星野 仙一
 1947年1月、岡山県生まれ。投手。右投右打。背番号22→20。倉敷商業高校から明治大学に進み、東京六大学野球で活躍する。
 1969年にドラフト1位で中日へ入団し、1年目から8勝を挙げて翌年からも安定した成績を残す。
 5年目の1973年に16勝を挙げてエースの座を不動のものとし、1974年には15勝9敗、10セーブ、防御率2.87と先発・抑えでフル回転を見せ、セーブ王と沢村賞を手にする。チームも見事にリーグ優勝を果たし、巨人のV10を阻止する結果となった。
 1971年から1973年にかけて対巨人戦10連勝を記録するなど、球史に残る巨人キラーとして恐れられた。
 1975年にも17勝5敗4セーブ、防御率2.77と好成績を続け、最高勝率のタイトルを獲得する。
 1977年には自己最多の18勝を挙げ、1979年と1981年にも10勝を挙げ、計8回の2桁勝利を記録した。
 1982年、チームは優勝したが、自身は3勝に終わり、現役を引退する。
 1987年から1991年まで中日の監督を務め、1988年にはリーグ優勝を果たす。
 1996年には再び中日の監督に復帰し、1999年に2度目のリーグ優勝を果たしたが、2001年限りで勇退する。
 その直後、プロ野球界の名門球団阪神タイガースがチーム立て直しのために招へいされ、2002年から阪神監督に就任する。
 2003年には序盤からチームを首位争いに加わらせ、5月からは独走態勢を築いて18年ぶりのリーグ優勝に導く。日本シリーズに3勝4敗で日本一を逃した後、健康上の理由から監督を勇退した。
 2007年には北京五輪日本代表監督に就任し、アジア予選を全勝で突破したが、2008年の北京五輪本選では準決勝と3位決定戦で敗れ、4位に終わった。

 ストレートにスライダーを織り交ぜる投球術と並外れた気迫で、中日のエースに君臨した。巨人戦になると異常なまでに闘志を燃やし、通算35勝を挙げている。

 通算成績(実働14年):146勝121敗34S、防御率3.60。1225奪三振。沢村賞1回(1974) セーブ王1回(1974) 最高勝率1回(1975)
数々の伝説

 @明治大学時代、ノーヒットノーラン達成

 明治大学に進学した星野は、1966年秋、立教大学との試合に先発し、立教打線を2四球を出したものの無安打に抑え、ノーヒットノーランを達成した。スコアは5−0で6奪三振という内容であった。
 星野は、大学通算23勝を記録している。
 また、アマチュアでは審判は絶対的な存在であり、審判の判定には潔く従うのが美徳とされているが、星野は、大学1年のときから審判の判定に執拗に抗議をし、周囲を驚かせていたという。


 A巨人入団を希望

 星野は、大学卒業時、巨人入りを希望していた。しかし、巨人は、武相高校の島野修を指名した。星野は、中日に1位指名されて入団。このときから星野の打倒巨人への想いが高まったと言われている。 
 さらに、入団1年目の5月8日には巨人戦に初登板。好投をしたものの、延長10回にサヨナラ負けで黒星がつくという辛酸をなめている。
 1年目は、巨人に1勝3敗。
 この屈辱が星野を巨人キラーに成長させていくことになる。


 B巨人キラー

 1年目、2年目の速球で押しまくる投球からスライダーでかわすピッチングができるようになった3年目の1971年からは、巨人相手に勝ち越すようになった。
 そして1971年8月25日の後楽園球場の巨人戦に救援で勝利を挙げると、その年を対巨人3連勝で締める。
 翌1972年には巨人に3勝0敗、さらに1973年に入っても4連勝し、3年間にまたがって巨人戦10連勝という快挙を成し遂げたのである。
 現役引退も、1982年に6月30日に巨人の淡口憲治に9回に4−2のスコアから同点2ランを浴びて先発を外され、この年の巨人戦成績が0勝3敗に終わったことが決断の理由だったと言われている。
 巨人戦の通算対戦成績は35勝31敗。この35勝は、金田正一の65勝、平松政次の51勝、村山実の39勝、杉下茂の38勝に次いで、あの江夏豊と並んで歴代5位(2001年現在)の記録となっている。
 しかも、この歴代5位までのうち、勝ち越しているのは51勝47敗の平松と、星野だけである。


 C巨人をV9で止める

 巨人は、1965年から1973年まで毎年リーグ優勝を果たし、日本シリーズも勝ち続け、9連覇中の無敵チームだった。主力には、王貞治、長嶋茂雄という大打者が座っていた。
 1974年、星野は、全盛期を迎えており、先発に抑えに活躍を見せ、49試合に登板して15勝9敗10セーブ、防御率2.87の好成績を残し、セーブ王と沢村賞を獲得。
 チームも巨人を引き離して首位を走っていたが、終盤にきて巨人が猛追を見せ、10月12日にようやく優勝を決めた。
 この年、星野は、巨人戦3勝3敗4セーブを記録し、長嶋茂雄は、V10の夢が破れ、現役を引退している。

 
 D3試合連続満塁・サヨナラ・満塁被弾

 リーグ優勝した1974年、星野は、好調だったが、珍記録も作っている。
 5月23日の広島戦の5回裏に山本浩二に満塁本塁打を浴びてKOされると、次の登板となった6月1日の大洋戦の9回裏には2死から長崎慶一にサヨナラソロホームランを浴びた。
 そして、その次の6月4日の阪神戦では1回裏1死満塁で遠井吾郎に満塁本塁打を浴びてしまう。
 3試合連続で屈辱を味わった星野だが、その後は立ち直ってシーズン15勝をマークした。
 星野は、通算8本の満塁本塁打を浴びており、これは金城基康の9本に次いで、歴代2位(2001年現在)の記録である。 

