堀内 恒夫
 1948年1月、山梨県生まれ。右投右打。投手。背番号21→18。甲府商業高校から第1回ドラフトで1位指名を受け、巨人に入団。
 入団1年目の1966年、いきなり16勝2敗、防御率1.39の好成績を残して最優秀防御率のタイトルを獲得。巨人のV2に大きく貢献し、沢村賞と新人王にも選ばれた。
 2年目にも12勝2敗を記録して2年連続最高勝率を記録すると、その後は、ONの強力な打線とともに、エースとして安定した成績を残し、巨人のV9を支えた。
 1967年10月の広島戦ではノーヒットノーランを達成。
 1972年には26勝9敗、防御率2.91の好成績を残して最多勝を獲得し、ONをしのいでシーズンMVPに輝いている。この年に2度目の沢村賞を受賞。
 1968年に17勝、1970年に18勝、1974年に19勝を挙げるなど、入団の1966年から1978年まで13年連続2桁勝利を残している。 
 1980年に通算200勝を達成し、1983年限りで現役引退。
 巨人のコーチを経て2004年、監督に就任し、2年間指揮を執った。

 左足を豪快に上げ、躍動感あふれるしなやかなフォームで、剛速球と大きなカーブを武器に、エースとしてV9を達成した。また、投手ながら守備力と打撃力にも定評があった。

 通算成績(実働18年):203勝139敗、防御率3.27。1865奪三振。最多勝1回(1972)最優秀防御率1回(1966)最高勝率3回(1966・1967・1972)沢村賞2回(1966・1972)ベストナイン2回(1972・1974)ゴールデングラブ賞7回(1972〜1978)

数々の伝説


 @新人で開幕13連勝

 1966年、堀内は、新人ながら開幕から勝ち続けた。
 まず4月14日の中日戦で初勝利したあと、44イニング連続無失点という記録と56イニング連続自責点ゼロという驚異的な力投を見せた。
 7月27日の阪神戦で勝利投手になるまで開幕から13連勝という記録となった。
 最終的にはシーズン16勝2敗、防御率1.39という好成績を残し、セリーグのシーズン最高勝率記録を更新した。
 もちろん、新人王に選出され、さらに最優秀防御率と沢村賞も獲得している。


 A悪太郎

 堀内は、豪放な性格で知られている。生意気な言動のおかげで「悪太郎」というありがたくない愛称までもらっている。
 「野球をやるならピッチャーしかない。電車や飛行機は俺が乗らなくても動くが、野球は俺が投げなければ始まらない」
 その言葉自体が堀内の性格を示しているが、その他にもやる気のない行動や数々の暴言で首脳陣や相手チームを怒らせている。
 堀内の門限破りは、有名で、寮長に見つからないように寮を抜け出しそうと後ろ向きに歩いて出たという。
 何度見つかって殴られても、門限破りは直らなかったという。
 さらに、現役引退後、コーチになってからも選手のビンタ事件や試合中の乱闘でユニフォームが脱げ、眼鏡が壊れるまで暴れるなど、数々の伝説を残している。


 B155キロの速球

 1966年のシーズン中、後楽園球場のブルペンで、球速の測定が行われた。
 この当時、今のようなスピードガンはなく、直径45センチの輪の中を球が通ると球速が記録されるものが使用された。
 堀内は、前日の試合で完投していたものの50球投げた。そのうち49球が輪から外れて測定不能だったが、輪の中を通った1球が155キロと計測されている。
しかも、これはホーム上を通過した地点の記録のため、スピードガンで計れば、初速で測定されるため、160キロ近く出ていたと言われている。


 Cノーヒットノーラン達成プラス3ホーマー

 1967年10月10日、後楽園球場で行われた巨人×広島戦は、7日に巨人優勝が決まった後の消化試合であった。
 堀内は、そんな気の抜けるような状況下で力投。緊張感がない試合にも関わらず、1本のヒットも許さずに投げ続けた。
 バットの方も、絶好調で2回に宮本洋二郎投手からレフトへソロ本塁打、4回に西川克弘投手からレフトへソロ本塁打、そして6回には西本明和投手からレフトへ2ラン本塁打、8回にはセンター前へタイムリーヒットを放った。
 この試合で堀内は4打数4安打5打点を挙げている。投手で3打席連続本塁打は、史上初だったという。
 そして、ピッチングの方でも9回を1本の安打も許さずに抑えきり、11−0で完封勝利するとともにノーヒットノーランを達成した。
  

 D変化球も抜群
 
 堀内は、155キロの直球とともに、カーブやチェンジアップも鋭い切れがあった。堀内は、小学生の頃、うどんをつくる機械に人差し指を挟まれ、先が1センチほど切断されてしまったというハンディを背負っていたが、親指と中指を巧みに使って落差40センチと言われるカーブを生み出した。
 そして、入団3年目にドジャースのベロビーチキャンプに参加。ナショナルリーグ新人王のビル・シンガーからチェンジアップを教わり、すぐにマスター。巨人の不動のエースに成長していくことになった。
 

 E江夏豊との投げ合い

 巨人×阪神が伝統の一戦として現在まで名を残しているのは、沢村×景浦の対決もあるが、堀内と江夏の投げ合いによるところも大きい。
 江夏と同年代である堀内は、阪神のエース、巨人のエースとして投げ合うことが多かった。三連戦の場合、第1戦で両者が投げ合い、第3戦でも勝てそうになると中1日でリリーフに出てくる、というほどだった。
 その両者は、1972年6月9日に通算100勝目をかけて投げ合うことになった。両者ともに通算99勝だったのである。この年、好調だった堀内は、その試合で阪神打線を完封し、4−0で江夏に投げ勝って通算100勝目を挙げた。
 しかし江夏も、それでは終わらなかった。3年後に通算149勝で150勝目をかけて投げ合ったときは江夏が投げ勝って先に150勝目を挙げたのである。
 

 FV9時代にON以外で唯一のMVP

 巨人は、1965年から1973年まで不滅のV9を達成しているが、その間、シーズンMVPは王が5回、長嶋が3回獲得し、ONで8回までを占めている。
 そして、残りの1回が堀内である。堀内は、1972年、自己初の20勝を突破し、26勝9敗、防御率2.91で最多勝を獲得した。
 そのため、2冠王の王や長嶋を抑えて、この年のシーズンMVPに選ばれたのである。
 

 G日本シリーズ最多勝

 堀内は、V9時代の2年目に入団してV2からV9までエースとして投げ続けた。
 そのため、9年連続日本一という偉業を達成した陰には堀内の好投を抜きには語れない。
 1972年の阪急との日本シリーズでは5試合中4試合に登板し、2勝1敗、防御率3.71でMVPに輝いている。
 さらに翌1973年の南海との対戦では3試合に登板して2勝0敗、防御率1.13という前年以上の活躍で2年連続MVPを獲得している。
 日本シリーズ27試合登板は、単独で歴代1位、通算11勝も稲尾和久と並んで歴代1位である。




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