史上初の200本安打を達成。
 その後も安打を打ち続け、最終戦となった10月9日の近鉄戦第3打席に放った左中間二塁打でシーズン通算210安打としている。


 F連続無三振記録

 1997年6月、イチローは、209打席連続無三振の日本記録を樹立、日本ハム戦で下柳から三振するまで216打席連続無三振をマークした。
 この三振の少なさは高校時代から知られており、3年時の三振はわずか3である。


 G7年連続首位打者

 イチローは、1994年に打率.385で首位打者になって以来、2000年に打率.387の歴代2位の高打率で首位打者になるまで、7年連続で首位打者になっている。これは、張本勲の4年連続を抜いて歴代1位の記録である。
 残念ながら、2001年からは大リーグのシアトル・マリナーズでプレーすることが決まったため、日本での8年連続首位打者はならなかったが、通算7回の首位打者も張本勲と並んで歴代1位となっている。


 H日本人初の野手の大リーガー

 現在まで、1995年にドジャースに入団した野茂をはじめとして、長谷川滋利・伊良部秀輝・佐々木主浩・マック鈴木などの日本人メジャーリーガーが出ているが、野手としては2000年12月に契約したイチローが日本人初の大リーガーである。
 7年連続首位打者の快挙を引っさげての大リーグ移籍は、熾烈な争奪戦が展開され、移籍金14億という破格の金額でマリナーズがイチローの交渉権を得た。
 マリナーズは、イチローと1400万ドルで3年契約を結んでいる。 


 I大リーグでも首位打者を獲得し、MVP

 2001年、マリナーズの1番打者の座についたイチローは、日本で7年連続首位打者獲得の実力を見せ付けるようにヒットを量産する。
 4月2日のアスレチックス戦で先発出場するといきなり2安打。
 4月から5月にかけて23試合連続安打を記録し、6月21日にはついに打率.353まで上げて、アメリカンリーグの首位打者に踊り出た。
 その後、オールスターにもファン投票で出場し、好投手ランディ・ジョンソンから内野安打を放っている。
 オールスター直後は、不調に陥ったものの持ち直し、最終成績は、打率.350、8本塁打、242安打、56盗塁。首位打者と最多安打、盗塁王という3つの主要タイトルを獲得した。日米通算でも8年連続首位打者となった。シーズン242安打も大リーグ新人最多記録で、通算でも歴代9位にあたる記録であった。
 さらに新人王を獲得するとともに、マリナーズを地区優勝に導いた功績が認められ、アメリカンリーグMVPに選出される栄誉を受けた。
 日米でのシーズンMVP獲得はもちろん史上初の快挙である。


 J日本人最速の通算2000本安打達成

 2004年5月21日、イチローは、30歳にして2000本安打を達成する。1998本で迎えたデトロイト・タイガース戦で第2打席にセンター前ヒットを放って王手をかけると、第3打席にもゴロで鋭くセンター前に抜けるヒットを放って一気に2000本に到達したのだ。
 30歳212日での達成は、榎本喜八の31歳229日を抜いて日本人最年少記録。1465試合での達成は、川上哲治の1646試合を抜いて日本人最速記録だった。
 1992年当時、オリックスの2軍打撃コーチだった河村健一郎は、イチローら新人たちにレポートを提出させている。レポートの中でイチローは「12年間で2000本安打を達成する」と書いていたという。常識的には夢のような、馬鹿げた計画だ。
 それから12年余り。イチローは、途方もない計画を予定通り達成してしまったのである。


 K大リーグ歴代新記録となるシーズン262安打

 2004年、イチローの出足は悪かった。4月を終わって打率.255。マリナーズも不調で、新聞紙上にはイチローさえトレード要員になるかも、という過激な記事が踊った。
 しかし、イチローは5月から一気にペースを上げる。5月に50安打を放ったイチローは、7月に51安打を放って打率を3割4分台に上げると、8月には56安打を放って3割7分台に乗せた。
 しかも、1シーズンに月間50安打以上を3回達成というのは大リーグ史上初の快挙だった。
 イチローは、その後も快調に安打を重ねる。そして、10月1日のレンジャース戦、イチローは、第1打席でレフト前ヒットを放ってジョージ・シスラーが1920年に作ったシーズン257安打に並ぶ。そして、新記録のかかった第2打席でも、あっさりセンター前ヒットを放ってシーズン258安打とし、大リーグシーズン安打記録を84年ぶりに塗り替えた。
 イチローは、さらにその後、4本のヒットを重ね、シーズン262安打という金字塔を打ち立てる。年間単打225本も歴代1位で、打率も.372で2位に3分2厘の大差をつけて首位打者となった。