 
 E世紀の珍プレーのせいで大記録を逃す

 1981年、8月26日、星野は、後楽園球場での巨人戦に先発した。巨人は、前年から158試合に渡って連続得点を記録していた。
 星野は、自らがその記録を止める、と意気込んでいたという。
 星野は、初回から気迫みなぎる投球で好投し、6回まで巨人打線を2安打無失点に抑えていた。
 しかし、7回裏2死1塁から事件は起きた。
 巨人の山本功児が星野から放った打球は、ショート後方に上がった平凡なフライになった。
 しかし、ショートを守っていた宇野勝は、後退して帽子を飛ばしながら捕球態勢に入ったものの何と打球をおでこに当てて落としてしまう。
 ボールが左翼ポール際まで転々とする間に、1塁走者は悠々ホームイン。
 巨人の連続得点記録阻止がならなかった星野は、ホームベース付近でグラブを叩き付けて怒りをあらわにした。
 試合は、星野が9回を3安打1失点に抑え、2−1で勝っている。1失点は、宇野のエラーのせいであり、自責点はゼロ。もし宇野のヘディング事件がなければ、星野が巨人の連続試合得点阻止という記録を作っていたことは間違いない。
 宇野のこのヘディング事件は、その後、テレビ番組でプロ野球珍プレー大賞に選ばれ、珍プレーの面白さを日本中に広めることとなった。宇野のヘディングと星野の巨人連続得点記録阻止失敗のインパクトは、今や伝説となり、20世紀最大の珍プレーとまで言われるようになっている。


 F燃える男

 星野は、大学時代から審判に抗議する熱血漢として知られ、プロに入ってからも審判の判定に不満があると、大声と派手なジェスチャーで抗議を繰り広げた。
 「野球は格闘技だ」と言い切り、中でも巨人戦になると、いつにも増して闘志を剥き出しにして投げた。長嶋茂雄の「ヘイ、カモン」の挑発に、真っ向から直球勝負で立ち向かったことは有名である。
 マウンド上で吠え、抑えるとガッツポーズを繰り出す星野に、世間はいつしか「燃える男」の称号を与えていた。
 乱闘となると、星野は、先頭に立って参加するほどであったが、投手だったためか意外にも現役生活で退場は一度もない。
 しかし、監督となった1987年には、早くも5月2日の広島戦で退場処分を受けている。二塁ベース上で川又米利(中日)への正田耕三(広島)の激しいタッチを巡って乱闘になり、真っ先に乱闘に加わった星野は、広島のコーチ・選手を相手に暴れまくったのだ。
 そして、6月11日の巨人戦では、宮下投手から死球を受けたクロマティがマウンド上の宮下投手を殴って投げ倒したため、乱闘となった。星野は、またしても先頭に立って暴れ、巨人の王貞治監督にまで詰め寄るという事態にまで発展させた。
 また、一つのプレーであってもベンチを蹴り上げる、扇風機を殴り壊す、湯のみを割る、など熱く燃えた。
 この闘志が乗り移った中日は、この年に2位に躍進すると、1988年には見事にリーグ優勝を手にするのである。


 G中日の監督として二度の優勝

 1987年に初めて中日の監督に就任すると、巨人が獲得に動いていた二年連続三冠王獲得中の落合博満を1人対4人という世紀のトレードで獲得に成功。この補強と郭源治の守護神起用、星野の熱血采配でこの年2位に躍進した。
 そして翌1988年には、郭が当時の日本記録となる44セーブポイントを挙げる活躍を見せ、6年ぶりのリーグ優勝を果たした。
 1991年に勇退するが、1996年に再び中日の監督に復帰。韓国の至宝、宣銅烈やサムソン・リーを獲得し、野口茂樹を育てるなどして投手王国を築いていった。
 就任4年目の1999年には野口茂樹が19勝、宣銅烈が28セーブを挙げ、監督通算2度目のリーグ優勝を達成している。
 2001年末、中日の監督を山田久志コーチに譲り、勇退した。


 H阪神の監督としてチームを18年ぶりの優勝に導く

 星野が阪神の監督に招へいされたとき、阪神はかつての名門の面影もなく、4年連続最下位に沈んでいた。そして、9年連続のBクラスでもあった。立て直せるのはもはや星野仙一しかいない、と白羽の矢が立ったわけである。

 星野は、積極的な補強と若手の育成に努めた。2002年にチームを4位に押し上げて5年連続最下位を逃れると、さらなる補強の手を緩めず、前大リーガーの伊良部秀輝、広島の四番金本知憲を獲得。補強と星野の熱血采配が絶妙にかみ合って2003年が始まった。
 まず、4月に首位争いから抜け出すと5月からは独走態勢に入る。投手では井川慶・伊良部秀輝・下柳剛・ムーア・ウィリアムスら、打者では今岡誠、矢野輝弘、金本知憲、アリアスらが大活躍を見せた。7月8日には早くもマジック49が点灯する。
 その勢いはとどまるところを知らず、9月15日にはリーグ優勝を決める。2位中日に14.5ゲーム差をつける圧倒的な勝ち方だった。優勝決定の夜、道頓堀川には5000人以上のファンが飛び込んだという。

 日本シリーズは、惜しくもダイエーに3勝4敗で敗れたが、2003年は「虎フィーバー」に沸いた年となった。星野は、大勢のファンに惜しまれながらも自らの健康上の理由からその年限りで監督を勇退した。



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