井端 弘和
 1975年5月、神奈川県生まれ。内野手。右投右打。背番号6(中日)→2(巨人)。堀越高校では2年時に春の選抜と、3年時の夏の甲子園に出場したが、いずれも2回戦で敗退している。亜細亜大学では、3回ベストナインに選出され、1998年、ドラフト5位で中日に入団する。
 1年目の1998年は18試合出場、1999年は出場なしだったものの、2000年には97試合に出場して打率.306と頭角を現す。
 2001年には遊撃手のレギュラーを獲得し、守備率.993のリーグ最高を記録する。
 2002年には打率.290を記録し、初のベストナインに選出される。
 2004年には打率.302、6本塁打、57打点、21盗塁、18犠打の成績でリーグ最多犠打を記録して、中日のリーグ優勝に大きく貢献する。ベストナイン、ゴールデングラブ賞にも選出される。
 2005年には打率.323、6本塁打、63打点、22盗塁の活躍を見せたが、リーグ優勝は逃している。
 2006年には打率.283、8本塁打、48打点、17盗塁の活躍を見せ、リーグ優勝に貢献する。
 2007年には打率.296、5本塁打、45打点、23盗塁を残し、4年連続ベストナインに選出される。チームも、クライマックスシリーズを5連勝し、日本シリーズでも4勝1敗で日本一に輝く。アジアシリーズでも活躍を見せ、アジア一に貢献してアジアシリーズMVPを獲得する。
 2009年には打率.306を残す。2010年には二塁手に転向し、目の不調で53試合出場にとどまったものの、チームのリーグ優勝に貢献する。
 2011年には打率.234ながら、二塁手としてチームのリーグ優勝に貢献する。 2012年には再び遊撃手に転向し、打率.284を残すとともに、ゴールデングラブ賞を獲得する。
 2013年には第3回WBCに出場し、打率.556を残してベストナインに選出される。その年のオフには巨人に移籍し、2014年は内野の全ポジションを守って87試合に出場し、打率.256を残す。
 2015年限りで現役を引退した。
 
 守備では、広い守備範囲と安定した捕球・送球の技術で名手の名をほしいままにし、荒木とのアライバは史上最高の二遊間と称賛された。また、打っても、粘り強さと右打ちの巧さで安打を量産し、犠打の名手でもあった。

通算成績(実働17年)打率.281、56本塁打、410打点、1912安打、149盗塁、248犠打。ベストナイン5回(2002、2004〜2007)ゴールデングラブ賞7回(2004〜2009、2012)アジアシリーズMVP1回(2007)WBCベストナイン1回(2013)

数々の伝説


 @高校野球でも活躍

 井端は、堀越高校で1992年の春に甲子園に出場し、1回戦の村野工業戦では先制のタイムリー安打を放つなど、2安打3打点の活躍で7−4での1回戦突破に貢献する。2回戦の星陵戦でも1安打を放ったものの、0−4で敗れている。
 1993年の夏にも甲子園に出場した井端は、1回戦の西条農業戦で3回に安打を放って得点に絡むと、8回にも安打を放って3打数2安打で1−0の勝利に貢献している。しかし、2回戦では2打数無安打1四球に終わり、鹿児島商工に0−3で敗れている。


 Aアライバ

 落合博満監督が目指す投手を中心とした守りの野球は、強竜打線に頼りがちだった中日の野球を大きく変えた。
 中でも、その象徴となったのがアライバという愛称で親しまれた荒木・井端の二遊間である。絶妙な守備位置と広い守備範囲、そして確実な捕球技術、正確な送球と判断力を持つ井端は、同じく広い守備範囲を持つ荒木とのコンビで鉄壁を誇った。
 特に二遊間は、最も抜けにくいとまで言われ、抜けそうな当たりを荒木が走りながらバックハンドで捕って、井端にグラブトスし、井端が1塁へ投げてアウトにする連係プレーは、芸術的であった。


 Bリーグ最高守備率9回

 井端の守備で特筆すべきは、捕球から送球までの正確さと無駄のなさである。井端のところへ打球が飛べば安心して見ていられると称されるほどで、遊撃手としては2001年から4年連続を含む8度のリーグ最高守備率を記録し、コンバートによって二塁手をした2011年にもリーグ最高守備率を記録した。
 また、守備率の高さとともに補殺数も多く、2004年からの2年連続を含む4回のリーグ最多補殺を記録しており、守備範囲が広くてミスもしないという完璧な遊撃手だった。


