星野伸之
 1966年、北海道生まれ。左投左打。投手。背番号53・28(阪急・オリックス)→34(阪神)。1984年、旭川工高からドラフト5位で阪急ブレーブス入団(1989年からは球団名がオリックスとなる)。
 1年目は、1軍での出場はなし。2年目に初勝利。
 3年目から頭角を現し、9勝を挙げる。4年目の1987年には11勝を挙げてリーグ最多完封を記録する。以後1997年まで11年連続2桁勝利を挙げる。
 1989年には15勝6敗、防御率3.48の成績を残し、勝率.714で最高勝率のタイトルを獲得する。
 1991年には自己最多の16勝を挙げる活躍を見せると、1992年には13勝を挙げるとともに、5完封で2度目のリーグ最多完封を記録する。
 1995年には11勝し、オリックスのリーグ優勝に貢献。1996年には13勝5敗でオリックスのリーグ優勝と日本一に大きく貢献。勝率.722で2度目の最高勝率のタイトルを手にしている。
 11勝を挙げた1999年オフにFA宣言し、阪神タイガース入りして2年連続開幕投手を務める。
 しかし、移籍2年目の2001年夏に原因不明の頻脈を発症して、わずか1勝に終わる。2002年になっても症状は回復せず、その年限りで現役を引退した。
 1996年には旭川市民栄誉賞受賞。1997年に150勝達成。2001年には通算2000奪三振を達成した。

 MAX130キロに満たない球速ながら、打者から腕の振りが見えない独特のフォームと、80キロ〜100キロ台で低めに決まる大きなカーブと緩急をつけた直球やフォークで芸術的な投球を繰り広げた。

 通算成績(プロ19年・実働18年):176勝140敗2セ 防御率3.64 2041奪三振 最高勝率(1989・1996)

数々の伝説

 @1年間で全球団完封

 1987年、日本ハム戦に先発登板した星野は完封し、そのシーズン1年間だけで西武・近鉄・南海・ロッテ・日本ハムの5球団から完封する、という快記録を達成。これは、パリーグで14年ぶりの記録であり、この年6完封の星野は、リーグ最多完封を記録した。
 星野は、防御率が抜群に良かったわけではないが、どんな球種も同じ腕の振りで、しかも、腕が体に隠れる打ちにくい投げ方であったため、相手打線を術中にはめると、いとも簡単に完封勝利を挙げることができたのである。


 A素手でキャッチ

 星野の球速は、大きく縦に曲がるカーブなら、わずか80キロというスピードである。
 1990年9月20日、東京ドームの日本ハム戦で、星野の投球を中嶋捕手が素手でキャッチし、そのまますぐに投げ返した、という珍記録が残っている。これには、ベンチや観客だけでなく、審判も笑っていた、と伝えられている。中嶋は、「ミットを動かしたけど、届きませんでした」と言い訳をしているが、実際はミットを少しも動かしていなかった。


 B野茂がいて

 星野は、176勝という通算勝利を挙げていながら、最多勝や最優秀防御率、最多奪三振といったタイトルに無縁である。
 勝利数では1989年に15勝で3位、1990年に14勝で3位、1997年に14勝で3位である。防御率では1996年の5位が最高である。
 最も惜しかったのが1991年で、16勝を挙げたものの上に17勝の野茂英雄がいたため、2位であった。


 C110キロのストレート

 星野は、MAX120キロ台後半のストレートを持っているが、実際は、様々なスピードのストレートを使い分けている。特に110キロのストレートは、若い頃、走者無しでバッターのカウントが3ボールになったとき、フォアボールよりヒットを打たれた方がいいため、試しに投げてみたらしい。すると、それで面白いように打ち取れるので、頻繁に使うようになったという。


 D鋭い野次

 星野の投球は、テンポが非常によい。打者に考える時間を与えないために有効な手段なのだが、そんな投球スタイルにする発端となった逸話がある。
 それは、若い頃、秋田で投げたとき、試合時間が非常に長くなった。試合後、観客から「お前がそんな遅い球投げるから、試合時間が長いんだよ」と言われた。それがきっかけとなってテンポのよい投球スタイルにしていったと言われている。


 E11年連続2桁勝利

 星野は、1987年に初の2桁勝利となる11勝を挙げて以降、毎年、先発ローテーションで安定して勝ち星を積み重ねていった。
 エースとして1989年には15勝、1991年には16勝してチームを牽引し、1993年・1994年はいずれも10勝に終わって2桁勝利が途切れそうになりながらなんとか持ちこたえた。
 そして、1997年には14勝を挙げて歴代10位となる11年連続2桁勝利を達成した。その後、この記録を超える投手は現れていない。


 F夢

 星野には2つの夢があった。一つの夢は、140キロ台の速球を使って、力で押すピッチングをすることだった。しかし、星野は、どれだけ速い球を投げようとしても130キロ程度が限界だった。2002年の引退により、140キロ台は夢で終わった。
 もう一つは名球会入りの条件である通算200勝である。こちらは、達成できそうな夢であった。しかし、思わぬ不幸が2001年夏に星野を襲う。原因不明の頻脈という病魔で練習中に倒れてしまったのだ。その症状は、結局完全に回復することなく、2002年には引退を余儀なくされて通算176勝で終わった。200勝まであと24勝であった。



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