 L第1回WBCの日本代表として世界一に貢献

 2006年2月から3月にかけて真の野球世界一を決める第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開催となった。
 これまでアマチュア世界一を決める大会はあっても、プロを含めた真の世界一を決める大会は存在しなかった。そのため、第1回WBCは、世界中の注目を集めることになった。
 シーズン直前とあって各国から多くの出場辞退者が出る中、このWBCが持つ意義を理解していたイチローは、日本代表を快諾し、中心選手として活躍を見せる。
 日本で1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げる。特にアメリカ戦で見せた先頭打者本塁打、準決勝の韓国戦で見せた試合を決定づけるタイムリーヒット、そして、決勝のキューバ戦での中押しのきっかけとなる2塁打と1点差に詰め寄られた後に突き放すタイムリーヒットは強烈な印象を残した。
 イチローがWBCで残した成績は打率.364、1本塁打、5打点、4盗塁。MVPこそ逃したものの、その存在感は他を圧倒していた。


 M米球宴初のランニングホームランと日本人初の米球宴MVP

 2007年7月10日、イチローは、大リーグのオールスターゲームに先発出場する。初回にピービ(パドレス)と対戦したイチローは、真ん中低めの直球を叩いて1・2塁間を破るライト前ヒットを放つ。そして、3回の第2打席では、シーツ(ブルワーズ)の鋭い落差の変化球に反応してレフト前に落とす芸術的なヒットを放つ。
 5回1死1塁で回ってきた第3打席では、ヤング(パドレス)の内角低めの直球をすくい上げ、右中間への大飛球を放つ。打球は、フェンスを直撃し、右翼手が追った方向とは逆に跳ね返ったため、イチローは、俊足を飛ばしてホームを駆け抜けるランニングホームランとなった。スコアも、アメリカン・リーグが2−1と逆転し、結局5−4でアメリカン・リーグが勝ったため、イチローは、日本人初の米球宴MVPを獲得した。
 また、ランニングホームランも、米球宴史上初の快挙だった。


 N第2回WBC決勝戦で決勝打

 2009年3月5日から始まった第2回WBCは、チーム状態が良好だったのに比べ、イチローは、不振に苦しんだ。それでも、第1ラウンド通過をかけた韓国戦では初回に先頭打者としてライト前ヒットを放って先制点に結び付けるなど、3安打猛打賞で14-2の完勝を呼び込んだ。
 だが、他の試合では本来の打撃をほとんど見せられないまま、3月23日、決勝の韓国戦を迎える。
 しかし、イチローは、第1打席でセンター前ヒットを放つと、7回の第4打席で、2点目に結び付けるバント安打を決める。9回にはライトオーバーの2塁打で猛打賞を記録する。
 それでも、韓国が粘りを見せて、日本は、9回裏に3−3の同点に追いつかれて延長戦に入る。
 延長10回表、日本は、2アウトランナー1、3塁のチャンスをつかんでイチローが打席に入る。イチローは、韓国のクローザー林昌勇からしぶとく粘り、カウント2−2に持ち込む。
 そして、8球目、イチローは、林が投げた真ん中やや低めへのシンカーを見事にとらえてセンター前へのクリーンヒットを放つ。盗塁で2塁に進んでいたランナーも返って、日本は、2点を勝ち越した。これが決勝打となって、日本は、5−3でWBC2連覇を果たし、イチローは、日本中を歓喜の渦に巻き込んだのである。


 O前人未到の9年連続200安打達成

 2009年3月、イチローは、第2回WBCで日本代表をチームリーダーとして牽引し、日本を世界一連覇に導いたが、その多大なプレッシャーにより、胃潰瘍を患って大リーグでは開幕から8試合欠場を余儀なくされた。
 それでも、復帰後のイチローは、例年以上のペースで安打を量産して、9月13日のレンジャーズとのダブルヘッダーでは第1試合に1安打を放って、9年連続200安打に王手をかける。
 そして、レンジャーズとのダブルヘッダー第2試合では第2打席にデレク・ホランド投手からショートへ絶妙なタイムリー内野安打を放って、ついに9年連続200安打の偉業を達成する。
 これは、1894〜1901年のウィリー・キーラーが達成した8年連続200安打の記録を108年ぶりに更新する大記録だった。イチローは、試合後の会見で、先人との競争から解放された感慨を語り、孤高の苦悩をにじませた。


 P世界新のプロ通算4257安打達成

 2016年6月15日、イチローは、パドレス戦の9回にライト線へ豪快な二塁打を放ち、日米通算4257安打を達成した。
 それまでプロ通算の最多安打記録は、大リーグでピート・ローズが達成した4256安打であり、イチローは、日本プロ野球で1278安打、大リーグで2979安打を放ってプロ通算最多安打の世界新記録を樹立した。
 この日は、1回の第1打席の内野安打でピート・ローズの4256安打に並んでおり、9回の第5打席の二塁打で一気に抜き去った。
 イチローのプロ通算4257安打は、その後、ギネス世界記録に認定されている。





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