 C日本一とアジアシリーズMVP

 2007年の井端は、打率.296、23盗塁の記録を残し、ベストナインとゴールデングラブ賞に輝くとともに、チームを2位でクライマックスシリーズ進出に導く。
 クライマックスシリーズでも打率.294を残して5連勝での日本シリーズ進出に貢献する。
 日本シリーズでは打率.211に終わったものの、日本一に貢献する。アジアシリーズでは打率.333を残すとともに、決勝戦で9回表に5−5の同点から決勝打となるセンター前安打を放ってアジアシリーズMVPに輝いた。


 Dオールスターで5打席連続安打の日本記録

 2009年7月24日のオールスター第1戦に途中出場した井端は、7回表に左中間へ二塁打を放つと、8回表にはライト前安打を放って2打数2安打を記録する。
 そして、翌7月25日の第2戦では1回裏に左中間への二塁打を放つと、2回裏の第2打席ではライトへの二塁打。さらには5回裏には三塁内野安打を放って、前日から5打席連続安打のオールスタータイ記録を達成する。
 7回にはショートゴロに倒れて記録は止まったものの、9回にもライト前安打を放って5打数4安打の成績でベストバッター賞を受賞する。
 この年のオールスターは2試合制で、井端は、通算7打数6安打で打率.857を記録し、日本シリーズ2試合制の最高打率を更新した。


 Eなんという井端!

 井端が誰も見たことのないプレーを見せてテレビ実況の度肝を抜いたのが2008年のクライマックスシリーズである。
  2008年のクライマックスシリーズ第2ステージ初戦は、緊迫した試合展開となり、3−3のスコアで巨人が8回裏1死満塁のチャンスを作る。
 そこで打席に入ったのが高橋由伸である。高橋は、小林正人の投球に食らいつき、センター前に抜けそうなゴロを放つ。
 前進守備を敷いていた井端は、二塁ベースより二塁寄りでぎりぎり打球をつかむと、その体勢での本塁送球をあきらめ、打球の勢いに任せるように二塁ベースへ向かう。そして、二塁ベースを踏んでアウトにすると、即座に体を反転させて一塁へ矢のような送球をしてダブルプレーをとった。
 セオリーであれば、前進守備で本塁アウトを狙いに行くところを、間に合わないと一瞬で判断してダブルプレーに切り替えて成功させたそのプレーは、実況が思わず「なんという井端!」と絶叫した。解説の江川卓も、今まで見たことがないプレーと絶賛の言葉を贈った。
 試合は、井端の好プレー後、9回表に1点を挙げた中日が4−3で勝利している。


 FWBCで大活躍

 井端の名を世界に知らしめたのが2013年の第3回WBCである。日本代表として出場した井端は、当初はサブの扱いだったものの、攻守で存在感を示してレギュラーの座を勝ち取る。好調を維持し続けた井端は、6試合で18打数10安打、4打点、打率.556を残した。
 特に2次ラウンドの台湾戦では、起死回生の一打を放って日本中を熱狂させた。
 この試合は、2−3と1点を追う展開で9回表を迎える。そして、アウトになれば敗戦という2死1塁の追い詰められた場面で井端が打席に入る。
 1塁走者の鳥谷が盗塁を決めると、井端も、粘った末に腕をたたんでセンター前へ同点打を放ち、日本の窮地を救う。試合は延長の末、4−3で勝利した。
 日本代表は、準決勝でプエルトリコに敗れてベスト4に終わったものの、井端は、WBC2次ラウンドMVPとWBCベストナインに選出されている。


 G右打ち

 井端は、中日時代、主に荒木の後を打つ2番打者であっただけに、荒木を1塁か2塁に置いて打席に入ることが多かった。
 そのため、一二塁間を抜く打球を求められることが多く、荒木が1塁にいるときは1・3塁狙い、荒木が2塁にいるときはタイムリー狙いといったふうに、高い確率でライト前に運び、2人で簡単にチャンスを作って得点を挙げるため、他球団からは最も嫌がられる1・2番として定着した。
 井端の右打ちは、第3回WBCでもいかんなく発揮され、安打を量産したため、全国的に「右打ち」が井端の代名詞となった。
 また、井端は、ファールを打つ技術にも優れ、打っても安打にならない投球は、カットでファールにして投手に球数を投げさせ、最終的に甘い球を仕留めるのを得意としていた。


 H電撃移籍と電撃引退

 2013年オフ、不振と故障によって100試合出場、打率.236に終わった井端は、10月に右足と右肘の手術を行った。そして、契約更改では年俸減額制限を大きく超える減俸提示となり、中日を電撃退団する。
 その後、巨人に入団し、1年目は87試合に出場して、内野のすべてのポジションをこなす活躍を見せる。
 2015年も98試合に出場したものの、同い年の高橋由伸が引退し、巨人監督に就任することが決まったため、高橋とともに引退することを決めていた井端も、電撃引退を発表した。井端は、引退後、すぐに巨人の内野守備走塁コーチに就任することになった。




(2016年1月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system